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「本、映画、旅…… 20代は仕込みの時期でした」(建築家・中村好文)|わたしの20代  

わたしの20代は各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺う連載です。(ひととき2023年4月号より)

 大学時代は学生運動が激しく、2年生の夏休み以降はロックアウトで長期の休講状態になりました。それが僕にとっては有意義な期間になりました。将来は住宅設計をやろうと決めていたので、設計事務所でアルバイトをしながら名作住宅の図面をコツコツ描いたり、日本民藝館*に通って李朝の陶磁器やイギリスの家具を眺めて一日過ごしたり。雑司ヶ谷子母神堂や佃島など、江戸の風情と人の気配の感じられる下町を歩き回ったりしました。

*東京・駒場にある、思想家・柳宗悦らの企画を基に1936年に開設された博物館。陶磁器、染織品、木漆工品など日本をはじめ諸外国の新古工芸品約17,000点を収蔵。

 住宅を志したのは、「小屋」や人の暮らしに関心があったからです。ル・コルビュジエも丹下健三もそうですが、多くの建築家は住宅から始めて最終的に国家的な大仕事を手がけます。それが「建築家すごろく」の理想的な上がり方と考えられていますが、僕は競争に向いていないし、ふりだしの住宅設計の辺りにいてそれより上はあえて目指しませんでした。

 転機は、伊丹じゅうぞうの本との出会いです。70年の11月18日に『女たちよ!』を国分寺の書店で買って、食、運転、恋愛といったテーマ、文章、イラスト、すべてに引き込まれ、2冊目、3冊目を探して神田神保町の古書店を片っ端から回りました。日付がわかるのは、当時、本の裏表紙に買った日を記していたからです。

 映画もよく見ました。名画座で、洋画はもとより、溝口健二、小津安二郎、黒澤明……何度も見るのでセリフを覚え、泣ける場面では映像を先回りして涙が出る(笑)。映画の中の建物や部屋も気になります。「赤ひげ」の小石川養生所とか、「第三の男」のオーソン・ウェルズがウィーンの地下に逃げ込むシーンが好きで、後年、現地を訪ねたこともあります。卒業論文は、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」に影響され、円筒状の建物を回転させて遠心力で人工の無重力状態を作った住宅を設計しました。先生方には完全に無視されましたが(笑)。

 20代には旅もいろいろしました。大学3年生の夏は、遠藤周作の『沈黙』を読んで潜伏キリシタンの教会を訪ねようと、学割周遊券で九州に1カ月。お金がないから2日に1回は駅舎に泊まり、暑いと夜行列車で往復し涼みながら眠ったり。25歳で結婚し、伊丹十三の本で読んだヨーロッパを旅したときは、風土、風習、風光、風景、「風」のつく言葉が旅と密接に関係していることを実感しました。

大学生の頃、友人と(左が本人)。紛争でキャンパスがロックアウトされ、自由な時間がたっぷりあった

 卒業後、最初に勤めた設計事務所を退職し、27歳で家具作りのために都立の職業訓練校に入り、木工の基礎を勉強しました。住宅設計と家具デザインは僕にとってはライフワークです。この訓練校に入ったことも大きな転機になりました。ずっとあこがれていた吉村順三先生に訓練校に入ったことを知らせたら、ある日、「一度事務所で会いませう」と俳句のような葉書が届きました。吉村先生の手がける住宅は地味で静かだけど、そこに住む人の動線まで実によく考えられて素晴らしいのです。建築をやりたくて先生の事務所に入る順番待ちをしている希望者が20人もいたのに、運よく僕は家具デザインの助手として入ることができたのです。

吉村順三設計事務所に勤務していた29歳の頃

 今考えると、僕の20代は、仕込みの時代だったように思います。やり残したことがあるとしたら、映画でしょうか。ユーモアとウイットに富んだ映画の監督をしたいと今でも考えたりします。

中村好文(なかむら・よしふみ)
1948年、千葉県生まれ。72年、武蔵野美術大学建築学科卒業。設計事務所勤務を経て、都立品川職業訓練校木工科で家具製作を学ぶ。81年、建築設計事務所レミングハウスを設立、個人住宅の設計を中心に、多くの建築を手掛ける。87年、「三谷さんの家」で第1回吉岡賞受賞ほか受賞多数。99年より日本大学生産工学部建築工学科教授。

談話構成=ペリー荻野

出典:ひととき2023年4月号

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