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南端、三崎港へ|新MiUra風土記

この連載新MiUra風土記では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第3回は、三浦半島の南端・三崎港を歩きます。
町おこしの港
もし、あなたが「なにかを変えたいな」と思っているなら 
三浦に遊びにきませんか?
近所に散歩にいくような、軽い気持ちでいいんです
(中略)  
「生きている」ことをお祝いしたくなるような不思議な町なんです

 これは、ことし三浦市が発行した、移住・定住情報誌「MIURA」の巻頭文の一節だ。

 三浦半島の最南端、かつて日本有数のマグロ漁港だった三崎港の三浦市だが、人口減少によって神奈川県内で唯一の市の「消滅可能性都市」とされて、新規の来島者による定住促進、町おこしに迫られている。

 けれど僕はこの半島南端の町に魅かれている。

北海道のような丘陵畑

 三崎港といえばマグロだ。京急電鉄の「みさきまぐろきっぷ」は人気で、週末は京急三崎口駅の港へ向かうバス乗り場に行列ができる。僕は時間に余裕があればこれを避けようと、一つ手前の駅の三浦海岸駅で下りる。

 バスの便は少なく時間はかかるが、車窓からは三崎口駅からとは違った風景が愉しめるのだ。この駅をでると三浦海岸の海水浴場で、師走ならば砂浜に三浦大根の寒天干しのパノラマが広がる。

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 大きく弧をえがく金田湾に沿ってバスは走る。名物の遊漁和船「仕立船したてせん」が点々と浮かんでいる。海岸路から台地へ上がると風景は一変して畑地が広がり、まるで北海道へ来たみたいだ、といつも想う。

 360度オープンの港への丘陵地に、陽光をさえぎるものは無い。浦賀水道や太平洋が、江の島、富士山、伊豆半島がくっきり見える。三浦野菜の代表といえば春夏ならキャベツ、スイカ。秋冬なら大根、ミカン、いちごだ。このバスルートは、魚介類だけではない農としての三浦を知ることができるのだ。

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三崎の暮らし

 三崎港のバス停で降りたら、まず海南神社かいなんじんじゃに参拝しよう。境内には樹齢800年の伝源頼朝手植えの大銀杏がそびえる。縁起によれば漂着した貴人が海賊を平定し、漁法を伝えて982年に創建。三浦一族、三浦半島の総鎮守となった。「食の神」も祀られて、包丁供養でも知られる。そしてこの港町には花街があったという。僕は三崎の光も陰も知りたかった。
 
 三崎銀座通りは三崎町の中心街だが、いまは閉店・廃業が目立つシャッター通りだ。ただ、ここでは昭和の繁栄とその後の衰退のさびしさよりも、むしろ愛おしさを覚えるのはなぜだろう?

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 商店街のなかでも「ミサキドーナツ」(元時計店)はいつも活気がある。三崎港発のヌーベルヴァーグなドーナツ店。今や県内に6店舗を展開する。並びにある蔵書室「本とたむろ」(元船具店)とともに、眠りつづけてきた街に光を与えている。

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 廃業した店舗や古民家の再生で、起業人や移住者を呼ぶ、新しい半島生活が生まれている。

北原白秋と遊郭

「スギヤマ洋品店」の前を進んで、蔵を改築した旅館、マグロの路上解体で人気の海鮮店をすぎ、天保4年(1833)創業の大漁旗製造の三富染物店をのぞき、北条湾にでた。

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「三崎の遊郭はどこに在ったのでしょう?」と訊いて、「湾の奥、川沿いを入ったとこに在ったの」とおしえてくれたのは、マグロ丼店を切り盛りしている老婦人だった。以来、その消滅が気になり、三崎を訪れるたびに足が向いている。

「雨はふるふる、城ヶ島の磯に、利休鼠りきゅうねずの雨がふる」

 三崎に住み、この地を愛したのは詩人の北原白秋。湾に流れ込む狭塚川さつかがわの橋のたもとに、白秋と北条花街(遊郭)を解説する市の説明板が立っている。

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 花街は明治期、ここ諏訪町へ移転。妓楼ぎろうは5軒、娼妓しょうぎは44人いたという*。その後温泉がでて旅館街を装ったが、歴史を感じさせる木造建物は1、2軒が残っているのみで、飲食店の廃屋が除却を待っている。ひと気のない河岸の路地を徘徊すると、旅館だった建物に行きあたった。その細部の意匠には、男女の享楽と悲哀の時が滲んでいるかのようだった。

*『全國遊郭案内』日本遊覧社 昭和5年 復刻版(平成26年 カストリ出版)

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三崎城にて

 遊郭があったエリアの脇の坂道を登ると、そこは三崎城趾。沖合には城ヶ島が防波堤のように横たわり、港への風波を防いでいる。見下ろす北条湾にはかつて三浦水軍や後北条氏の軍船が係留されていた。彼らの脅威は対岸の房総半島を治める里見氏らだった。

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 この城山には、三浦市役所や図書館などがあり、行政の中心だったが、5年後に三崎口駅に近い引橋ひきはしへの移転が決まった。城跡地では三崎港、三浦市の漁業、農業、観光、健康を促進する市としての再生拠点化の計画が進んでいる。
 
 温暖で昭和の風情を残す港町に、いま年間600万人が訪れて、神奈川県内の横浜、鎌倉・江の島、箱根の三大観光エリアにつぐ集客ゾーンとして注目されている。僕はそこに、三崎の全盛期、漁師らの蕩尽豪放ぶりを、極彩色の動画をみるように回想した。

 地殻変動による過去と現在がミルフィーユのように重なりあう三崎地層。港町は、行楽、移住、永住者の「来て楽しい」「生きていてよかった」という、未来の約束の地への試みが進む町だった。

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。


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