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最澄はなぜ8歳下の空海に弟子入りしたのか?|日本仏教界・二大巨頭の交遊と訣別(1)

山折哲雄・編

日本の天台宗の開祖として知られる最澄(766~822年)。昨年は1200年大遠忌を迎えたことから、東京国立博物館で特別展「最澄と天台宗のすべて」が開催されました。2022年も引き続き九州国立博物館と京都国立博物館で特別展が開催予定です。
また、真言宗の開祖として知られる空海(774~835年)。2023年には生誕1250年・開宗1200年を迎えることで、同時代を生きた最澄とともに注目が集まっています。
この連載は、宗教研究者の山折哲雄氏が編者を務める最澄に秘められた古寺の謎(ウェッジ)から、内容を抜粋・再編集するかたちで最澄と空海の交遊と訣別に迫るものです。
今回のテーマは最澄より年下であり、もとは無名僧であった空海に、最澄が弟子入りをする経緯です。

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書簡から始まった最澄と空海の交遊

 唐で真言密教を学んだ空海。帰国後は、なぜかすぐには都に入りませんでした。その理由については、「20年の留学期間を勝手に早めて帰国したことを朝廷にとがめられて、入京が許されなかったから」などと考えられていますが、はっきりしたことはわかっていません。

 空海は帰国後、おそらく九州の大宰府だざいふで、唐から将来した仏典・仏像・仏具などをリストアップした『請来目録しょうらいもくろく』を作成しています。将来した経論は二百十六部四百六十一巻に及びました。そしてこの目録に上表文を添えて先に入京することになった高階遠成たかしなのとおなりに託し、平城へいぜい天皇に献上。遠成は12月に入京復命しています。

①空海

空海像(観智院)。遣唐使としてともに唐に渡った最澄と空海は、出発前は面識がなかったが、帰国後は密接な関係をもつようになる

 空海がようやく入京を認められたのは大同4年(809)7月のことです。この年の4月、平城天皇は病気のため弟の嵯峨さが天皇に譲位しています。入京した空海がまず居所としたのは、最澄ともゆかりの深い和気氏の氏寺、高雄山寺たかおさんじでした。

 なぜ空海は高雄山寺に入ったのでしょうか。これには最澄がからんでいたのではないか、とする見方があります。その訳はこうです。

 当時の都では最澄が唐から持ち帰った密教が脚光を浴びていて、最澄もまた密教の重要性を認識し、天台宗の年分度者に密教を専攻する遮那業をもうけ、密教の興隆に力を注いでいました。

 そんなときに、「唐の都で最新の密教を学んだ空海が帰国した」という報せが最澄の耳に届きます。当然、最澄は興味を示したでしょうし、いずれ空海に直接会ってみたいとも思ったはずです。

 やがて最澄は、空海が大同元年に作成し天皇に献上した『請来目録』を何らかの手立てを使って入手します。あるいは、平城天皇が最澄に見せて、「空海という僧をどう思う」などと下問したのかもしれません。

『請来目録』を披見した最澄は、自分が唐では入手できなかった貴重な密教典籍を空海が山ほど所持していることを知り、また空海が非凡な僧侶であることを見抜きます。そこで最澄は空海を入京させることを天皇に推奨。加えて、旧知の和気氏に話を通して、高雄山寺を空海の止住寺院とするよう斡旋したのではないか――。

 推測まじりではありますが、このような見方の裏付けとなるのは、最澄がまもなく空海に典籍の借覧を書簡で申し込んでいるという事実です。

②伝教大師像(根本中堂前)

最澄像(根本中堂前)。最澄は唐で険しい山の中で修行に励み、帰国後は比叡山に入った

 最澄と空海のあいだで交わされた現存する書簡のうち、もっとも古いものは、大同4年8月24日に最澄が空海宛に記したもので、『大日経略摂念誦随行法だいにちきょうりゃくしょうねんじゅずいぎょうほう』一巻など、あわせて十二部の文献の借用を願っているのです。

 あらかじめ『請来目録』を目にしていたからこそ、最澄はこのような手紙を書くことができたのでしょう。書簡は弟子の経珍にもたせて空海のもとに届けたようですが、このとき、空海はすでに入京をはたして高雄山寺に止住していたようです。

 ただし、この書簡の文面は、挨拶文もなしに書名を列記した簡潔なものなので、両者のあいだに最初に交わされた書状とは考えにくいので、これ以前に、すでに二人のあいだには書簡のやりとりがあったとみるべきでしょう。

空海から密教の灌頂を受けた最澄

 最澄が8月24日の書簡で借用を申し込んだ文献は、空海から快く貸与されることになります。その後も最澄はたびたび空海に書物の借用を申し込んでいます。もちろん、書写をしおえたら空海にすぐ返却したのでしょう。また、逆に空海が最澄から天台関係の書物を借りた場合もあり、両者に贈答品のやりとりもあったようです。

 書簡の文面をみると、最澄は空海より8歳も年長でしたが、空海に教えを乞う鄭重ていちょうなものであり、一方の空海も先輩に対して十分に礼を尽くしていました。

 書面のやりとりが続いたのち、二人がようやく対面をはたしたのは、弘仁3年(812)10月27日のことです。空海は前年10月から乙訓寺おとくにでら(京都府長岡京市今里)の別当に任じられていました。

 最澄は住吉大社・奈良へ出かけた帰途に乙訓寺を訪ね、空海との面会がかなったのです。空海は最澄に仏像や仏画を見せ、灌頂かんじょうの伝授を約束したとされ、最澄は寺に一泊しています。

 灌頂の準備のため、空海はまもなく乙訓寺を発ち、高雄山寺に入ります。最澄も高雄山寺に入り、11月15日に空海から金剛界灌頂を受け、12月14日には胎蔵界灌頂を受けています。

③神護寺

現在の神護寺。天長元年(824)に和気氏の氏寺であった高雄山寺と神願寺が併合された寺院である

 12月の胎蔵界灌頂には大勢が参加したようです。このときの記録である空海自筆の『灌頂歴名』には、最澄とその弟子も含めて僧侶22名、沙弥しゃみ37名、在家者41名、童子45名、合わせて145名の名が記されています。

 ただしその灌頂は、持明(受明)灌頂あるいは学法灌頂と呼ばれるもので、師僧(阿闍梨)が受者を求法の弟子として認める、入門許可的な性格のものであったようです(田村晃祐『最澄』)。初歩的なものなので、伝法灌頂と違って、『灌頂歴名』からも明らかなように、僧俗を問わず受けることができるものでした。

 この弘仁3年の高雄山寺での空海による灌頂は、帰国後の空海にとっては日本における公開的な密教行事の最初であって、彼の入唐での成果を朝野に知らしめるものでした。当時の日本仏教界の指導者的地位にあった最澄や南都の大寺の高僧たちが参列し、後輩の空海を師と仰いで受法したことは、少なからず話題になったことでしょう。そして空海は高雄山灌頂を土台として密教の布教と教団の確立に本格的に取り組みだし、ほどなく真言宗の開宗にいたるのです。

④  結縁灌頂(国会図書館)

高雄山寺で最澄が空海から灌頂を受ける様子が描かれている(『弘法大師行状記図会』)

 一方、最澄の側からみると、空海とのやり取りや密教文献の借用を繰り返すなかで、しだいに自分自身が唐で受法した密教が不完全・不十分なものであったことに気づかされます。そのことを深く自覚したからこそ、弟子を引き連れて空海による高雄山灌頂に臨んだのでしょう。ともかく、密教の面では、空海はたしかに阿闍梨でありましたが、最澄は阿闍梨とはいえませんでした。

 最澄の弟子円澄えんちょうが後年記した空海宛の書簡には、興味深いエピソードが記されています。この灌頂後、最澄が空海に「さらなる秘法(大法儀軌ぎき)を受けるには何カ月が必要ですか?」と尋ねると、空海は「3年」と答えました。

 そこで最澄は受法を断念し、代わりに円澄らを空海のもとに預けて密教を学ばせたといいます(「真言教を受学せんと懇請する書」)。すでに天台宗の責任者という地位にあり、40代も半ばを越した最澄には、修道への思いがいくら強かったとはいえ、3年もの歳月を修学・修行に費やす余裕はなかったのです。

⑤比叡山

比叡山からの眺め。山内は東塔、西塔、横川の3エリアに分かれる

 そして、この一件が象徴するように、二人の心のあいだにはいつしか懸隔が生じはじめていたのでした。

>>>(2)「最澄と空海、二人が絶交した深いワケとは?」につづく


――大遠忌1200年を迎えた最澄については、最澄に秘められた古寺の謎(山折哲雄編、ウェッジ刊)の中で、写真や地図を交えながらわかりやすく解説しています。ただいま全国主要書店やネット書店にて絶賛発売中です。

◎本書の目次
第1章 最澄の生涯Ⅰ――生誕から入唐まで
第2章 最澄の生涯Ⅱ――開宗から遷化まで
第3章 延暦寺をめぐる
第4章 最澄ゆかりの古寺

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山折哲雄(やまおり・てつお)
宗教学者・評論家。1931年、米国サンフランシスコ生まれ。東北大印度哲学科卒業。国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター所長を歴任。現在は国際日本文化研究センター、国立歴史民俗博物館、総合研究大学院大学の各名誉教授。『世界宗教大事典』(平凡社)、『仏教とは何か』(中公新書)、『「ひとり」の哲学』(新潮選書)、『わたしが死について語るなら』(ポプラ新書)など著書多数。


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