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最澄と空海、二人が絶交した深いワケとは?|日本仏教界・二大巨頭の交遊と訣別(2)

>>>日本仏教界・二大巨頭の交遊と訣別(1)から読む

山折哲雄・編

日本の天台宗の開祖として知られる最澄(766~822年)。昨年は1200年大遠忌を迎えたことから、東京国立博物館で特別展「最澄と天台宗のすべて」が開催されました。2022年も引き続き九州国立博物館と京都国立博物館で特別展が開催予定です。
また、真言宗の開祖として知られる空海(774~835年)。2023年には生誕1250年・開宗1200年を迎えることで、同時代を生きた最澄とともに注目が集まっています。
この連載は、宗教研究者の山折哲雄氏が編者を務める最澄に秘められた古寺の謎(ウェッジ)から、内容を抜粋・再編集するかたちで最澄と空海の交遊と訣別に迫るものです。
今回のテーマは、交遊を深めていた最澄と空海が、のちに仏教観の相違から絶交に至る経緯です。

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『釈理趣経』の借覧を断られた最澄

 最澄と空海の疎遠を決定づける事件が起こります。弘仁4年11月、最澄は空海に書簡を送り、『釈理趣経しゃくりしゅきょう』(『理趣経』の注釈書)の借用を願い出ます。

①最澄

最澄像(千葉厄除け不動尊)。中国での密教修行の差が、のちに空海との立ち位置を微妙なものにさせていく

 ところが、空海はその依頼をきっぱりと断ります。この件での最澄に対する空海の返信は、「叡山の澄法師の理趣釈経を求むるに答する書」として『性霊集しょうりょうしゅう』に収録されています(「続遍照発揮性霊集補闕抄しょくへんじょうはっきせいれいしゅうほけつしょう」巻第十)。長文ですが、そのさわりの箇所を引用してみます。

し仏教に随わば、必ず三昧耶さんまやを慎むべし。三昧耶を越えれば伝者も受者もともに益無かるべし。れ秘蔵の興廃は唯汝と我なり。汝、若し非法にして受け、我、若し非法にして伝えば、将来求法ぐほうにん何に由ってか求道ぐどうこころを知ることを得ん。非法の伝授せる、これ盗法とうほうなづく。即ち是れ仏をあざむくなり」

「三昧耶」は密教ではいろんな意味をもつ言葉ですが、ここでは「密教行者の誓い」の意であり、「三昧耶を越える(越三昧耶)」とは密教行者としての誓いを破ることをいいます。具体的には、師僧から伝授を受けずして密教を学び伝えようとすることをさし、密教では重罪の最たるものです。

 つまり空海は、『理趣経』の注釈書を借りようとした最澄に対し、いまだそれを披読する資格がないとしてはげしく非難し、もしこれを許せば「非法」を伝授することになり、それは「盗法」につながるとまでいうのです。

②空海

空海像(『真言八祖像』のうち空海、国立文化財機構所蔵品統合システム)

 なぜ空海はこれほどまでにはげしい難詰を行ったのでしょうか。

 これには、『理趣経』という密教経典の特殊な性格が大きくからんでいると考えられます。『理趣経』は『般若理趣経』ともいい、「仏の智慧(般若)の理」を密教的に説いたものですが、性欲に代表される一切の人間的欲望を肯定し、欲望の解放こそが菩薩ぼさつの境地であるとします。

 たとえば、有名な「十七清浄句」の冒頭は「妙滴みょうてき清浄の句、是れ菩薩のくらいなり」とありますが、「妙滴清浄」とは「男女性交の快楽は本来清浄である」という意味だとされます。ただし密教の伝統的解釈では、こうした内容をあくまでも求道を続ける菩薩の内面性の比喩ととらえ、安易な理解を戒めています。

『理趣経』はこのように扱いの難しいテキストですが、それだけに空海は神経質になり、そんな『理趣経』の内容を、師から弟子への面授を飛び越して、たんにテキストの読解のみで学び取ろうとした最澄の態度に、厳しい批判の言葉を投げつけたのではないかと考えられます。

 同じ返信のなかで空海は、「秘蔵の奥旨おうしもんの得ることを貴しとせず。唯こころを以て心に伝うるに在り」、つまり、密教の奥義はテキストでは十分には伝えられない、心によって心へ伝えるほかないのだ、とも訴えています。

 この出来事が訣別の引き金となったのか、書簡のやりとりをみると、弘仁5年からは最澄はもっぱら借りていた書物を空海に返却するばかりとなり、弘仁8年以降の書簡は伝えられていません。おそらく文通は絶えてしまったと考えられます。

最澄の愛弟子、泰範の離反

 最澄と空海の訣別を決定づけた事件が、もう一つあります。それは最澄の愛弟子泰範たいはんの離反です。

 泰範はもとは奈良の元興寺がんごうじの僧で、延暦21年(802)、25歳のときに東大寺で受戒したのち、比叡山の最澄のもとに移ります。最澄より12歳下でした。

 優秀な弟子であったらしく、弘仁3年(812)5月、大病にかかって遺書をしたためた最澄は、泰範を比叡山寺の総別当に任じて後事を託そうとしました。幸い最澄は回復しましたが、その後しばらくしてなぜか泰範は山を下りてしまいます。泰範自身は最澄宛の手紙に「私にはつねに破戒の心と行いがあり、清浄な学問をいたずらに穢してしまいました」などと抽象的な釈明をしていて真相がつかみづらいのですが、比叡山生え抜きではなかったのに総別当に任じられたことで山内の他の僧侶たちからやっかみを買い、いづらくなった、というような事情だったのかもしれません。

 しかし、同年12月14日に行われた高雄山寺での胎蔵界灌頂には、最澄の勧めを受けて参列し、最澄とともに空海から灌頂を受けています。その後、最澄の意を受けたのか、それともみずからの考えでそうしたのかがわかりませんが、空海のもとに留まって密教を学ぶことを選び、翌弘仁4年3月6日には空海から金剛界灌頂(伝法灌頂)を受けています。

③神護寺

現在の神護寺。前身の高雄山寺は天台宗・真言宗の礎を築いた寺院といえる

 そしてこれ以後、泰範は完全に空海の弟子となり、真言宗の門に入ってしまったと思われます。しかし、最澄とは書簡のやりとりは続けていて、最澄は機があれば彼を比叡山に呼び戻そうと考えていたようです。

 弘仁7年5月1日には最澄は明白に帰山を願う手紙を泰範に書き送っています。その中で最澄は、「法華一乗と真言一乗と、何ぞ優劣有らん」、つまり天台宗と真言宗には優劣はなく何ら相違はないのだと訴え、「もし深き縁有らば、倶に生死しょうじに住して、同じく群生ぐんしょうを負わん」、もう一度一緒に仏道を進もうと篤く呼びかけています。

④久隔帖

最澄筆 尺牘(久隔帖、国立文化財機構所蔵品統合システム)。最澄が空海のもとにいた泰範に宛てた書状

 これに対する泰範の返事はどのようなものだったのでしょうか。じつはその返書は、泰範ではなく空海が筆をとり、しかもその内容は最澄の思いを無情にもはね返す峻烈なものでした。

 その返書「叡山の澄和上啓ちょうわじょうけいの返報書」(『性霊集』「「続遍照発揮性霊集補闕抄」巻第十)のなかで、空海は「私は大豆と麦の区別がつけられない愚か者かもしれないが、玉と石の区別をつけられないほどではない。法華一乗と真言一乗は全く異なる」と論駁ろんばくし、「泰範が真言の教えにひたすらになっていることを責めないでほしい」と結んでいます。

 泰範は空海のもとに行く以前から比叡山のあり方に疑念を抱いていたようなので、「泰範を空海が最澄から奪い取った」という言い方は正確ではないようです。しかし、この文書が示すように、泰範をめぐるやり取りと泰範の最澄からの離反が、平安仏教の二人の巨人の決裂を決定的なものとした、ということはいえるでしょう。

 その後の泰範ですが、引き続き空海に師事し、空海が高野山を開くときには師に先立って登山して草庵を結んでいます。そして空海十大弟子のひとりに数えるに至ります。

⑤高野山

高野山。空海は最澄との「訣別」の後、弘仁7年(816)に泰範や実恵らを派遣して高野山の開創に着手した


――大遠忌1200年を迎えた最澄については、最澄に秘められた古寺の謎(山折哲雄編、ウェッジ刊)の中で、写真や地図を交えながらわかりやすく解説しています。ただいま全国主要書店やネット書店にて絶賛発売中です。

◎本書の目次
第1章 最澄の生涯Ⅰ――生誕から入唐まで
第2章 最澄の生涯Ⅱ――開宗から遷化まで
第3章 延暦寺をめぐる
第4章 最澄ゆかりの古寺

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山折哲雄(やまおり・てつお)
宗教学者・評論家。1931年、米国サンフランシスコ生まれ。東北大印度哲学科卒業。国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター所長を歴任。現在は国際日本文化研究センター、国立歴史民俗博物館、総合研究大学院大学の各名誉教授。『世界宗教大事典』(平凡社)、『仏教とは何か』(中公新書)、『「ひとり」の哲学』(新潮選書)、『わたしが死について語るなら』(ポプラ新書)など著書多数。

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