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台湾の人々に慕われる八田與一を偲ぶ|立夏~小満|旅に効く、台湾ごよみ(20)

旅に効く、台湾ごよみは、季節の暦(二十四節気)に準じて、暮らしにとけこんだ行事や風習などを現地在住の作家・栖来すみきひかりさんが紹介。より彩り豊かな台湾の旅へと誘います。今回はこの時期、台湾の街角で売られる花飾りや、神様のように慕われる日本人・八田はった與一よいちの精神性をご紹介します。

濡れた街で楽しむ優雅な薫り

5月になると台湾は、日本よりひとあし先に梅雨にはいる。台湾の梅雨は薫りの季節だ。

夜も更けるころ、雨音といっしょに、開け放したベランダから夜香木やこうぼくの甘やかな匂いが忍び込んでくる。陽が沈むと、星型の小さな花がひらいてジャスミンに似た芳香を放つ夜香木は、“ナイトジャスミン”とも呼ばれる。

街でもよく玉蘭(マグノリア)や、李香蘭の歌で知られる夜来香(グエライヒョン/イエライシャン)の「花売り」を見かけるようになる。「台湾語」(ホーロー語)では売花べえふぇーと言って、この季節の台湾俳句の季語でもある。

「南国の夏は暑く汗をかきやすい。洗髪や入浴のあとに香りの花を髪に飾ることは婦女の嗜みでもあった。いわば香水でもあり、アクセサリーでもあった」

台湾俳句歳時記/黄霊芝・著

現代ではそうした姿を見かけることはあまりないが、かわりにタクシーや自家用車で芳香剤がわりに車内に掛けられている。花売りは交差点や地下鉄の駅など人通りの多い場所に立っていて、台北で買えばひとつ20元(日本円で約80円)ぐらい。夜明けまえに南部の栽培農家が摘みとり低温で都市部まで運ばれた花は、3房ほどを一組にして針金を通し、花売りがざるに載せて信号待ちの車や廟の前をゆく人々に声をかける。

花売りには身体に障碍をもつ人や高齢の女性も多い。新鮮なうちに売り切らねばならない大変な労働でもある。しかし、この仕事で何人もの子供を大きくしたり家を買ったりしたベテランも少なくないそうで、玉蘭産業はこれまで多くの経済的に厳しい家庭を支えてきたといえるだろう。

台湾の見慣れた風景である玉蘭売りだが、栽培農家から出荷・卸・小売にいたるまでの一種独特な流通網は、関係者以外にほとんど知られていなかった。それをつまびらかにしたのが、彰化県や屏東県の玉蘭農家の花摘みから街で売られるまでの過程を写真におさめてきた写真アーティスト、沈昭良さんの作品「玉蘭」シリーズ(2001-2008)だ。庶民文化や信仰習俗、格差のはげしい台湾社会の暗部、再開発のために玉蘭の樹が切り倒されるなど社会変化によって徐々に失われていく伝統的風景への哀惜、そして純白の玉蘭の花がもつエロティシズムが白黒の写真世界から匂いたってくる。

更にこのコロナ禍で廟の祭りが中止になったり、人同士の接触が倦厭されたりで、玉蘭産業もおおきな打撃を受けているらしい。それを聞いて近ごろはわたしも、花売りを見かけるとなるべく買い求めるようにしている。湿度が高いと、花はとりわけよく香る。買ったばかりの花の房を指の先にひっかけて濡れた街を歩けば、優雅な馨りがじめじめとした天気に陰るこころを軽やかにしてくれる。

神様のように慕われる日本人

 立夏のころ、毎年5月8日は「八田祭」がある。「八田祭」の八田とは、明治19(1886)年に石川県金沢市で生まれ、日本統治時代の台湾総督府に在籍した水利技術者・八田與一のことだ。八田與一が台湾南部につくった灌漑施設は15万ヘクタールの土地をうるおし、サトウキビの生産は4倍、米の生産は11倍に飛躍した。現在は農地のみならず、半導体など台湾にとって重要なハイテク産業にも水を供給している。

台湾では、数多くの実在の人物が死後に神様として各地で祀られている。生前に大きな功績のある人だったり、悲惨な死に方をした人の祟りへの恐れだったり、祟るような強い霊力にあやかったりと祀る背景は様々で、1800年代に遭難したアメリカ商船の船長夫人を祀った廟などもある。

台湾を植民統治していた時代の日本人にも、神様として祀られるか地元で神様のように慕われる例がいくつかある。なかでも、八田與一は台湾でもっとも有名な日本人と言ってよく、その業績は子供の教科書にも紹介されている。

そもそも日本では1917年からの米価の高騰で暴動がおこり、1918年には日本史上最大の民衆暴動「米騒動」へと発展した。食糧不足の日本にとっては米の確保が急務で、期待されたのが当時の植民地台湾での米の増産である。八田らが台湾全土の調査を行ったなかでも、とくに嘉義かぎから台南の嘉南かなん平原は広大な平野と川を持つにもかかわらず、降雨量がすくなく日照りは長い、沿岸部は塩分濃度が高いなどの理由で、農民らは飲み水にも欠く状態だったという。そこで10年の歳月をかけて嘉南の地に作られたのが、烏山頭うざんとうダムと灌漑水路の嘉南大圳かなんたいしゅうだった。

八田與一が亡くなったのは1942年の5月8日、すでに太平洋戦争が始まっているなか、灌漑調査のためフィリピンに向かう途中で船がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて死亡した。八田が亡くなったあとには妻の外代樹とよきが夫の後を追うように烏山頭ダムの放水路に身を投げた。終戦を迎えて日本は台湾から去り、代わりに中華民国が台湾および嘉南大圳水利組合を接収した。それから1946年、台湾の人々の手で烏山頭ダムのそばに八田夫妻の墓が建立され、以来一度も欠かすことなく、八田與一の命日5月8日には水利組合によって墓前祭が行われているという。

建設当時は地元の多くの農民が反対したのみならず、トンネル工事の事故などで少なくない工員が犠牲になるなど、建設は決して順調とはいえなかった。またダムや灌漑施設がつくられたのには、台湾を日本の穀物倉庫にする「宗主国」の思惑があった。にもかかわらず、今でも八田與一が台湾で敬愛されているのは、穀倉地帯に生まれ変わった嘉南の地が現在に至るまで豊かさを産み出しつづけていること、もうひとつは、ひとえに真心のある人物だったこと――事故で犠牲者が出ると泣きながら一軒一軒に謝罪してまわり、台湾人・日本人分け隔てなく殉工碑に名を刻み、人員削減の際には「優秀な日本人は他にすぐ仕事がみつかるだろう」との理由で日本人の優秀な工員からリストラし、諦めずに夢と希望をもちつづけた――その深い精神性が民族や時代を越えてずっと水のように流れつづけているからかもしれない。

今年の八田祭に、わたしもはじめて参列する機会を得た。墓前に供えられたパパイヤに竜眼など宝石のような果物のかずかずや、蓬莱米で作られたお酒。さらに八田與一の銅像の視線の先にみえる烏山頭ダムを眺めていると、台湾の人々が土地を大切に思う心、歴史を大事にし、未来に繋げていこうとする心がひしひしと感じられた。

台湾の地をうるおす梅雨の雨音を聴きながら、あのカワセミのようなエメラルドグリーンに輝く烏山頭ダムの水面にも、この雨が降っているのだと想像する。

文・絵=栖来ひかり

<お知らせ>
先日、台南市政府文化局によって出版された児童書『1930 烏山頭 水がめぐる平野の物語』の日本語版に、栖来も推薦文を寄稿させていただきました。お手にとっていただければ嬉しく思います。

栖来ひかり
台湾在住の文筆家・道草者。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)。

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