江戸の女性たちにも愛された『源氏物語』のパロディ小説|今につながる浮世絵の魅力
時を超えて愛される物語
この一文から始まる『源氏物語』は、平安時代中期に成立した長編小説です。千年以上の時を超えて愛され、2024年現在では、大河ドラマ『光る君へ』が放映されさらに注目を集めたといえるでしょう。またそのドラマも最終回を迎えました。
『源氏物語』の内容については学校の古文の授業で触れたという人も多いのではないでしょうか。なお筆者は小学校高学年から中学生にかけて、歴史物の少女漫画が大好きだった時代がありました。大和和紀先生が『源氏物語』を漫画化した名作『あさきゆめみし』も我が家の蔵書のひとつで、これが『源氏物語』のストーリーに具体的に触れた最初でした。ただし内容が大人っぽいので主たる購入者は6歳年上の姉。
多くの女性の陰影ある生き様を、複雑な思いを抱きながらで読んだと記憶していますが、なかでも印象的だったのが夕顔の君。
光源氏が乳母の見舞いの折に出会った夕顔は、素性が不明ながら、気の利いた和歌を返すことができる教養も備えた不思議な女性。素直で愛らしく、どこか謎めいた夕顔に源氏はどんどん惹かれます。しかし2人きりの逢瀬の場とした寂れた邸にて夕顔は女の霊に取り憑かれ、命を落とします。
薄幸の美人といった印象の強い女性ですが、漫画の中の源氏の問いかけ「しあわせになりたくはないの?」に対して
「神さまの……くださったぶんだけしあわせでしたわ……」
と微笑む様子を見て、「いい子ぶっちゃって!」なんて思ってしまった子ども時代でありました。
さてさて前置きがとても長くなってしまいましたが、こうした漫画などを通して、光源氏を中心に多彩な登場人物が織りなす複雑な人間模様に引き込まれた、という方も多いことでしょう。そして実は江戸時代の女性たちもまた、この物語に魅了されていたことが様々な浮世絵作品から知ることができるのです。
江戸時代にひろまったダイジェスト版
出版文化が花開いた江戸時代には、あらゆるテーマの本が庶民に読まれました。『源氏物語』や『伊勢物語』など古典の名作も、ダイジェスト版(梗概書)などが出版されます。なかでも慶安3年(1650)の跋(書物の最後に記された文章)を持つ『絵入源氏物語』は挿図がなんと全226図。同書の挿絵は以降の絵画化作品にも影響を与える大きな存在となります。また同じ頃、俳諧師である野々口立圃が、婦女子のために平易な言葉で記し、挿図も入れた梗概書『十帖源氏』を成立させています。
こうした種々の版本が流通し読まれたことで、江戸時代半ばには庶民にいたる多くの人々が、有名なシーンはなんとなく知っていてそのイメージを共有している、そんな状況にあったと考えられています。
とりわけ源氏が中年になり迎えた正妻、女三宮は広く知られた女性といえるかもしれません。女三宮は、紐でつないでいた飼い猫が御簾を跳ね上げてしまい、その顔を見た貴公子、柏木(源氏の親友である頭中将の息子)は恋慕の情を加速させます。女三宮は望まぬ不義の仲に陥り、やがて柏木の子を出産。この男児は源氏の子として育てられることとなり、罪を恐れた柏木は夭折してしまいます。(ただし源氏もかつて父帝の妃である藤壺へ想いを寄せて子をなしており、その因果も感じさせる展開となっています)
悲劇的な恋を暗示する女三宮と猫の組み合わせは、歌舞伎の所作事*に組み込まれます。さらに浮世絵では、女性の足元に猫を配して女三宮を連想させる美人画が繰り返し描かれていくこととなりました。
例えば絵師たちが画題や図像の参考とした版本(絵の手本集)のひとつ、橘守国『絵本写宝袋』にも「女三宮」の項が設けられていますので、それほど浸透し親しまれた画題だったといえるでしょう。
ちなみに紫式部が石山寺に参籠し『源氏物語』を起筆したという伝承も広く知られ、これを題材とした美人画も散見されます。
『偐紫田舎源氏』の衝撃
さて江戸時代も後期にあたる文政12年(1829)に初編が刊行されたのが、江戸っ子たちに『源氏物語』ブームを巻き起こす小説『偐紫田舎源氏』でした。
当時人気の読み物の形態として、「合巻」がありました。これは文庫本より少し大きい程度の冊子に、絵の周囲に文字が記されるというスタイルのもの。誰でもわかりやすく読めることから大人から子どもにも好まれたようで、とくに女性人気が高かったといいます。まさにいまのコミック感覚かもしれませんね。
この合巻の1作品として登場したのが『偐紫田舎源氏』です。作者は柳亭種彦。旗本出身の戯作者です。絵を手掛けたのは人気絵師である歌川国貞。題名の「偽紫」とは、「似せ」あるいは「偽の」紫式部といった具合。そして「田舎源氏」は通俗なまがいものといった意味合いです。
面白いのが紫式部に対して「阿藤」なる女性が筆を執ったという設定。初編には鉄砲洲の石屋の二階で阿藤が『偐紫田舎源氏』を記す様子が表されます。石山寺が「石屋の二階」となっているわけで、原作や紫式部を知っていると「ふふっ」と笑ってしまう仕掛けが随所にあるのです。
内容は本家『源氏物語』のパロディです。舞台を室町時代とし、光源氏に擬えられた主人公、足利光氏による、お家騒動と紛失した将軍家の重宝の捜索、さらに女性遍歴の筋立てなどが絡みます。
なお『源氏物語』では、藤壺への秘めた恋心を背景とした源氏の華麗な女性遍歴が描写されますが、光氏は義理の母、藤の方に恋慕することはありません。この時点で物語の肝の部分が大きく変化しており、とりわけ前半では宝物の探索を最重要事項とする歌舞伎趣味の強い内容となっていますから、光氏と女性たちの関わり方にもかなりのアレンジが見られます。
光氏と女性たちとの関係について、その全てをご紹介することができませんが、原作で源氏に深く愛された女性の一人、夕顔をモデルとした“黄昏”について見てみたいと思います。
歌舞伎風、勧善懲悪のストーリー
遊郭に入り浸るふりをしながら宝剣の探索を行うさなか、光氏は病に伏す乳母の見舞いに訪れます。そこで目にしたのが乳母の家の西隣、垣根に烏瓜(夕顔の花に重ねる)を這わせた家でした。
小さな家に住まうのは“凌晨”という舞の師匠(オリジナルキャラ)とその娘、黄昏。後に明かされることになるのですが、実は光氏、最初の時点で、家の前で板戸に張られ乾かされていた布が女賊の着物と同じであることに感づきます。敵対する山名宗全*と通じて宝剣を盗んだ賊の正体は凌晨だったというあらすじ。犯人を捕らえるため黄昏のもとへ通い始める光氏は、凌晨一味に襲撃されますがこれをかわし、黄昏を連れ古寺に宿を求めます。
古寺でまず現れたのは女の霊。その姿を見た黄昏は気を失ってしまいます。原作では、源氏の恋人の一人である六条御息所が嫉妬のあまり生き霊となり夕顔を死に至らしめたように描写されますが、ここでの霊は六条御息所に擬えられた遊女、阿古木のもの。
しかしながら、黄昏は霊によっては亡くなりません。
気がついた黄昏と光氏は客殿へ入りますが、ここでなんと鬼女が現れます。
これは鬼の面をつけた凌晨で、正体を察した黄昏は母を改心させるため自らカミソリで喉を掻き切るのでした。さすがの凌晨もこれには嘆き、宝剣の場所を光氏に教えると自害。
なんともドラマチックです。こうした勧善懲悪をベースとした歌舞伎趣味の強い内容、そして艶やかな国貞の挿絵があいまって『偐紫田舎源氏』は女性たちに大人気となり、空前の大ヒットとなります。
天保9年(1838年)3月には脚色した舞台、『内裡模様源氏染』も市村座で上演されます。
なお光氏は「海老茶筅髷」と呼ばれる独特の髪型がトレードマーク。これも舞台では再現されたようで、同じ髷の十二代目市村羽左衛門の姿を写した役者絵も残されています。
その人気ぶりは他の小説にも現れます。
天保(1830~43)期の為永春水による小説『 玉宇佐喜』初編において、辰という女性が「お粂さん、合巻の中では『正本製』と『田舎源氏』が一番おもしろいねえ」といえば、お粂は「『田舎源氏』の中には好た髷や髪の風が、いくらもあるねえ」と語ります。さらにお粂は、普段通っている髪結い屋の女性が、客から『田舎源氏』の中の髪を真似てくれと言われて困ったといっていた、というエピソードまで披露します。
現実の女性たちのお手本として、物語の中の女性たちのファッションが注目されていたことをうかがわれます。
天保の改革での絶版とその後
大人気シリーズとなった『偐紫田舎源氏』。柳亭種彦は連年その続編を著し続け、天保13年(1842)春までになんと38編が刊行されています。なおこの38編上の種彦による序文では、光氏の姿が羽子板や吉原の軒灯籠、団扇や煎餅にまで表されると記され、その人気ぶりが誇示されます。
しかし38編が刊行されてほどなく、天保の改革によって『偐紫田舎源氏』は絶版となります。種彦も間もなく没してしまいます。
天保の改革では多くの浮世絵絵師や作家、版元が影響を受けましたが、『偐紫田舎源氏』は目立つ存在であった分(用いられた紙の品質が良く、他の作品より値段も高かったことも一因とする指摘もあります)、追求も厳しいものがあったと推測されています。
ではそのきらびやかな世界は描かれなくなってしまったのかというと、そうではありません。改革の影響が弱まる数年後には、門弟らによる続編『其由縁鄙廼俤』や、『薄紫宇治曙』などの類作が誕生します。
また浮世絵版画では『偐紫田舎源氏』の世界を描いた「源氏絵」と称される作品が大量に出版されます。高貴な人々を描き出す華やかな画面が人気を呼び、小説の挿絵に忠実な作品をはじめ、様々なバリエーションを生み出しながら展開していきました。
ストーリーから逸脱した自由なアレンジも多く見られます。
実在の人物や実際に起こった出来事を、光氏ら架空の人物に仮託する作品も現れます。
そのひとつが「源氏御祝言図」。本図は和宮の降嫁を踏まえたものとする指摘されています。和宮が江戸に入ったのが婚礼の前年、万延2年(1861)の10月。この作品はその直前の9月に改印(検閲印)を受けているのです。
源氏絵人気は明治時代に入っても続きます。明治10年(1877)制作の「東源氏之内小松曳園生之釣橋」は、明治天皇と皇后のイメージを重ねたものと考えられます。
小松引とは、平安時代の貴族たちが正月初めの子の日に野山に出て、根長の小松を引き抜いて延命を願った行事。天皇夫妻をモデルにしていると考える理由は背景の鉄の吊橋です。これは明治3年(1870)、皇居内の道灌濠に架けられた山里の御庭(現在の吹上御苑)へと渡る、日本で最初の鉄製吊橋「山里の吊橋」なのです。
新しい時代のモチーフと、江戸時代以来続く人気のキャラクターを組み合わせて時事的な出来事を表す作品といえます。このように『偐紫田舎源氏』の登場人物たちは、浮世絵に直接描くことがはばかられた実在する人々のイメージが投影されるほど、高い認知度をながく持ち続けたのでした。
もちろん作品のイメージをそのまま浮世絵に表した作品も残されます。最後は近年ますます人気の高まる絵師、月岡芳年の2点をご覧いただきましょう。いずれも“黄昏”が登場しますよ。
『源氏物語』の魅力的なストーリーと登場人物は、それぞれの時代のクリエイターの創造力を刺激してきたようです。そして新しい源氏物語像が絶えず生まれ続けたことも、人々にながく愛されてきた要因なのでしょう。
文=赤木美智
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