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「激動の30代を前にした夢のような雌伏の時でした」(彫刻家・籔内佐斗司)|わたしの20代 

わたしの20代は各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺う連載です。(ひととき2023年7月号より)

勉強も運動も苦手でしたが、絵を描いたりものを作ったりすることだけは、子供の頃から大好きでした。大学は東京藝術大学を志しましたが、現役では不合格。なにしろ当時の油画ゆが専攻の倍率は60倍以上。非常に狭き門でした。

 高校卒業後は地元大阪から上京し、美術予備校に通って再び藝大を受けましたが、またもや不合格。翌年は、あろうことか予備校へも通わず、アルバイトに精を出す日々でした。

 2浪目の受験で、15〜16倍という倍率にひかれて彫刻専攻を受験したら、あっさり合格。倍率が低いという理由だけで彫刻を選びましたが、今の私があるのはこの選択のおかげです。実際に入学して立体造形を始めてみたら、楽しくて楽しくて仕方がなかった。彫刻は奥行きがあるものをどんどん作っていけるでしょう。平面に絵を描くより、自分の性に合っている気がしました。

 大学2年生の夏休みに、バイトで貯めた50万円ほどで、1カ月かけてヨーロッパ貧乏旅行に出かけました。たしか1ドルが290円くらいの頃です。学生用の鉄道周遊券で、なんにも決めない出たとこ勝負のひとり旅。片言の英語しか話せませんでしたが、それなりに意思疎通できたのが、今思えば不思議です。

 仲の悪いエジプトとイスラエルの若者、ベトナム帰還兵のアメリカ人……旅先で出会った各国の人たちと、仕事のこと、家族のこと、いろんな話をしました。「みんな一生懸命に生きてんねんな」としみじみ思うと同時に、これまでの自分の風まかせな生き方を改めて、真剣に彫刻家として生きようと決意しました。

 帰国してからはそれまで以上に彫刻に打ち込みました。生活費のためにバイトもしていたけれど、バイト先ではいつも彫刻がしたくて。四六時中、彫刻のことばかり考えていましたね。

アルバイトに明け暮れた学生時代。東京藝術大学の学生寮(当時)の部屋で

 大学院を修了したものの、食べてゆくあてがなかったので、仕方なくもう一度、大学院の文化財保存の研究室(現在の文化財保存学専攻)にもぐり込みました。当時の主任教授は、仏像修復の第一人者である西村こうちょう先生*です。1年ほど学生をした後、運よく助手に採用されて研究室で働くことになりました。

*西村公朝[1915〜2003] 仏像彫刻家。三十三間堂の十一面千体千手観音立像をはじめ千数百体に及ぶ仏像修復を手がけた

 助手として初めて任された仕事は、奈良にある新薬師寺の地蔵菩薩立像の解体修復でした。紹介者の大先輩は「単純な構造の仏像だろうから、練習を兼ねてやってみたら」なんて言っていましたが、実際に解体してみたら、お地蔵様の中に等身大の裸の地蔵尊像が隠されているという、前代未聞の二重構造の仏像だったのです。

 私は運命の出会いともいえるこの仏像の、複雑極まりない寄木造の技術に心底驚嘆し、修復の面白さ、仏像彫刻の奥深さを学びました。檜材の寄木造で彫刻し、漆を塗り顔料で彩色するという私独自の制作技法は、当時の仏像修復の研究や経験を元に確立したものです。

 私の20代をひと言でいえば、激動の30代を前にした、夢のような雌伏の時。偶然のような出来事も含めて、20代の経験や出会いが、息をつく間もなく創作に明け暮れた30代以降の私を支えてくれたことは間違いないといえるでしょう。

作品にも登場する愛犬「ちび」と

談話構成=渡海碧音

籔内佐斗司(やぶうち・さとし)
1953年、大阪府生まれ。東京藝術大学および大学院で彫刻を学び、同大学院研究室で仏像の古典技法と保存修復の研究に携わる。その経験をもとに独自の制作技法を確立、仏教的世界観やアニミズム的生命観を表現した彫刻作品を精力的に創作し続けている。東京藝術大学名誉教授、奈良県立美術館館長、ビューティ&ウェルネス専門職大学副学長。『古典彫刻技法大全』(求龍堂)ほか著書多数。

出典:ひととき2023年7月号

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