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“ちょうどいい”町へと連れて行ってくれる、奇跡の電車(勝山・えちぜん鉄道)|終着駅に行ってきました#4

かつて織物の産地として名を馳せ、近年は、恐竜の町として再注目される町、勝山。白山連峰からの雪解け水が流れる静かな町に、奇跡の復活を遂げて、コトコト走る鉄道で訪れるとそこには人との繋がりを大切にしながら、背伸びせず、いいものを作り出す人たちがいました。〔連載:終着駅に行ってきました
文=服部夏生 写真=三原久明

 昼下がりのえちぜん鉄道の電車には、女性の車掌が乗っていた。車内を忙しく動き回り、乗客ひとりひとりに声をかけ、無人駅から乗ってきた客には切符を発行し、降りる際にひと声をかける。

「いつもありがとうございます」「お気をつけて」

 乗客が少なくなってくると、常連と思しき老人たちと地元の話で盛り上がりながら、下校で乗ってきた小学生たちが走り回るのをたしなめもする。活気ある車内は、地域の寄り合い所の様相を呈してきた。

 単行列車は、福井平野を走り抜け、九頭竜(くずりゅう)川沿いに山へと向かい始めた。左手に白山連峰を望みながら、モーターの唸り声をあげ、複雑な地形に沿って右に左に車体を傾けることを繰り返し、やがて終着駅の勝山に滑り込んだ。ターミナルの福井駅から約1時間の小旅行である。

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 駅を降りると、大小の恐竜コンビが出迎えてくれた。虚空を睨むコンクリート製の彼らが屹立するロータリーからは、恐竜博物館行きのバスが、我々と同じ電車に乗ってきた家族づれを乗せて発車していった。

 恐竜博物館は勝山市の町外れの山裾にある。その銀色のドームは、乗ってきた電車の車窓からもよく見えた。

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 説明によると、1982年に勝山市北谷の杉山川左岸の崖で、中生代白亜紀前期のワニ類化石が発見された事が発端となり、恐竜などの化石が発見採取されたという。その数は、日本で発掘された恐竜化石の大部分を占めるほどで、質も優れていた。

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 地域活性の切り札として注目した県が博物館を建設、総力あげてアピールした甲斐もあり、今では年間で200万人以上もの観光客がこの地を訪れている。

 そう、勝山は国内外に広く知られる「恐竜の町」なのである。

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 だが、バスが出発し、電車が福井へと戻った後の平日の勝山駅は、静まり返っている。ミハラさんは電車の写真を撮りたいと線路の先へと行ってしまい、ぼく一人が駅に取り残された。

 映画だったらそろそろ本物の恐竜が登場してひと暴れしないと、飽きた観客が席を立つところだ。しかし、現実の世界で動いているものは、踏切をのろのろ乗り越えている軽トラくらいである。冬の西日は早くも山の陰に姿を隠す準備を始めた。立っていても仕方ない。看板に描かれた地図で見当をつけて、九頭竜川にかかる橋を渡り、市街地へと足を運んだ。

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 勝山の町も、駅前と変わらず、静かだった。目抜き通りは、綺麗にリノベーションされた和菓子屋や居酒屋、繊維問屋が軒を並べており、見応えがあったが、人通りは少なかった。しばらく歩き回っているうちに、日が落ちて空気がぐっと冷え込んできた。体調を崩していたこともあって、いささか気分が悪くなってきた。目に入った漢方薬局に飛び込んだ。

 主人はこちらの症状を聞くと、わかったと頷き、漢方薬を3日分、調合してくれた。その淀みない立ち居振る舞いを見ているだけで、こちらも少し気が楽になった。

 聞けば、生まれも育ちも勝山だと言う。

「どんな町かって言われてもねえ、よく分からないなあ」

 そう言いながらも、町の話をぽつりぽつりとしてくれた。

「恐竜ブームで観光客は確かに増えたよ。良いか悪いかは分からないけど、町のお祭りも観光化した。ただ、町自体は昔の方が賑わっていたね。今は高齢化が進んでいるし」

 勝山市の人口は、2019年で約2万3千人。ピーク時の1950年の3万9千人から少しずつ減り続けている。明治期の絹織物に端を発し、国内屈指の織物産地として栄えたが、現在はそれも下火になった。65歳以上の人口は35.7%を占め、国全体、そして福井県の高齢化率を大きく上回る。

 先ほど歩いた町の侘びたたたずまいは、公表されている情報を紐解くまでもなく、主人の言葉を裏付けるように感じられた。主人も、勝山のことは気に入っているが、今ひとつ、よそから来た人間にアピールするポイントを探しあぐねている風情だ。

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「今日、えちぜん鉄道に乗ってこの町に来たんですよ。女性の車掌さんもいて、いい雰囲気でした」

「ああ、彼女たちはアテンダントっていうんです。鉄道は第三セクターになってから変わってね。乗客も増えているよ」

 鉄道の話題になると、途端に会話のトーンが変わった。

 えちぜん鉄道は奇跡の復活を遂げた鉄道と言われている。

 福井駅から勝山駅まで走るえちぜん鉄道の勝山永平寺線は1914年に開通した。前述した絹織物の産地として隆盛を極める同地域に鉄道を、という地元の声に応える形で、県が補助金を出し、地域一帯の電灯電力を供給する京都電灯が鉄道を敷設した。その後、京福電鉄に経営母体を変え、同地域の唯一無二の「足」として活用されてきたが、モータリゼーション、そして山並みをひとつ隔てて走る国鉄越美北線の開通などが徐々に乗客を奪っていった。

 そして日本の鉄道史に残る悲劇が訪れる。

 2000年12月、ブレーキロッドが折れてブレーキが効かなくなった列車が対向列車と正面衝突、暴走した列車の運転士が死亡し、25人が重軽傷を負った。さらにその半年後、信号を確認しないまま発車した列車が、対向列車と正面衝突し、25人が重軽傷を負う事故が起こった。半年で2度の正面衝突事故がきっかけとなり、京福電鉄は事業廃止届を提出した。実は、それ以前から京福電鉄は沿線自治体にバス代行を提案していた。乗客減に歯止めが効かない青息吐息の経営の中、連続して起こした事故で、京福電鉄は緊張の糸が切れたかのように、路線を放棄したのである。

 だが、この路線は沿線住民にとっては替えの利かない存在だった。その思いを受け福井県や沿線自治体が、第三セクター方式で路線を存続させることとなり、2003年10月、福井駅から勝山駅までの鉄道運行が復活した。

 第三セクターの「えちぜん鉄道」となってサービスも大きく変わった。乗客をもてなすアテンダントを乗車させたり、駅近くに無料駐車場を設けたりといった経営努力を重ね、開業4年目には京福電鉄時代の乗客数を超え、12年には黒字化を実現した。奇跡と呼ばれるのも頷ける見事な復活劇だ。

「うん。観光客だけじゃなくて、自動車を控えて鉄道を使う地元の人も多くなっているからね」

 暖かい店内で光明ある話をしているうちに、体調も良くなってきた気がした。店を辞して外に出ると、すっかり暗くなっていた。頃やよし。ミハラさんと連絡を取って落ち合い、一杯やることにした。

 * * *

「俺はね、焼き鳥か寿司が食べたいんだよ」

 なぜ、海が遠いこの町で江戸前寿司を食べるのか、という疑問を挟む余地もないほど毅然とした態度でそう語るミハラさんと連れ立って歩くと、すぐに焼き鳥屋が見つかった。福井県を中心にチェーン展開をするお店で、好もしい雰囲気だった。地元客が集まりそうな店構えである。

「うーん、でもなあ」

 ここにしましょうよ、と言うぼくを制し、ミハラさんはなおも店を探すことを提案した。こちらの本音は寒い中を歩き回るより、とっとと暖かい店に入って先ほど調合してもらった漢方薬を飲んで体調万全で酒を飲みたい、である。だが、ミハラさんは、確信に満ちた足取りで前進する。仕方ない。彼について、ぽつりぽつりとともる店の灯りを頼りに、宵闇の町を歩いた。

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「確かに寿司屋いいかもですね。観光客はまず入らないだろうから、地元の人とご一緒できそうですし。さっきの通り沿いにあったお店、美味しそうでしたよね。あそこにしません?」

 疲れてきたし、いい感じの寿司屋があったので、適当な理由を考え出して、再提案を行うや否や、ミハラさんは「うん、この店にしよう」と一軒の焼き鳥屋を指差した。

「いいじゃないですか」

 文句を言わなかったのは、揉め事を避け早く店に入りたかっただけではなく、焼き鳥屋がなかなか良さげな店構えをしていたからだ。

 * * *

 我々は口開けの客だった。薬を飲むための水を所望してから、まずは、とハイボールを注文した。

「限定品だから、そこには書いてないけど、鶏足がうちの名物なんだよ。食べてみない?」

 せっかく初めて訪れた地での食事である。あれこれ悩まず、ここは、お店に委ねよう。そう思って、品書きにおすすめと書かれていた串を一通り頼むと、主人から名物を薦められた。幸先がいい。嬉しくなってきた。

 ややあって持ってこられたそれは大ぶりのまさに「鶏の足」だった。かぶりつくとカリカリした皮と、ジューシーなモモ肉の弾力のコンビネーションが、甘辛いタレの味付けで迫ってきた。見た目はローストチキンだが、味と歯応えはオリジナルだ。揚げる油の量や温度、時間が完璧なのだろう。レモンを入れたハイボールが口の中の脂をさっぱりと流してくれることも手伝い、飽きが来ない。

「うまいですね」

 思わず口にすると、主人が笑顔になった。

「嬉しいね、どこからきたの?」

「東京です」

「ここには何しに来たの?」

「えーと、ふたりとも空いた時間ができた時に、連れ立って終着駅のある町に行くんですよ。何するわけでもなくて、こうやってお酒を飲むだけなんですけどね」

「今回は半年ぶりくらいかな。結構、間が空いたね」

 ミハラさんが口を挟むと、主人が「幸せだなあ。そういうの」と嘆息した。店の空気がふわっと緩んだ気がした。

 主人は、ぼくが最初に見つけた焼き鳥のチェーン店を38年勤め上げ、息子夫婦と共に独立を果たした。前職時代から築き上げてきた卸業者との信頼関係があるから、いい鶏肉が手に入るのが店の売りだと言う。

「もしかして、さっきの鶏足って、勝山の名物なんですか?」

「違う違う、あれはうちの名物だよ」

 主人が言うと、息子も、そうそう、鶏足はうちだけの名物、と笑う。

「勝山と言えば、おろし蕎麦かな。明日もいるなら、この先にあるお店に行ってみなよ」

 親切に地元の名物まで教えてくれた主人と息子もまた、生まれも育ちも勝山だった。

 地元の方に聞きたかったんですよ、と、えちぜん鉄道について聞いてみた。

「みんな乗ってるよ」

 ここでも鉄道の話になると、饒舌になった。

「通学に使う学生や、老人が多いけど、実は一番混むのは終電なんだ。福井で飲んで帰ってくるサラリーマンやOLが沢山いるのさ」

 潜在的な客を福井市内にとどまらせる「商売敵」と言ってもいい存在にも関わらず、えちぜん鉄道のことを話す主人は嬉しそうだ。自慢げですらある。

「だってさ、再開した時に、運賃を値下げしたんだよ。そういうのって、他ではあんまりないと思うよ」

 息子が口を挟んだ。

「前に2回、正面衝突して廃止になりかかったんだけどさ、みんなで署名運動してね、残ったんだ」

 ああ、と得心がいった。勝山の人たちにとって、えちぜん鉄道は「自分たちの鉄道」なのである。そして、えちぜん鉄道もまた、その思いに応えるべく努力をしているのだ。この店と鶏肉の卸業者のような信頼関係が、両者の間にはある。

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「幸せだなあ」

 明日、改めておろし蕎麦を食べに行く、と伝えると、主人はまた嘆息した。

 大将こそ、幸せですよ、いい鉄道のある町で、いい仲間といい仕事をしているんですから。

 そう返したいな、と思った。だが、えびす顔のミハラさんと、地元の「名士」が建てたむやみに大きくて派手な城と寺院の話をしながら、さらに盛り上がり出した主人に、うまく思いを伝えられる気がしなく、ぼくはひとり杯を重ねることに専念した。

 地元客が続々と入ってきて、店は忙しくなり始めた。団体客が入ったのを機に会計をすませて外に出ると、山々の縁取りに彩られた星空が広がっていた。通りを歩くと、上水のせせらぎが耳に入ってきた。

「写真撮っている時から感じてたけど、空気に水のにおいが混じっているよね」

「山が近いから、なんていうのかな、清冽な空気になっている気がします」

 町の印象を思いつくままに話しながら歩いていると、不意にミハラさんが呟いた。

「本当にしたい仕事を続けるのって、難しいよ」

 焼き鳥屋の主人を羨んでいるのか、自らの状況を憂えているのか。そのまま無言になったミハラさんに確かめるには、あまりにも酔いが回りすぎていた。

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 翌朝の勝山は、活気があった。八百屋に軽トラで野菜を持ち込む人、市役所前の公園の芝を刈る人、カートをひいて買い出しに出る人。町のそこかしこで、年配の人たちが動いている。資料集めのために寄った図書館でも、おじいさんが司書の女性たちと年末年始の開館スケジュールを肴に軽妙なトークを繰り広げていた。

 人の印象なんていい加減なものだ。漢方薬で体調を戻し、地元の人に話を聞いて、青空のもと歩けば、昨日とはまるで異なった風景が目に入り、印象を形づくる。ただ一つ、以前訪れた若桜にも通じる山と清流がある地特有の澄んだ空気の感触だけは、第一印象と変わらず、町を心地よく引き締めていた。

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 楽しみにしていた、おろし蕎麦の店は定休日だった。気持ちを切り替えてモーニングセットを出している喫茶店に入った。昨日、通りかかったら、老人たちが大勢ここでくつろいでいたことで、気に留まっていた店である。

 朝の店内にはぼく以外の客はいなかった。厨房にいた女将に声をかけて、スタンダードなモーニングセットを注文すると、すぐに持ってきてくれた。昨夜の深酒で疲れた胃に、甘いジャムを塗ったトーストが心地よい。そしてコーヒーが気持ちをぴしりと引き締めてくれる。

 応対してくれた女将も、この地の人だった。店は戦後の1953年に大衆食堂として開業して以来、続いてきた。移転をしたことを機に店名とメニューを変えたが、往時を忍ばせる定食類から惣菜、そして喫茶メニューまで幅広く提供しているそうだ。

「ここにコーヒーを飲みに来てくれる、おじいちゃんおばあちゃんはみんな元気よ。何しろね、ここのお母ちゃんたちは、働きものなの。日本一」

 人口減少と高齢化が進んでいるが、若い人が移住するケースも増えてきているという。

「この町は、なんでもあるもの。ちょうどいい大きさにまとまっていて、いいところよ」

 若桜の女将と同じ言葉に、自然と人が共存する町特有の「充足感」が滲み出ていた。

 あなたも良かったらおいで。そんな言葉をもらいながら、帰途に着くことにした。もう少しいたいのは山々だったが、渡世の義理で夕方には東京に戻らないといけなかったのである。

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「俺はさ、三国港に寄ってみるよ」

 帰りの電車も単行だった。しばし黙考していたミハラさんは、今回のもうひとつの候補地だった終着駅を見てくると言い出した。

「いいですね」

 若い女性アテンダントは、勝山駅から乗り込んだ初老の男性の海外旅行話に付き合っている。

「これ見てよ」

「綺麗な景色ですね」

「あとこれね、令和元年の硬貨」

「わめずらしい」

 空いた車内でふたりの会話は筒抜けで聞こえてくる。初老の男性は、なんとも嬉しそうにしゃべっている。その会話のわずかな間隙をぬって、やおら腰をあげたミハラさんが、三国港までの乗り継ぎ切符を所望し、鉄道切符のバリエーションについてこれまた嬉しそうに語り出した。アテンダントは、気立てがいいのだろう。マニアック度全開の話題に、若干引き気味ではあるものの、そうなんですか、とか、ありがとうございます、などと健気に相槌をうっている。

 暖かな日差しの入った車内は、行きとは少し異なる雰囲気ではあるが、これはこれでほんわかした寄り合い所の様相になった。

 ちょうどいい。

 先ほどの女将の言葉が頭に浮かんできた。恐竜で息を幾分か吹き返してはいるものの、人は減り続け、高齢化は進む。外からでは、勝山の町はそんな「寂しさ」しか見えてこないかもしれない。でも、住人たちは、そんな姿を受け入れつつ、丁寧に暮らしているように見えた。背伸びせず、選び抜いたものと共に暮らす。そんな難度の高い、でも、心地よい生き方を易々とこなしているのは、年の功だけでは説明できそうにはない。

 程よさを知る彼らが選んだものの中に、えちぜん鉄道は入っている。

 福井の市街地に入り、車内は混んできた。アテンダントも忙しくなってきた。

「じゃあ、俺、ここで降りるから」

 乗り換え駅で、ミハラさんが席を立った。

「いい仕事を選んでいけたらいいね」

 東京に戻るのは、無理と分かって引き受けた仕事に関する、少々気の重い話をするためだった。昨日落ち合った時に、ちらとこぼした愚痴を聞いて、2日がかりでミハラさんが元気づけてくれていたことに、ようやく、気づいた。

「焼き鳥屋、いいセレクトでした」

 ぼくの思いが伝わったか、伝わらなかったか。ミハラさんは、背中を向けたまま手を軽く上げて、ホームへ降りていった。

文=服部夏生 写真=三原久明

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【単行本発売のお知らせ】
本連載をもとに加筆修正して撮り下ろしの写真を加えた書籍『終着駅の日は暮れて』が、2021年5月18日に天夢人社より刊行されます。

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服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのちに、フリーランスの編集&ライターに。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。他、各紙誌にて「職人」「伝統」「東京」といったテーマで連載等も。趣味は、英才教育(!?)の結果みごと「鉄」となった長男との鈍行列車の旅。
三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2019年12月に取材されたものです。

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