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わたしの20代

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旅の月刊誌「ひととき」の創刊20周年を記念した本企画「わたしの20代」。各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺います。
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記事一覧

「落語家に欠かせない無頼の心を育ててもらった時間でした」五街道雲助(落語家)|わたしの20代

 20歳で大学を辞め金原亭馬生に弟子入りしたので、20代は師匠の7番目の弟子・金原亭駒七として始まったことになります。  実家はてんぷら屋と寿司屋を営んでいました。あたしが大学の商学部に入ったことを親父は「いい跡取りになる」と喜んでましたが、実のところ授業にはほとんど出ていない。学生運動のバリケードだらけでまともに授業はないし、出席の返事だけして教室の下の窓から抜け出し、雀荘や新宿末廣亭に直行です。それでも落語研究会だけはまじめにやってました。落研は体育会系で、夏は合宿、冬

「努力なしには上がれない場所があることを知りました」小菅正夫(獣医師)|わたしの20代

 僕はね、ずっと目の前のことしか考えてこなかったんですよ。それで大学に入る時も出る時も苦労しました。  中学で柔道を始め、高校時代は北海道大学に通い大学生に交じって稽古するくらい入れ込んで。だから大学は北大に行くと決めていたんだけど、肝心の受験勉強を全然していなかった。てっきり就職するものと思っていた先生は、僕が「北大行きます」と言ったら「何しに?」って(笑)。結局2浪して入学しました。  大学でも柔道第一。獣医学部に進み、そこそこいい成績を収めていたんだけど、なにしろ授

「いちばん幸せで、いちばんつらかったのも20代でした」清水ミチコ(タレント)|わたしの20代

 幼い頃から、人が笑ってくれることが好きでした。中学生の時、生徒会長に立候補する一つ上の先輩から応援演説を頼まれたんです。人気のラジオ番組をもじったネタを披露したところ、会場は大爆笑!(応援とは関係ないけど)。クラクラするほど興奮したことを今でも覚えています。  地元岐阜の高校を卒業後、東京の短大の家政科に入学。将来は実家の喫茶店を継ぐか教師になろうかと考えていました。20歳になった頃は、ちょうどバブル真っただ中。ディスコだ彼氏だと皆が騒ぐ中、私が熱を上げていたのは、パロデ

「役者は一生の仕事と決めて迷いはありませんでした」風間杜夫(俳優)|わたしの20代

 僕は子役も経験していますが、中学で一度やめているので、自分では俳優としての出発地点は20代だと思っています。  高校時代に舞台を観るようになった僕は早稲田大学の演劇サークル「自由舞台」に憧れ、一浪して夢をかなえました。ところが、当時は学園紛争のピークで、先輩たちも芝居よりデモ。もともと僕は内向するタイプで、演劇の世界に入ったのも、虚構の世界なら自由になれると思ったから。それが革命を声高に叫ぶ人たちを見ているうちに、ますます自信をもって言える言葉がなくなっちゃってね。語り合

「どん底でも楽観的な自分が後々の自信につながりました」堀越謙三(映画プロデューサー)|わたしの20代

 僕の20代をひと言で言うなら〝苦いチョコレート〟かな。学生時代は大学闘争の真っただ中。闘争そのものより、そこで起きた意見の相違で傷つけ合ったり友人関係が壊れたりしたのがつらかった。要は、人間を見てしまったわけです。幻想と現実とのギャップを抱える自分に対しても鬱屈したものを抱いていたし、楽しくはあるけど、いつも底に苦いものが沈殿している感じ。大学卒業後、ドイツに行ったのも、そんな息苦しさから逃げたかったというのがあったと思います。  就職するという発想はなかったですね。僕が

「先輩たちとの幸せな時間が30代への助走になりました」井上 順(俳優・歌手・タレント)

 僕は3人きょうだいの末っ子で、ある日、知り合いの家に両親と遊びに行ったら、年上のお兄さんたちがバンド演奏をしていた。「テレビで見た世界だ!」と興奮して、学校が終わると毎日通うようになりました。それが「六本木野獣会」です。映画、テレビ、ファッション、いろんな夢を持つ若者の集まりで、田辺靖雄*さん、中尾彬さん、大原麗子さん、素敵な先輩たちがいました。俳優の峰岸徹さんは僕の兄貴分で、ご実家の有名料亭に行くとごはんが美味しくてね。幸せでした。  その頃の六本木は都電が走っていて、

「選手として駆け抜けた日々が、発想の原点です」為末 大(元プロ陸上競技選手)|わたしの20代

 8歳から陸上を始めて、中学、高校と国内大会の短距離走種目で次々優勝。そんな中、世界ジュニア選手権大会に出場し、海外選手との力の差を目の当たりにしました。「短距離走では勝てない。でも技能と戦術で戦うハードルなら世界に食い込めるかもしれない」と種目変更したんです。  大学の陸上部では専属コーチはつけず、自分で工夫しながらトレーニングを重ねました。でもなかなか結果につながらなかった。「このままでは世界で通用しない」と海外に突破口を求めたのが22歳の時。今と違って練習拠点を海外に

「20代は自分の芯を磨き出し愛おしむ時間でした」吉川壽一(SYOING ARTIST)|わたしの20代

 祖父も父親も普段からよく筆を手にしていたので、当然のように僕も幼い頃から手習いを始めました。その後、小学5年生から稲村雲洞先生、中学3年生から宇野雪村先生と、前衛書家の先駆けだった師に弟子入り。僕が前衛書の道を歩むことになったのは、彼らが師匠だったからなんです。  20歳の頃は、地元の福井で暗澹たる日々を過ごしていました。大学受験には失敗し、雪村先生とはけんか別れのような形で袂を分かち、かといってどこかに勤める気にもならず。でも、書だけは続けていました。飽きないんですよね

「出会いに恵まれ夢中で挑戦した20代でした」由美かおる(俳優・歌手)|わたしの20代 

 3歳でバレエを始めて、15歳のときにテレビ番組「11PM(イレブン・ピーエム)」の、英語のショーナンバーを歌って踊る新コーナーでデビューしました。芸能界のことは何も知らず、放送後「今のは誰?」と局に電話が殺到したと聞いて驚きました。石原裕次郎さんからも電話があって、「夜のバラを消せ」という作品で相手役に選ばれ、夢のような映画デビューになりました。撮影中、ホテルから撮影所に通うのは大変でしょうと裕次郎さんの奥様が私とマネジャーをご自宅に泊めてくださいました。自宅で寛ぐ裕次郎さ

「激動の30代を前にした夢のような雌伏の時でした」(彫刻家・籔内佐斗司)|わたしの20代 

勉強も運動も苦手でしたが、絵を描いたりものを作ったりすることだけは、子供の頃から大好きでした。大学は東京藝術大学を志しましたが、現役では不合格。なにしろ当時の油画専攻の倍率は60倍以上。非常に狭き門でした。  高校卒業後は地元大阪から上京し、美術予備校に通って再び藝大を受けましたが、またもや不合格。翌年は、あろうことか予備校へも通わず、アルバイトに精を出す日々でした。  2浪目の受験で、15〜16倍という倍率にひかれて彫刻専攻を受験したら、あっさり合格。倍率が低いという理

「目の前の好きなことをやり続けたらこうなったの」平野レミ(料理愛好家・シャンソン歌手)|わたしの20代 

 父*がフランス文学者だったから、シャンソンは幼い頃から耳にしていたの。日本の曲にはないような、とってもきれいなメロディーラインでね。歌詞の意味なんてわからなかったけど、聞こえたままを真似してよく歌っていました。高等学校はつまらなくて「やめたい」と父に伝えたら、「やめてもいい。その代わり好きなことは徹底的にやりなさい」と言われて。私がシャンソンを好きだと知っていたから、オペラ歌手の佐藤美子さんに習うことを勧めてくれたんです。  当時暮らしていた千葉から、東京を横断して先生の

「立ち止まらず進めば変化や成長はついてくる」(フリークライマー・平山ユージ)|わたしの20代 

 中学生のころから山登りにはよく出かけていましたが、フリークライミングに出会ったのは、15歳の時。登山用具店で講習会に誘ってもらったのがきっかけです。「岩山にボルトを打ち込んで、それを頼りに登るのかな?」なんて想像しながら現地を訪れると、上半身裸で、手や足の力でガシガシ岩を登るクライマーたちの姿が目に飛び込んできて。安全確保のための器具は使用するものの、それに頼ることはしない。自分の力だけで岩山を登るスタイルが、フリークライミングだと初めて知りました。何より惹かれたのは、岩の

「本、映画、旅…… 20代は仕込みの時期でした」(建築家・中村好文)|わたしの20代  

 大学時代は学生運動が激しく、2年生の夏休み以降はロックアウトで長期の休講状態になりました。それが僕にとっては有意義な期間になりました。将来は住宅設計をやろうと決めていたので、設計事務所でアルバイトをしながら名作住宅の図面をコツコツ描いたり、日本民藝館*に通って李朝の陶磁器やイギリスの家具を眺めて一日過ごしたり。雑司ヶ谷子母神堂や佃島など、江戸の風情と人の気配の感じられる下町を歩き回ったりしました。  住宅を志したのは、「小屋」や人の暮らしに関心があったからです。ル・コルビ

「苦しさを消化した後の30代はとにかく楽しかったです」坂本真綾(歌手・声優・女優)|わたしの20代 

 きっと傍から見たら順調だったと思います。声優や歌手の仕事に加えて、エッセイを出版したり、ミュージカル「レ・ミゼラブル」にも出演しました。毎日が忙しくて、楽しいこともたくさんあって……。でもわたしにとって20代は、悩みが多く、大きな壁にぶつかった時期でした。  声優の仕事って、基本的には顔が見えないところで芝居をする裏方です。でも20歳を過ぎた頃からイベント出演などで人前に出ることが増えてきました。ライブや舞台出演の機会もいただけて。自然な流れでどんどん人前に出ることになっ