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あの街、この街

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各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただくエッセイです。
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記事一覧

ワンメーターの出会い、ルーツを巡る記憶の旅|Eri Liao(音楽家)

知本という駅で降りた。縁があるのか、この半年間で台東という場所に3回も来ることになった。それまで台東に来たことは、人生で一度もなかった。台北駅から自強號3000という新しい特急に乗って、台東駅までおよそ4時間。知本は台東で乗り換えて二つ目の駅だ。 この電車に乗るたび、「自強」という特急の名前を伝えた時の、日本人の友達のギョッとした顔つきを思い出す。なんか強そう、と言ってきまり悪そうに笑った。この字面がまるで戦前みたいな感じに見えたのだろう。富国強兵号とでもいうような。自強と

青春の思い出の地、信濃大町で味わう30年越しのソースかつ丼|猪熊隆之(山岳気象予報士)

大学山岳部の出身者は、「大学4年間でもっとも印象に残った山行は?」と聞かれると決まって「大学1年の夏合宿」と答えるだろう。そういう自分も富士山での滑落事故を除けば、そう答えるに違いない。 初めての3週間という長期にわたる山行。当然、その間は風呂も入れず、髭も剃れず、食事は全部自炊だ。特に、1年生は体力がないし、経験も技術も少ない。食事作りやテントを張ったり、撤収するときのスピードも遅い。上級生に怒られてばかりだ。その中でも自分は断トツの落ちこぼれだった。同期に比べても体力は

最果ての地で感じた小さな生活の営み|仁科勝介(写真家)

2023年春から、平成の大合併で無くなった旧市町村を巡っている。大学生のときに現在の市町村を巡り終えることができて、大きな喜びと達成感に包まれたけれど、わずかな物足りなさがあることも感じていた。旅という行為への物足りなさではない。日本という土地の全体像を肌で感じ取るには、まだ足りていない、という感触だった。そうして旧市町村を巡る旅を始めて460日経つ。2200ほどの旧市町村を巡る旅であり、今は1200ほど訪れたところだ。 さて、青森県で有名な観光地はいくつかある。奥入瀬渓流

二つの本屋|佐佐木定綱(歌人)

 二つの本屋があった。    ひとつは商店街にある陽明堂「日原書店」、ひとつは駅前デパートの中にある「紀伊國屋書店」。25年ほど前の二子玉川の風景である。  「知っている人」は土曜の夕方になると日原書店を訪れる。週刊少年ジャンプを土曜の16時ぐらいに売り出すのだ。早売りである。禁じられている。    外からは見えない入り口の横のスペースにこっそりと、表紙を隠すベニヤ板まで載せられて、そのブツは積まれている。期待と禁断症状に震える手でそこからいち早くジャンプを抜き出すときの喜

サイパンに残る“日本”|千住 一(観光学者)

兎にも角にも暑かった。場所はサイパン、2週間ほどいただろうか。何年何月何日から何日間の旅だったか、調べようと思えばすぐに分かりそうなものを、いまはその気にならない。唯一手がかりになりそうなのは、日本と韓国でサッカーのワールドカップが開催されている最中のことで、現地のこどもに日本代表チームの調子を聞かれた記憶か。 極東でサッカーボールが行ったり来たりしているあいだ、ぼくはサイパンでたくさんの「日本」と向かい合っていた。第一次大戦でミクロネシア一帯を占領した日本は、建前的には

十八番を授けてくれた街|五代目 江戸家猫八(演芸家・動物ものまね芸)

私にとっての忘れがたい街は、今から11年前の2013年に訪れた場所なのですが、恥ずかしながら番地どころか街の名前さえ覚えておりません。ただひとつ、何区なのかははっきり記憶しています。とても広大なマサイマラ国立保護区、アフリカはケニア旅のお話をしたいと思います。 首都ナイロビから小型飛行機に乗って、草原地帯につくられた舗装されていない滑走路に着陸すると、信じられない光景が広がっていました。目線の先にはシマウマとアフリカスイギュウ、その奥にはぱらぱらとインパラたち。飛行場の周辺

公苑と公園|牟田都子(校正者)

 そこで過ごした10年以上、ずっと「馬事公園」だと思っていた。引っ越してきたのは小学校に上がる前だったから、大人の口にする「ばじこうえん」という音を、「馬事公苑」と正しく変換することができなかったのだ。さらにいえば、「馬事」が何を意味するのかもわかっていなかった。いまなら、JRA(日本中央競馬会)が「国内における馬事振興・乗馬普及の拠点」として運営している場所ゆえの名称だと、すんなり理解できるのだけれど。  あの頃、公苑というのはどこも自分の家の庭くらいの感覚で遊びにいける

常連客として暮らすー那覇の町で|宇田智子(古書店店主)

 69年前の『琉球新報』の夕刊に「あの町この街」というコラムが連載されていたのをたまたま知って、那覇の泉崎にある沖縄県立図書館に行った。  ぶあつい縮刷版を繰る。連載は1955年12月1日から25日まで。初回のリード文は次のように書きだされている。  「“戦後十年”という唄い文句も余すところ三十日、十一年目を迎えようとする今年の師走になって“あの町、この街”が見ちがえるようになつた。きたない路地も、田ンぼも沼地も、無人の境地も十年後の今日は夢にも思わなかつた街がひよつくり

青い夜があった|曽我部恵一(シンガーソングライター)

 2014年に「bluest blues」という曲を出した時、奥日光でミュージックビデオの撮影をした。  奴隷として虐げられた黒人たちが自分たちの悲哀を歌ったのがブルースという音楽で、”bluest blues”という言葉があるのかどうか知らないが、ぼくも当時の自分の落ち込んだ気持ちを表現したくて「いちばんブルーなブルース」というつもりでタイトルにした。  妻と別居してまだ日が浅い頃だった。子供たち3人はぼくと残った。その時期は何をしても失われた家族の像が亡霊のようにぼく

踏みたいアスファルト|真輝志(お笑い芸人)

インバウンドの権化のようなしゃぶしゃぶ屋で働いていた。関西国際空港行きのバスターミナルが近いため、観光客がメインターゲットのバイト先。一度インドネシアの女性客から現地の言葉で話しかけられ、わからないなりにYESを連発していると、ツアーガイドが飛んで来て「本当に結婚するんですか?」と尋ねられ驚いた。インドネシアのテンポ感を舐めて接客すると家庭を持つことになる。それなりに忙しい店で体力を奪われたが、生活のためにも最低限のお金は稼ぐ必要があった。 実家を出てから初めて住んだ町、大

おとなりさんは100年以上前からおとなりさん、京のまちに生まれて|大西里枝(扇子屋女将)

京都市郊外に将軍塚という小高い丘がある。市内が一望できる夜景スポットとして、地元の若者が訪れる場所だ。京都には百万ドルの夜景も、高層ビルもない。山々に切り取られたちいさな窪みに、人々の暮らしの灯だけが揺れている。私は、百年以上続く京扇子製造所のひとり娘として生まれ、家業を継ぎ、このまちで商売をしている。この夜景を見るたびに、このまちの狭さを思い知らされる。 京都市の中心部は、住居がぎゅっと密集している。むかしながらの京町家が並ぶこの場所では家どうしの塀が隙間なく、みっちりと

忍野村の「左岸の花」|八代健志(人形アニメーション監督)

コマ撮りアニメーションを作っています。人形などを少しづつ動かしながら写真を撮ってゆき、それを連続して再生することで動いているように見せるのがコマ撮りアニメーション。ストップモーションアニメーションとも呼びます。1秒動かすためには12から24コマの撮影が必要。根気がいる作業ですが、しばらく頑張って撮ったところで再生して、人形が動く様子を初めて見る瞬間は格別。何年続けていても、この瞬間の喜びはたまりません。 昨年の春のこと。ある作品で、人形といっしょに野の花が咲く様子を撮ること

聖地在住|穂村 弘(歌人)

 吉祥寺に住むのが夢だった。憧れの漫画家である大島弓子、楳図かずお、諸星大二郎といった人々の地元であり、作品の舞台にもなっているからだ。一昨年、その吉祥寺にとうとう転居してきた。巷で云うところの聖地巡礼ならぬ聖地在住が実現して嬉しい。現実の吉祥寺もいい街だが、聖地としてのここは私にとっては夢の世界なのだ。  大島弓子の代表作『綿の国星』の中に、こんなフレーズが出てくる。  「昼荻」「痴気情事」「夜鷹」とつづく、この沿線の延長線上に……  半世紀近く前に初めて本作を読んだ

国境の地で、文化の境界を覗く|今和泉隆行(空想地図作家)

 2018年5月にウラジオストクから海沿いを南下し、中国を目指す旅の途中で寄った町、スラヴャンカ。このあたりは東京からの距離が釜山と同じくらいで、沖縄よりは近い。ウラジオストクまでは成田空港から直行便で2時間ほどで、飛行機に乗れば台湾よりも近く感じる。乗ってしまえば近いのだが、ロシア大使館でビザを取り、飛行機や宿を予約するまでは、遠く感じていた。行ったことがある人は少なく、行けるのか分からない印象があったからだ。それから国際情勢が変わり、もしあのとき行っていなかったら、私の中