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大家と言やあ親も同然、店子と言やあ子も同然|立川志の春(落語家)

各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただくエッセイあの街、この街。第8回は、米国・イェール大学卒業後に大手商社入社したのちに落語家の道を選び、2020年に真打しんうちとなった異色の経歴の持ち主の立川たてかわはるさん。ユーモアを交えつつ、じんとするお話を綴っていただきました。

 26歳の時、思い立って勤めていた会社を辞め、落語家になった。

 といっても、入門してすぐに「落語家でござい」と名乗れる身分になれるわけではない。プロの落語家になるためには、まずは前座修業というものを乗り越えなくてはならない。この期間中、前座は師匠や先輩の身の回りのお世話をしながら、芸の基本や業界のしきたり、そして芸に必要な細やかな気遣いを学ぶ。

 その前座修業に私の場合、8年の月日を要した。通常の倍だ。そう、もう一つ前座が学ぶことがあった。貧しさへの耐性。これについては十分すぎるほど身につけることが出来た。

 8年間の大半を、私は渋谷区東三丁目で過ごした。恵比寿駅前の喧騒を抜け、明治通りを渡り、路地を一本広尾側に入ったところに私が住んでいたアパートがあった。閑静な住宅街には似つかわしくない築50年以上の古いアパート、名前を「石岡荘」といった。

 そこを選んだのは、恵比寿にある師匠の事務所から近かったからだ。私の修業中の最大の役割の一つは運転手だった。毎朝、事務所の駐車場から車を出して師匠を迎えに行き、一日の付き人業務を終えてまた駐車場に車を戻す。その頃にはいつも終電時間を優に過ぎていたので、事務所から徒歩圏内に部屋を借りなければならなかった。

 とはいえ場所は恵比寿、まともな部屋を借りようとすると10万近くする。ろくに収入がない中、貯金を切り崩しながら生活していく身で出せる金額ではなかった。そこで駅前の不動産屋でとにかく夜露さえしのげれば何でもいいので3万円台の物件を探して下さいと頼んだところ、「今時珍しいですねぇ」と言いながら、風呂無し、トイレ共同の格安物件を探してくれた。

 そこが「石岡荘」だった。2階建ての1階に大家さん一家が住んでおり、2階にある6部屋ほどのうち4部屋に私同様訳ありの人々が住んでいた。夜、寝に帰るだけだったのでほとんど顔を合わせたことはなかったが、「サトウさん」と呼ばれていた人の部屋からは、時折ギターの音とともに調子はずれの歌声が聞こえてきた。おそらく全て自作の歌だったと思う。何故そう思ったのかというと、私が知っている歌が1曲もなかったのと、世間一般的に需要がありそうな歌も1曲もなかったからだ。例えて言うならば、下痢をしながら裏声でお経を唱えているようなメロディーだった。

 大家さん一家は、アパートの持ち主であるおばあさんと、その息子さんとお嫁さんの3人。おばあさんが当時90代半ばだったので、お嫁さんと言っても70代、かなりベテランのお嫁さんではあった。そのお嫁さんが実質大家さんとして、親切に色々と面倒を見てくれた。

 部屋の中央に座れば、届かないものはないというような便利な部屋だった。風通しもよかった。窓を開けていない時でも、風を感じることが出来た。夏は外よりも暑く、冬は外よりも寒いという、部屋の中にいながらにして日本の四季を感じられる風流な部屋でもあった。隣の部屋の住人のテレビの音や、いびきの音もはっきりと聞こえてきたので、一人暮らしでも孤独を感じることはなかった。夜中など、天井裏で得体の知れない生き物たちが駆けっこをしている音が聞こえてきたりして、ドキドキ感にも事欠かなかった。都会の中で、大自然とともに暮らしている感覚があった。

 近くにかいりょうという、深夜1時まで営業している銭湯があったので、間に合う時はそこへ行き、汗を流した。夏の盛りともなると、銭湯で汗を流しても部屋に戻るまでに汗をかいてしまう上に、部屋に戻って更に汗をかくので、不毛さを感じないことはなかった。ただ、それでも風呂に入った後の冷たい牛乳は美味しかった。そして部屋に戻る道すがら、夜の空に浮かぶ月は美しかった。

改良湯。久しぶりに行ったら、表がずいぶんお洒落に「改良」されてました。

 家賃は振り込みではなく、手渡しだった。月末近くになると、その月の家賃と電気代が合算された金額のメモが部屋の扉の下に差し込んであった。その金額を持って1階へ行き、玄関先に座ってお嫁さんと話すのが毎月一度の楽しみだった。度々私が何かのしくじりで頭を丸めているのを見ると「また何かやっちゃったの」と呆れた表情を浮かべながら、「おばちゃんもこんな歳になってまだ嫁なんて呼ばれながら頑張ってんだから、あんたも修業頑張るんだよ。いつかテレビに出るの楽しみにしてるんだから」そんなことを言いながら、もらい物だけど歯が立たないからと、煎餅をくれたりして励ましてくれた。

覚えたての落語を口ずさみながら歩いた、改良湯から石岡荘へと向かう路地

 前座修業も終盤に差し掛かった頃、風呂のある部屋に引っ越すことになった。「おばちゃんこれまで長い間お世話になりました」とお礼を言いに1階の部屋へ行くと「出世するんだよ!」とだけ言って奥へ行ってしまった。少しだけ、目が潤んで見えた。

 ほどなくして前座修業が終わり、二つ目に昇進して真っ先に記念の手拭を持って石岡荘へ行った。目を疑った。半年ほど前まで石岡荘があった場所がコイン式駐車場に変わっていた。慌てて世話してくれた不動産屋へ行って事情を聞いてみた。老人ホームに入ったらしいということは聞いているが、連絡先も何も知らないと言う。親類筋と連絡がつくかもしれないので、何か情報が入ればあなたにも連絡する、と。

 それ以来何度かその不動産屋へ足を運んだものの、今に至るまで何の情報も得られていない。手拭いは渡せず仕舞いだったが、どこかでこの文章を目にしてくれていればいいなと思う。あの頃70代半ばだから、今は80代後半か。

 おばちゃんごめん、まだあまりテレビには出られていない。でも2年前、真打には昇進出来た。コロナで延期になっていた2年越しの真打昇進の披露目を冬にやるから、おばちゃんには来てもらいたいと思ってる。

「大家と言やあ親も同然、たなと言やあ子も同然」なんて台詞が落語には出てくるけれど、その通り、おばちゃんは落語家立川志の春のおっかさん同然なのだから。

文・写真=立川志の春

立川志の春(たてかわ・しのはる)
落語家。1976年大阪府豊中市生まれ、千葉県柏市育ち。幼少期と大学時代の計7年をアメリカで過ごす。イェール大学卒業後、商社に勤務中、初めて見た落語に衝撃を受けて同社を退社し、立川志の輔門下に入った。2002年10月入門、2011年1月二つ目昇進、2020年4月真打昇進。国内はもちろん、海外で英語落語の公演なども行う。

今後の公演予定
8/21(日) 志の春独演会in柏
8/23 (火)志の春落語劇場in築地
8/27 (土)Cafe NABE落語会
8/28 (日)百栄・志の春二人会④
HP:https://shinoharu.com/
Twitter:https://twitter.com/shinoharu2002
Youtube:立川志の春Tatekawa Shinoharu
note:https://note.com/shinoharu

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