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息遣いが伝わる鉄道と町と、“頑張っている”人たち(阿下喜駅・三岐鉄道北勢線)|終着駅に行ってきました#13

鬱蒼とした森を抜けると、ぱっと視界が開けて、里の景色が広がり、阿下喜あげきの町が近づいてきます。線路幅が新幹線の約半分という軽便鉄道、北勢線の終着駅には、昭和の風景が、今も残っています。
〔連載:終着駅に行ってきました
文=服部夏生 写真=三原久明

「こんなに積もったの、半世紀以上ぶりなんですってよ」

 風呂上りのミネラルウォーターを購入した僕に、レジの女性は、そう声をかけてきた。

「藤原の方では60cmも積もっているんですって」

 ここは、三重県にある阿下喜駅。その斜向かいにある温泉に隣接した売店である。

 窓越しに見える空は、痛いくらいに青かった。冬の透明な陽光が、雪を溶かして、軒先からぽたぽたと水滴が落ちている。朝一番に訪れた時は、建物へのアプローチも雪に覆われていたが、今は濡れた路面が姿を見せている。山間部はいざ知らず、鈴鹿山脈と養老山地のふもとにあたるここ一帯に限って言えば、積雪による大きな影響を受けずに年を越せそうだった。

 町には、年末の華やいだ空気がほんのりと漂っている。

 3回目の阿下喜だった。今回は、ひとりで訪れている。

* * *

 阿下喜駅は三岐鉄道北勢線の終着駅だ。言うまでもなく、前の2回はミハラさんと来ていた。半年前と1年半前。いずれも夏で、懐かしさで鼻の奥がつんとするような旅だった。

 ターミナルの西桑名駅で、模型のような黄色い車両に乗るだけで、心が躍った。

 駅を出ると、築堤を駆け上がり、大きく右に曲がって、JR関西本線と近鉄名古屋線をオーバークロスする。そこから1時間弱、のんびりとした風景の中を、右に左に曲がりながら走り続ける。レールのジョイントで車体が揺れ、坂道に差しかかるとモーターの回転数が上がり、駅が近づくとブレーキが作動して速度が下がる。その動き一つひとつが、意思あるものの如く、つぶさに伝わってくる。「鉄」にとって、楽しくないわけがない。

 車内は、向かい合わせに座った人の膝がぶつかりそうな大きさだ。レール幅762mmは、新幹線の1435mmの約半分。国内では数少なくなった「軽便鉄道」と呼ばれるミニサイズが「電車に乗っている」ことを五感で堪能できる最大の要因だ。

 途中下車した楚原そはら駅は、出てすぐに小さな集落と木立に囲まれた神社があり、踏切をわたると田園が広がっていた。手入れの行き届いた駅舎のベンチに座っていると、下校途中の高校生のカップルが入ってきた。「日本の夏」という題名をつけてもいいような風景の中で、楽しそうに話しているふたりを眺めていると、よくできた青春映画の一シーンに紛れ込んだような気分になった。

 阿下喜駅の一つ手前の、麻生田駅の秘密めいた感じも良かった。駅周辺の鬱蒼とした木立の中をごとごとと抜けると、急に視界が開けて阿下喜の集落へとつながる里山の風景が展開される車窓は、『となりのトトロ』の舞台を連想させるような郷愁を感じさせた。

 この道中だけでも、阿下喜に来る価値はあるだろう。

 終着駅を降り、急な坂道を登った先に広がる阿下喜の集落も、好ましかった。メインストリートの本町通りの商店街は、通り全体も、一軒一軒の店も、人の手できれいにされていることがひと目でわかった。道を一本入ると、これまた手入れされた家屋が連なる。2回目に来た時には、その一角に旧阿下喜駅の駅舎が復元され、近くにはフランス料理店ができていた。町がちゃんと息づいているのである。

 穏やかさを絵にかいたような町の風景に、西にそびえる藤原岳の、山肌が剥き出しとなった石灰採掘場の偉容がアクセントを加えている。

 どこを切り取っても、心地よい場所であった。とは言っても、綺麗な景色を見て、感慨をもよおしているわけにはいかない。書くための「とっかかり」が見つけられなかった。要するに、いい具合の一杯呑む店を見つけ出せなかったのである。

* * *

 最初に阿下喜を訪れたときは、長い取材旅行の合間だった。

 前日の夜は、ミハラさんと福井鉄道の終着駅、越前武生のそばにあるカフェに入った。

 カフェと言っても、お酒も呑めるところである。当地での取材がひと段落した開放感もあって、僕たちはビールを結構な量呑んだ。

「右か左、どっちの道を進むか、悩むことってありますよね」

 他に客がいない安心感もあった。我々と同じ年格好のママに、悩み相談とも愚痴とも取れるような話をする格好になった。

「あるわよね。いくつになっても」

「そういう時って、どうしてきましたか?」

「どうしてきたかなあ」

 酔客の相談なんて、そのまま聞き流しておけばいいのだが、ママは真面目にしばらく考えた。

「私もね、お兄さんみたいに、人に相談もしてきたよ。でもさ、結局『どうしたらいいんだろう』って人に聞く時って、もう自分の中で答えが出ているんだよね」

「そんなもんですかね。でも、悩んじゃうよなあ」

「そうよねえ。まあ、だいたい、後からわかるもんよ。自分にとって、何が本当によかったかなんて」

 越前武生の夜は、ママの人柄も手伝って、どこかささくれていた気持ちを、羽毛の布団でくるんでもらうようなひとときになった。僕が依存を自覚して、お酒を呑むことをやめたのは、少し後だったが、その際には、この夜のことも思い起こした。そして、奇跡みたいに素敵な時間をいくつも過ごせたんだし、もういいんじゃないかな、と踏ん切りをつけたのである。

 阿下喜の町にも、飲食店がないわけではなかった。だが、前日に、人生の分岐点になってしまうようなひとときを過ごしたわけである。お店選びの「ハードル」が高くなってしまうのは致し方なかろう。コロナ禍ということもあって、早仕舞いしているところや、臨時休業のところが多いという現実的な事情もあった。

 仕方なく、宿泊先の桑名まで戻って、目についた酒場に入ったが、予想通り、特筆すべきことはなく、僕とミハラさんは飲み食いに専念して、それなりに酔っぱらいつつも、大人しくホテルに戻ったのである。

 2回目の訪問でも、よそ者がふらふらしてはいけないな、という意識があり、お店探しにあまり積極的になれなかった。収穫の少ない僕に対して、ミハラさんは、彼なりに納得のいく写真が撮れたようだった。ならば、お酒を呑まないにしても、僕が、気になるお店を訪ねつつ、地元の方々の話をお伺いするターンである。

 そう考えて、冬休みで妻子がすでに里帰りしている名古屋の実家に、岡山の自宅からひとりクルマで向かう途中に、寄ることにしたのである。

* * *

 高速道路を降りて、歩道が雪に埋もれた街道を走ることしばし、半年ぶりの阿下喜の町並みに入った。クルマを停めて、本町通りを歩くだけで、記憶がよみがえってきた。朝早くでまだ閉まっているお店も多かったが、見たところ、大きな変化はないようだった。

 前2回の訪問でも、いくつかのお店で話を聞いていた。様々な話題があったが、誰もが共通して、北勢線のことに関しては楽しそうに語ってくれた。

 中でも、町と鉄道の関係を最も端的に話してくれたのは、駅前の交差点で「軽便煎餅」なる焼き菓子を売っている製菓屋の主人だった。

「昔から走っている鉄道だけどね、ずいぶん乗客が減った時期もあるんだよ。でも、三岐鉄道になってからは、鉄道ファンのお客さんも増えてね。あそこまで小さい電車って珍しいからさ」

 北勢線の車両をあしらった焼印が押されたおせんべいに添えられた小さな紙には、軽便鉄道が走る四季豊かな風景を称える文章が印刷されていた。それを読むと、北勢線のことを語る時の、主人の誇らしげな表情が目に浮かんできた。

 北勢線には、1世紀以上に及ぶ歴史がある。

 開通したのは、1914(大正3)年。大山田(現西桑名)駅から楚原駅までだった。線路幅は当時の監督官庁の許可をスムーズに得るため、右に左に路線が曲がっているのは、沿線の協力者や資産家の意見に従い、場合によっては彼らの家のそばに駅を作ったからとされている。

 さまざまな事情こそあれど、江戸時代から員弁いなべ川の高瀬舟に輸送を頼っていた沿線地域の人々にとって、鉄道の開業は革新的な出来事だった。阿下喜の人たちも、楚原まで歩いて北勢線を利用していたというエピソードが残っている。

 楚原から約6km先の阿下喜まで線路が伸びたのは1931(昭和6)年。全線開業と同時に電化も行ない、電車が走るようになった。

 経営母体はいくつかの変遷を経て、1965年から近畿日本鉄道(近鉄)が運営していたが、2000年に北勢線の事業廃止を表明する。合理化では追いつかない収入の大幅減少が理由だ。ピーク時の1975年度には約600万人だった輸送人員が、わずか25年で半分以下にまで減っていたのである。

 だが、沿線自治体は廃線をよしとしなかった。そして、三岐鉄道に鉄道存続への協力を依頼した。三岐鉄道は、北勢線と員弁川を挟んでほぼ並走する三岐線を運行させている鉄道会社である。自治体としては窮余の策だったが、話を持ち込まれた三岐鉄道側は、当初、及び腰だったという。

「いや、〈及び腰〉どころか、実際には、北勢線の廃線により、弊社の輸送実績あるいは経営収支が改善することまでも期待していたのである。(中略)三里駅については、そうした状況(三岐線への需要転移)を想定して、用地を買収して駅舎を改築していた」(*引用は『地域活性化に地方鉄道が果たす役割 三岐鉄道の場合』編著&発行所:四日市大学総合政策学部/三岐鉄道株式会社より)

 リスクを避け、利するところに投資する。一企業としては至極真っ当なスタンスをとっていた三岐鉄道だが、結局「それほどまでに地元の要望が強いならば…」(*同上)と、2003年4月から運行を引き継ぐことを決める。「それほどまでに」とは、設備投資やメンテナンス、線路用地の買収のために必要な費用として、55億円を北勢線の沿線自治体が支援すると申し出たことを指す。さらに、用地買収費用の半分は三重県が負担、車両やレール等は近鉄が無償提供することにもなった。北勢線にまつわる人々のこれでもかという覚悟が、地元企業の当事者意識を刺激したのである。

 三岐鉄道北勢線となってからの変化は目覚ましい。駅の統廃合や廃止移転をした上で、パークアンドライドなどができるよう各駅を整備、さらに国や県からの支援も受けて高速化を実現させ、全線の所要時間を幾分か短くした。阿下喜駅も大リニューアル工事を経て、2006年から新しい駅舎とホームになった。

 インフラの整備と並行して、沿線自治体と連携しながら、親子ツアーなどの集客イベントも、数多く打ち出した。阿下喜駅の脇にも、市民団体が運営する軽便鉄道博物館が設けられ、古い車両などが見学できるようになった。

 数々の努力の結果、乗客は増加を続け、引き継ぎ直後には200万人弱にまで減少していた輸送人員も、コロナ禍で大打撃を受ける直前は、250万人強にまで戻ってきていた。地方鉄道が地域と、まさに一体となって、それぞれの活性化を果たしてきたのである。

* * *

 本町通りと、それに直行する西町通りを歩いているうちに店が開いてきた。以前来た際にも気になっていた食堂ののれんが下がっていた。昼には少し早かったが、入ってみることにした。

「いらっしゃい」

 僕は口あけの客だった。奥の広い厨房から大将がこちらに声をかけ、女将がお茶を持ってきてくれた。

 ずらりと壁に並んだ品書きは、定食、丼もの、ラーメン、うどんに、酒呑みのためと思しき一品料理というラインナップだ。オールドスクールなメニュー構成だが、味噌かつ定食や親子なんばが挟み込まれているところに、尾張と上方がミックスされた独自のカルチャーを感じさせる。ローカルメニューを試してみたい気分もあったが、昔ながらの食堂スタイルに敬意を表して、定番中の定番、かつ丼を頼むことにした。

 備え付けのスポーツ新聞には、プロ野球のドラゴンズ期待の新人選手が、伊坂幸太郎を愛読していることが、紙面の半分を使って紹介されていた。良質な読書はプレーに好影響を与える、と結ばれた記事を熟読していると、僕がこよなく愛す地元の星、ドラゴンズが来シーズン優勝することは、間違いないように思えてきた。熱烈なファイターズファンのミハラさんと、野球談義を鋭く交わしたいところだった。

 品書きをもう一度見渡すと、味噌煮込みうどんやきしめん、単品のエビフライなどがある。木曽三川と養老山地が間にあるものの、ここらへんは、上方よりも尾張文化の色合いの方が、幾分か濃いのだろう。

「お待たせしました」

 女将がかつ丼を持ってきた。新聞のおかげで、頭が地元モードに切り替わった僕には、赤だしの味噌汁が喜ばしく映った。少し汁気の多いかつ丼は、肩肘の張っていない、ほっとする味わいだった。味付けも濃すぎず薄すぎずで、食べ心地がいい。『孤独のグルメ』なら、もう1、2品追加で頼みそうなところだが、いささか残念なことに、昼前の僕の胃袋には、充分なボリュームだった。

「このお店、どれくらいやっているんですか」

「もう70年かな」

 大将に声をかけると、厨房からいい声が返ってきた。

「70年もやってないわよ」

 大将の言葉に、レジに立っていた女将が鋭く突っ込みを入れる。

「50年くらいかな」

「歴史あるんですね」

「長いってだけでさ、古くからの名店ってわけでもないのよ」

 自分たちを軽く落として笑いを取るところは、やはり関西の空気を感じさせる。

「そんなことない、おいしかったです」

「ありがとう」

 大将がそう言うと、女将も笑顔になった。しばらく北勢線の話をしていると、奥から、孫らしき子どもの笑い声が聞こえてきた。多分、年末のひとときを、一緒に過ごすのだろう。

* * *

 外に出ると、すっきりとした青空になっていた。クルマが雪解け水をかき分けながら走る脇を、駅に向かって降りていくと、昔ながらの本屋があった。ここも以前から気になっていたが、タイミングが合わずに入れずじまいだった店だ。ドラゴンズの大型新人にあやかって、小説のひとつでも読もうと、中に入った。

 いわゆる「町の本屋さん」だった。入り口の脇に雑誌の棚。そこから文庫、漫画、単行本各種に学習参考書の棚が並ぶ。目を見張るような品揃えではないが、ゆっくり眺めていると、店主の意思がそこはかとなく見えてくる気がした。流行からは少し外れているけれど、手にすれば、時代を超えて深みが伝わってくる。そんな著者と本に肩入れをしているようだ。

 文庫のコーナーを何回か行き来していると、伊坂幸太郎の未読だった小説があった。お、と手に取ると、その隣の忌野清志郎の聞き語りエッセイが目に止まった。キヨシローの音楽、後追いだけど結構聴いたよな、彼もドラゴンズの大ファンだったな。懐かしく感じて、それも手に取ってレジに向かった。

「コロナでね、ここのところ減っていますが、三岐鉄道になってから、観光客が乗って来るようになりましたね」

 店主と思しき男性もまた、北勢線のことを嬉しそうに話してくれた。

「町もきれいですね。新しい店が増えているみたいだし」

「そう。ただ、昔はもうちょっと賑やかだったかもしれないな。だってね、正月は、この道が買い物客でごった返して、歩けないくらいだったんですよ」

 北勢地域の中心地だった阿下喜の町には、人もものも集まっており、古くから、定期的に市も開かれていた。昭和の時代の賑わいは相当なものだったと、店主は言う。

 現在、阿下喜の町はいなべ市に組み込まれている。この地域の人口は、微増減こそあるものの、戦後まもない1950年代から現在に至るまで、大きな変化はないようだ。最近は、大都市圏に近い上に自然も豊かなことで、移住先としても人気を得ているという。僕がこれまで訪れた、過疎に直面する地方の終着駅のある町とは、ずいぶん様相が違うのである。にもかかわらず、この地で生まれ育った店主から見ると「当時」の面影はずいぶん薄れてしまっている。

 観光にも力を入れている北勢線と同じように、町のありようも数字には出てこない部分で、変わっているのである。

* * *

 軽便煎餅を購入してから、阿下喜めぐりの仕上げに、駅前の温泉に入ることにした。

 無色透明の湯で温まってから、併設されているサウナに入った。室内は、地元の人と思しき年配の男性たちでほぼ満員だった。スペースを空けてもらって座ると、朝から歩いた体が緩んでいくのがわかった。

 彼らは皆、顔見知りのようだった。

「サンパチ豪雪以来だな」

「あれ、何年前だっけ」

「昭和38年だから、えーっと、50年か」

「いやいや、1963年だから、それ以上でしょ」

「毎年正月は、藤原の方にゴルフ行っとったけど、今年は難しいな」

「南にいかんと。伊勢の方」

「そうやな、そろそろ決めんと」

 そんなやりとりを聞きながら、少し前まで、大事なことは、大体サウナで決めていたことを思い出していた。

 十分に発汗させてから、冷水浴をして、寝椅子に横たわる。それを何度か繰り返しているうちに、不意に体に電気が流れるような感覚がきて、内側からぽかぽかと温かくなってくる。そして、頭が冴えてくるのである。

 すっとした心持ちになるそのひとときは、お酒に酔った時の蕩然としたそれと対をなすような気がして、ひと頃の僕にとって、とても貴重なものだった。

 今日も、久しぶりに整うために、緊張と弛緩のローテーションを試みてもよかったが、さしあたって決めたいこともなかった。

「だいたい、後からわかるもんよ」

 汗をかきかき座っていると、越前武生のママの言葉も蘇ってきた。

 そのとおりかもしれない。僕は1年半越しに心の中で返事をした。

 正月恒例のゴルフコンペの会場選定から、乗客減に苦しむ路線を引き取るかどうかまで、世の中は決断の連続である。だが、その「決めたこと」の成否なんて、すぐにはわからない。よかったと思っていたら、実はうまくなかったなんてことはざらにある。そもそも結果は、必ずしも白黒で判別されるわけではない。だから、決めた者は、混ざり合った色あいを眺めながら、自問と自答を繰り返していくこととなる。前しか向かぬと宣言したところで、後悔はいつだって顔をのぞかせる。そこに目を向けないことは、むしろ不自然だ。

 面倒である。できれば、何も決めずにやっていきたいところである。

 だが、選択の余地なく決めねばならぬ状況や、理不尽が存在することを知れば、時に相談し、自分で何かを決められることは、それだけで尊いということも、また理解できる。

 結局、歳を取ることとは、色が混ざり、不分明になっていく水面を見ることである。そして、否応もなく浮かび上がってくる、他に染まらない部分を掬い取っていくことである。

「楽しかったねえ。いいママさんだった」

 酒場を辞してホテルに戻る時、ミハラさんは本当に楽しそうに振り返った。そして、律儀に赤信号で止まると、タバコの箱を取り出して、吸うかどうか迷ったそぶりを見せて、またポケットにしまった。

「なんだってさ、自分で決めたんだったら、それでいいんだよ」

 酔うことは、ものを書くために不可欠な作業だと、信じ切っていた。そんな僕がお酒を呑まなくなったのは、優先したいものがあったからだ。書くのを忘れたことは、ただの一度もない。だが、その決断の是非なんて、多分、死ぬまでわからない。

 やっぱり、年が明けたら、ミハラさんと野球談議をしよう。勝ち負けがはっきりとしたスポーツの、どうしても白黒をつけられない部分、人と人が織りなすドラマの魅力を、ミハラさんと心ゆくまで語ろう。

 サウナの熱気でぼんやりしてきた頭で、僕はそれだけ決めると、部屋を出た。水を浴びてから露天風呂に行くと、冬の冷気が、心地よく肌を刺してきた。

* * *

 実家には、一般道で戻ることにした。東に向かって山里の集落をいくつか通り過ぎ、養老山地を越え、養老鉄道をオーバークロスすると、ほどなく木曽三川に突き当たる。

 築堤を登り、橋を渡ると、風景ががらりと変わった。揖斐、長良、木曽。それぞれの川の合間に伸びる中洲も、その先の土地も、ずっと平坦である。かなたに名古屋の高層ビル街をのぞみながら、うっすらと雪化粧をした濃尾平野に入ると、山里とは異なる開放感があった。

 子どもの頃、この道を自転車で養老山地に向かって走ったことがあった。「里」の風景を見たい、と思い立ったのである。行き先のあてはなかった。地図を見て、養老山地あたりに行けば、何かあるだろうと考え、西へと向かった。山地を越えてやろうという気概もあった。だが、季節が冬だったことが災いした。伊吹おろしの強さが、半端じゃなかったのである。

 建物があるうちはまだよかったが、田園の広がる平野で、真正面からの向かい風を浴びながら自転車をこぐのは、想像を絶する厳しさだった。体力に続き根性もあえなく尽きて、僕は木曽三川の手前で、すごすごと引き返したのである。

 里を目指したのは、憧れがあったからだ。野山があり水があり、人と、人が作ったものが点在する。一つひとつの要素が有機的につながり、適度な距離を保ちつつも、互いを身近に感じられる。都会の団地住まいの少年にとって、そんな風景のある場所には、そこだけで充足した、望ましい世界が存在するように感じられたのである。

 子どもらしいといえば子どもらしい、一方的な思いだった。

 その後、再挑戦することはなかったが、行きたいという気持ちはどこかに残り続けていた。大人になってから訪れた阿下喜と北勢線には、そんな僕が、自分の頭の中で反芻しながら、思い描いていたとおりの風景が広がっていた。

 僕は30年越しで、憧れの地にたどり着いたわけである。

 町の人たちが語っていた「前回の大雪」は、僕の「あの頃」よりももっと前のことである。「その頃」の町のメインストリートには、人が溢れかえり、今や老舗の風格すら出している大衆食堂は、営業を始めるか始めないかの新人だった。

 それから半世紀以上が経った今、軽便鉄道は開業時から変わらない幅の狭い線路を走り、阿下喜の町は古い建物も現役の状態で残っている。だが、鉄道は経営母体が変わって、地域活性化に一役も二役も買うようになり、町は移住者を積極的に受け入れ出して「よそ者でも優しく受け入れる土地柄」とメディアに紹介されるまでになった。

 望ましい姿を保つためには、意思ある変化が不可欠だったのである。そして、意思ある決断を重ねてきたのは、他ならぬ、そこに暮らす人々だったのである。

 及び腰だった鉄道会社を本気にさせるまでの情熱で、彼らが「残した」北勢線は、今、コロナ禍で、乗客が大幅に減少している。彼らの決断は、ここまでは吉と出てきたが、これからどうなっていくかは、少なくとも、よそ者には、分からないことだ。

* * *

 書店の文庫棚で再会した忌野清志郎は、その晩年に、ドラゴンズが好きな理由を問われて、「だって、頑張ってるじゃないですか」とだけ答えたという。

 僕がドラゴンズが好きな理由も、掛け値なしに同じである。他のチームだって頑張っているだろう。だが、僕が子どもの頃、心を撃ち抜かれた「頑張り」を見せたのは、ドラゴンズのとある中心選手であり、その後も、彼らは変わらず、ずっと頑張り続けているのである。好きであり続ける以外の選択肢が見当たらない。

 そうだ。阿下喜の町のことも、北勢線のことも、応援しよう。僕は赤信号でクルマを止めて、そう決めた。

 野球の魅力の本質は、勝つ時よりも、負ける時に、より鮮やかに表出する。たとえ負けていても、「次」のために、前を向く姿を見て、僕たちは、彼らがグラウンドを退く時が来るまで、応援を続けるのである。

 人生の本質は、勝ち負けで色分けできないものだ。だが、阿下喜で会った人たちの言葉から、町と鉄道と彼らの、決して平坦ではなかったであろう「次」を見据えた、あゆみを想像することで、郷愁という言葉を具現化したような風景が、なお尊いものに見えてくるのである。

 温泉の前に再訪した、軽便煎餅のお店では、店主は不在で、若い女性が応対してくれた。

「おいしいですよね。おせんべいなのに、クッキーみたいな食感ですもんね」

 以前食べて、おいしかったから、と軽便煎餅の箱をレジに差し出すと、彼女はそう言ってふふと笑った。そう言われて、店主が、生まれ変わった北勢線のために、今までとは違う食感の名物を、という思いで考案した菓子であることを、ようやく理解した。

「子どもの頃から来たかったんですよ。この町」

「古い町ですけどねえ」

「もう、3度も来ちゃいました」

「そうですか。うん、いいところですもんね」

 笑顔のまま、彼女は店の扉を開けて見送ってくれた。

* * *

 バックミラーを見ると、冬の気の早い太陽は、もう山の向こうに姿を隠し始めていた。大衆食堂の大将と女将は、もう店を閉めただろうか。孫たちとの時間を楽しんでいるだろうか。

 青信号に合わせて、僕はクルマのアクセルを踏んで、名古屋の町へと入っていった。

文=服部夏生 写真=三原久明

【お知らせ】本連載をもとに加筆修正して撮り下ろしの写真を加えた書籍『終着駅の日は暮れて』が、2021年に天夢人社より刊行されています。

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服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのち独立。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。「編集者&ライター。ときどき作家」として、あらゆる分野の「いいもの」を、文字を通して紹介する日々。「鉄」の長男が春から親元を離れ、彼との鈍行列車の旅がしにくくなったことが目下の悩み。

三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2020年7月、2021年8月、2021年12月に取材されたものです。

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