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あの街、この街

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各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただく連載エッセイです。
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記事一覧

旅とはイオン、旅とはジャスコだ|伊藤栄之進(脚本家・演出家)

別に回し者では無い。 ジャスコが既に消滅していることも知っている。 タイトルとして響きが良かったので採用したまでである。プラス、ジャスコという音には言い知れぬ何某かが内包されているような気がするので今も気に入っているというのが、有る。 誰も私のことなど知らないと思うので一応の自己紹介をしておこう。劇作家、舞台演出家、脚本家。おおよそこのいずれかに当てはまるのだと思う。 思う、というのは本人があまりピンと来ていないからだ。パンクロックをやっていたらいつの間にかそんなものにな

「めがねのまち」のモニュメント|伊藤美玲(眼鏡ライター)

鯖江駅を出ると、「めがねのまち さばえ」と書かれた大きな眼鏡型のモニュメントが出迎えてくれる(上記写真)。シンプルでいて力強い、街の象徴たるモニュメントを前にすると、毎回ワクワクせずにはいられない。今日もこの地に来た証にとそれをカメラに収めるのは、私にとってもはや取材前の儀式のようなものだ。 眼鏡業界をメインに取材をする“眼鏡ライター”の私は、毎年1~2回はこの鯖江を訪れている。というのも、福井県鯖江市は国産眼鏡フレームの9割以上を生産する一大産地。世界的にも高級フレームの

切っても切れない大事な島|沖昌之(猫写真家)

猫写真を撮り始めたのが2014年。 2015年に新潮社より『ぶさにゃん』という写真集が刊行され、我ながらプロっぽいことしてるじゃんと思っていたのですが、撮影場所は自宅から徒歩30分圏内とテリトリーが異様に狭く、趣味で猫の撮影をしている友達のほうが猫島を訪れた回数が多くて、こんなプロ恥ずかしいなって気持ちと、自分が猫島に行ったらどんな写真を撮るんだろうという興味が相まって、猫島に行ってみようと決意したのが2017年。 3年近く動かなかった重い腰をあげ、向かった先は香川県の佐

それは、おかえりの街:歌川広重「阿波鳴門之風景」|赤木美智(太田記念美術館学芸員)

私は、徳島県徳島市の出身である。高校卒業までをこの街で過ごし、大学からは大阪、30代以降は東京で暮らしている。今回は故郷の徳島市ではなく県の北西に位置する鳴門市について書きたいと思う。鳴門市は、西は香川県に接し、北東には兵庫県淡路島が控える、徳島県の玄関口のひとつである。 30年近く昔のことだが、私は大阪の大学を受験するため徳島―和歌山航路の高速船に乗っていた。和歌山を経由し大阪に向かうルートである。現在、本州と四国を結ぶ自動車道が3つあるが、当時はいずれも開通していなかっ

自分から離れる夜|モモコグミカンパニー(作家)

8月の半ば、夏の思い出を作ろうと京都へ一人旅に向かった。昼は、天橋立を観光、その後はそこから電車で一時間ほどの海の近くのホテルに足を運んだ。 17時頃ホテルに到着して、ディナーを楽しみ、少しお酒も入っていい気分になって部屋に戻った後、ホテルの温泉に入ろうと準備をした。 温泉は、広い庭を数分歩いたところにある別館まで行く必要があった。 外に出ると、もう随分日が暮れて空は真っ暗。誘導灯に草木が照らされて、とても幻想的に淡く輝いていた。庭には、所々にリクライニングチェアや、テ

ワンメーターの出会い、ルーツを巡る記憶の旅|Eri Liao(音楽家)

知本という駅で降りた。縁があるのか、この半年間で台東という場所に3回も来ることになった。それまで台東に来たことは、人生で一度もなかった。台北駅から自強號3000という新しい特急に乗って、台東駅までおよそ4時間。知本は台東で乗り換えて二つ目の駅だ。 この電車に乗るたび、「自強」という特急の名前を伝えた時の、日本人の友達のギョッとした顔つきを思い出す。なんか強そう、と言ってきまり悪そうに笑った。この字面がまるで戦前みたいな感じに見えたのだろう。富国強兵号とでもいうような。自強と

青春の思い出の地、信濃大町で味わう30年越しのソースかつ丼|猪熊隆之(山岳気象予報士)

大学山岳部の出身者は、「大学4年間でもっとも印象に残った山行は?」と聞かれると決まって「大学1年の夏合宿」と答えるだろう。そういう自分も富士山での滑落事故を除けば、そう答えるに違いない。 初めての3週間という長期にわたる山行。当然、その間は風呂も入れず、髭も剃れず、食事は全部自炊だ。特に、1年生は体力がないし、経験も技術も少ない。食事作りやテントを張ったり、撤収するときのスピードも遅い。上級生に怒られてばかりだ。その中でも自分は断トツの落ちこぼれだった。同期に比べても体力は

最果ての地で感じた小さな生活の営み|仁科勝介(写真家)

2023年春から、平成の大合併で無くなった旧市町村を巡っている。大学生のときに現在の市町村を巡り終えることができて、大きな喜びと達成感に包まれたけれど、わずかな物足りなさがあることも感じていた。旅という行為への物足りなさではない。日本という土地の全体像を肌で感じ取るには、まだ足りていない、という感触だった。そうして旧市町村を巡る旅を始めて460日経つ。2200ほどの旧市町村を巡る旅であり、今は1200ほど訪れたところだ。 さて、青森県で有名な観光地はいくつかある。奥入瀬渓流

二つの本屋|佐佐木定綱(歌人)

 二つの本屋があった。    ひとつは商店街にある陽明堂「日原書店」、ひとつは駅前デパートの中にある「紀伊國屋書店」。25年ほど前の二子玉川の風景である。  「知っている人」は土曜の夕方になると日原書店を訪れる。週刊少年ジャンプを土曜の16時ぐらいに売り出すのだ。早売りである。禁じられている。    外からは見えない入り口の横のスペースにこっそりと、表紙を隠すベニヤ板まで載せられて、そのブツは積まれている。期待と禁断症状に震える手でそこからいち早くジャンプを抜き出すときの喜

サイパンに残る“日本”|千住 一(観光学者)

兎にも角にも暑かった。場所はサイパン、2週間ほどいただろうか。何年何月何日から何日間の旅だったか、調べようと思えばすぐに分かりそうなものを、いまはその気にならない。唯一手がかりになりそうなのは、日本と韓国でサッカーのワールドカップが開催されている最中のことで、現地のこどもに日本代表チームの調子を聞かれた記憶か。   極東でサッカーボールが行ったり来たりしているあいだ、ぼくはサイパンでたくさんの「日本」と向かい合っていた。第一次大戦でミクロネシア一帯を占領した日本は、建前的には

十八番を授けてくれた街|五代目 江戸家猫八(演芸家・動物ものまね芸)

私にとっての忘れがたい街は、今から11年前の2013年に訪れた場所なのですが、恥ずかしながら番地どころか街の名前さえ覚えておりません。ただひとつ、何区なのかははっきり記憶しています。とても広大なマサイマラ国立保護区、アフリカはケニア旅のお話をしたいと思います。 首都ナイロビから小型飛行機に乗って、草原地帯につくられた舗装されていない滑走路に着陸すると、信じられない光景が広がっていました。目線の先にはシマウマとアフリカスイギュウ、その奥にはぱらぱらとインパラたち。飛行場の周辺

公苑と公園|牟田都子(校正者)

 そこで過ごした10年以上、ずっと「馬事公園」だと思っていた。引っ越してきたのは小学校に上がる前だったから、大人の口にする「ばじこうえん」という音を、「馬事公苑」と正しく変換することができなかったのだ。さらにいえば、「馬事」が何を意味するのかもわかっていなかった。いまなら、JRA(日本中央競馬会)が「国内における馬事振興・乗馬普及の拠点」として運営している場所ゆえの名称だと、すんなり理解できるのだけれど。  あの頃、公苑というのはどこも自分の家の庭くらいの感覚で遊びにいける

常連客として暮らすー那覇の町で|宇田智子(古書店店主)

 69年前の『琉球新報』の夕刊に「あの町この街」というコラムが連載されていたのをたまたま知って、那覇の泉崎にある沖縄県立図書館に行った。  ぶあつい縮刷版を繰る。連載は1955年12月1日から25日まで。初回のリード文は次のように書きだされている。  「“戦後十年”という唄い文句も余すところ三十日、十一年目を迎えようとする今年の師走になって“あの町、この街”が見ちがえるようになつた。きたない路地も、田ンぼも沼地も、無人の境地も十年後の今日は夢にも思わなかつた街がひよつくり

青い夜があった|曽我部恵一(シンガーソングライター)

 2014年に「bluest blues」という曲を出した時、奥日光でミュージックビデオの撮影をした。  奴隷として虐げられた黒人たちが自分たちの悲哀を歌ったのがブルースという音楽で、”bluest blues”という言葉があるのかどうか知らないが、ぼくも当時の自分の落ち込んだ気持ちを表現したくて「いちばんブルーなブルース」というつもりでタイトルにした。  妻と別居してまだ日が浅い頃だった。子供たち3人はぼくと残った。その時期は何をしても失われた家族の像が亡霊のようにぼく