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葉山コーストパス|新MiUra風土記

この連載新MiUra風土記では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第7回は、三浦半島の中西部、葉山を歩きます。

 知り慣れたはずの海町を、視点をかえて歩いてみたら、もうひとつの葉山が見える。

「きょう逗子の駅で天皇陛下を見たよ!!」と興奮ぎみで話したのは大正生まれの母だった。それは昭和40年中頃のこと。当時、天皇が葉山の御用邸へ出かけるのは、原宿駅からお召し列車で逗子へ。その駅頭からは御料車で葉山の一色いっしきに向かうと聞いていた。

 母が駅で出待ちしていたのか、ただの偶然だったのかは分からない。

 母が昭和天皇に拝謁するのは2度目だったが、敗戦をはさんで逗子で天皇と再会したときの気分はどんなものだったろう。

  逗子駅から一色の葉山御用邸*に向かう道は二つある。海岸をたどる海回りと、トンネルを抜ける山回りは現在の行幸路となり皇族はこの道を使うらしい。

*葉山御用邸:明治27年(1894)大正天皇(1879-1926)の療養先を兼ねた別荘として設置。以後、歴代天皇、皇族が保養所で使用。横須賀線は明治22年(1889)軍港横須賀のために敷設、逗子駅は御用邸の選択地の理由になっている。

 そして、僕は見どころの多い海回りのバスを選ぶ。J R逗子駅から次の京急逗子葉山駅で、一気に女性客が増えた。2年前に駅名に葉山が付いたように、京急電鉄の「葉山女子旅きっぷ」が人気になっていて、平日でも姿が絶えない。

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旗立山はたたてやま

 逗子市と葉山町の境の切通しを抜けると、鐙摺あぶづり。よく視るとカフェの背後に海抜25メートルの小山が屹立している。旗立山だ。鐙摺城説もある三浦義澄*(1127-1200)の物見の山で頼朝勢の石橋山合戦のおり、旗をかざしたという。

*三浦義澄:三浦一族の武将、源頼朝の決起に参加した、鎌倉殿の十三人のひとり。

 旗立山を下ると、向かいに料亭「日影茶屋」が健在で、あの『美は乱調にあり』(瀬戸内寂聴)の「日蔭茶屋事件」*の現場がここだった。3キロ余り先にはすでに天皇の御用邸があり、著名な無政府主義者の醜聞事件はどう伝わったものか。

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*日陰茶屋事件:大正5年(1916)、旅館日蔭茶屋に逗留していた思想家で仏文学者の大杉栄が、自由恋愛思想のはて愛人に刺傷された事件。大杉はこの7年後、関東大震災で憲兵大尉甘粕正彦に謀殺される。日蔭茶屋も倒壊、現在の建物は昭和初期に再建されたもの。創業300余年、茶屋旅館から戦後屋号を変えて料亭へ、菓子店、カフェ、レストランも展開している。

「これから茹でるよ、写真撮るんだったら」と、鐙摺港に着岸したばかりのワカメ漁師が声をかけてくれた。港内にはワカメの天日干しが、湘南の春の風物詩のように揺れている。

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 その脇に「日本ヨット発祥の地」の石碑が残る。太陽と海とヨットマンの戦後葉山のランドマークといえば、ここ「葉山マリーナ」だろう。

 現在の「葉山マリーナ」(1983)は建物も会社も再生されたもので、正面の隅に胴像が置かれていることに気づく人は少ない。三代目鈴木三郎助(1890-1973)の像。味の素の前身、鈴木商店の二代目鈴木三郎助(1868-1931)の息子だ。地元商人だった二代目鈴木三郎助は母なか、妻テルとともに海岸の海藻からヨード原料を抽出、後の「味の素」の成功に繋がる。「葉山マリーナ」は東京五輪(1964)を機に開業された。

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三代目鈴木三郎助の像

 森戸海岸線(県道207号線)を南下すると葉山町の中心、元町だ。狭い旧道に沿って古い店舗が点在、江戸期からの荒物の小峰商店は7代目の店主が「建物は御用邸と同じころできたものだよ」という。永楽家(明治42年、1909)は和菓子店。森戸橋には洋食の菊水亭(明治43年、1910)、小説「太陽の季節」で知られた旅館かぎ家はマンションになった。

 森戸海岸は今、ウィンドサーフィンやSUP(スタンドアップパドルボート)が人気だが、かつては大学のヨット部の聖地だった。元祖葉山の聖地といえば森戸神社、葉山郷総鎮守の森戸大明神だが。

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森戸神社

 神社を参詣すると、僕はいつも本殿裏に向かう。海原を背にして何本もの石碑が立っていて、頼朝から明治天皇、葉山を「発見」したイタリア駐日公使マルチーノ(1843-1903)とドイツ人医師ベルツ博士(1849-1913)記念碑から、石原裕次郎のそれまでが並び、葉山の歴史を想わせる。

 崖っぷちに聳えるのは飛柏槇ひびゃくしんの木だ。樹齢800年、頼朝参拝のおり、三嶋明神から飛来し発芽したという葉山町指定天然記念物。千貫松も頼朝ゆかりの松で、その岩塊は森戸岩層という三浦半島のジオロジカルな見本だ。

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千貫松と森戸岩層

「葉山女子旅きっぷ」の必撮のフォトスポットはこの先の真名瀬しんなせのバス停で、「春の海」の作曲家で筝曲家の宮城道雄(1894-1956)の別荘のそばに三ヶ岡さんがおかのハイキング登山口があり、足力に余裕ある方は挑戦したい。この尾根道から見下ろした相模湾のきらめきは忘れられなく、真名瀬は僕が逗子時代にシュノーケリングに通った海岸で思いが深い。

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真名瀬のバス停

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三ヶ岡

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三ヶ岡から見下ろした相模湾

 一色の三ヶ下さんがした海岸には、旧小田良治別荘(現鹿島建設研修センター)や旧モーア邸が残り、高橋是清、桂太郎、團伊玖磨邸趾には今の大邸宅が往時の空気を継承している。

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旧小田良治別荘

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旧モーア邸

 神奈川県立近代美術館葉山は有栖川宮、高松宮、北白川宮別邸であったところで、隣のしおさい公園は岩倉具視、金子堅太郎、井上毅の別荘だった。大正天皇崩御のさい昭和天皇がここで皇位を継承した場所。園内の海洋生物の博物館は昭和天皇のヒドラなどのコレクションがおもしろく、この方は只者ではなかったぞと思わせる。

 さきのマルチーノ駐日公使やベルツ博士は葉山に別荘をもち、寒村だった葉山を避暑避寒、保養に適した地といい、皇室に御用邸の造営を薦めた。御用邸ができた明治20年代には日本有数の別荘地となる。
 
 さて海岸を離れて、一色の山側の路地に入ってみよう。

 日本画家・山口蓬春ほうしゅん記念館は画伯の自宅兼画室だったもの。日当たりよく四季の花木も愉しめる癒しのスポットだ。「蓬春こみち」を抜けると、時代ものの日本家屋が並び、角にあの小村寿太郎*終焉の地の石碑を見つけた。終世困窮していたという小村は豪邸居並ぶ葉山で借家住いだったらしく、一色の潮騒を耳にして静かに晩生をとじた。

*小村寿太郎:日露戦争時の外相、ポーツマス講和会議代表。

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小村寿太郎終焉の地の石碑

 一色は路地歩きが楽しい。スマホがなくても、町内の壁には手作りの地図があちこちに掲げられている。

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 こんな葉山もあったか?!と佐島さじま石のこみち(三浦半島西岸の佐島産の凝灰岩)で見つけたのが加地かち邸(昭和3年、1928)だ。F.L.ライトの弟子で大谷石を多用した遠藤あらた*の秀作。国指定登録有形文化財となっている。

*遠藤新:1889-1951。帝国ホテル、自由学園明日館講堂など手がける。

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佐島石のこみち

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加地邸

 加地邸から坂を下ると山回りの行幸路。突き当たりには葉山御用邸が見える。こんどは山回りで御用邸から長者ヶ崎へ、泉鏡花「草迷宮」の魔所を探そう。

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。


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