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東京のなかのイスタンブル(後編)ユヌス・エムレ インスティテュート東京と、トルコ語初学のころ|イスタンブル便り

この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、日本に一時帰国中に訪ねた”東京のなかのイスタンブル”の第2回目をお送りします。


ユヌス・エムレと聞いて、何のことかすぐにわかる人は、稀だろう。

トルコは最初からそういうハンデを負っている。

では、ゲーテなら? このエッセイをお読みの本好きの方なら、ご存知のはずだ。ならば、ゲーテ・インスティトゥートといえば何のことか、だいたい予想はおつきでしょう。19世紀ドイツの詩人・文学者、ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)の名を冠した、ドイツの文化センターのことだ。ドイツ連邦政府の機関で、世界各国に設置され、ドイツ語の普及やドイツ文化全般の紹介、国際文化交流を目的としている(ホームページより)。

ブリティッシュ・カウンシルや日仏学院、イタリア文化会館はその限りでないが、外国で自国の文化を紹介・国際交流し、語学を普及させる機関に、自国の有名な文化人の名を冠する例は、けっこうある。スペインのセルバンテス文化センター、ハンガリーのフランツ・リスト・インスティトゥート、中国の孔子学院。言われてみれば、どれも、なるほどと思える知名度の文化人だが、さて、ユヌス・エムレ。

ユヌス・エムレはスーフィー(イスラーム神秘主義求道者)であり、民衆詩人である。13世紀から14世紀初めにかけてアナトリアで生きたとされるが、数々の伝説があり、伝記的事実ははっきりしない。

一般的に知られるのはこうである。ユヌスは貧しい農夫で、ある日畑に蒔く麦を求めに行った。そこで出会った賢者ハジ・ベクターシュ・ヴェリに「麦の代わりにお前にネフェス(息、ここでは生命の意)をやろう」と言われる。ユヌスは断って麦を受け取った。しかしある日、麦は消費すればなくなるが、ネフェスはなくならないことに突然気づく。そして、哲学的真実の探求の旅に出る。

    知とは、知を知ることだ
    知とは、己自身を知ることだ
    お前は、自分を知らないな
    ほら、学ぶことの途方のなさ

    学びの望みは何だ
    ひとののりを、知ることだ
    なぜならお前は学んだが、知らないのだ
    なあ、ひとかけらの古いパンだ 
                                         —後略—

(筆者訳) 

このような深い哲学的意味を持つ内容が、小学生でもわかる平易な言葉で綴られているのが、ユヌス・エムレの詩の特徴である(そして、平易な言葉であるからこそ、翻訳は非常に難しい)。

ユヌス・エムレという人物像そのものが、伝説や憶測、尾ひれによって作られているので、現在「ユヌス・エムレの詩」とされるものも、どれが原典なのか、あるいは原典が存在するのか、わからないほどである。ホメロスやジャンヌ・ダルクのように、その人物像はいわば、ひとびとの願望や想像が作り上げた、集団的記憶の集合体、といえる。

ただここで肝心なのは、ユヌス・エムレの詩が、トルコ語による、という点だ。つまり、トルコ語話者にとって、トルコ語の心の原点を求めるならば、ここに行き着く、という存在なのだろう(トルコ共和国の公用語トルコ語という言語じたいが、1923年のトルコ共和国成立前後に政治的・民族主義的枠組みのなかで整備された、という議論は、ここではひとまず置いておく)。

というわけで、トルコ共和国の文化機関には、 ユヌス・エムレの名が選ばれた。ユヌス・エムレ インスティトゥートはトルコ政府の公的機関で、2007年設立、現在世界58カ国に開設されている。ユヌス・エムレ インスティトゥート東京は、現在の建物が東京ジャーミイに隣接しているため混同されやすいが、政教分離の国トルコ政府の公的機関として、運営方針は政教分離である。

ユヌス・エムレ インスティテュート東京の外観。東京ジャーミイと同じ敷地内にある建物は、19世紀オスマン帝国の木造建築にインスピレーションを受けた現代建築。
ユヌス・エムレ インスティテュートは、現在世界で58箇所に設置されている。

* * *

ユヌス・エムレ インスティテュート東京併設のユヌス・カフェには、トルコ語の蔵書が置かれ、閲覧自由。トルコらしいインテリアアイテムも魅力的。

「今、世界で最も主流な言語は、英語ですね。そのほかに、ビジネスで役立つといえば、フランス語とか、ドイツ語、そしてスペイン語」

ヒュセイン所長は、流暢な日本語でそう語りはじめた。

「だけど、トルコ語なんて、仕事で何の役に立ちます? かなり特殊ですよね。トルコ語を勉強する人は、何のために勉強するんだと思いますか?」

トルコ語は、じつは世界的に見ればそれほどマイナーな言語ではない。ユヌス・エムレ インスティテュートで教授されている、「トルコ共和国のトルコ語」の話者は、バルカン半島やイラン北部など周辺地域を含め8000万から9000万人と言われる。世界で13番目に話者人口の多い言語である。そして、中国西部、ロシア南部から黒海沿岸、中央アジア、アゼルバイジャンからイランにかけて話される、「テュルク系」の言語も含む(つまり、「通じる」という観点に立つ)ならば、その数はぐっと増える。

思い思いに勉強する人々。この後同じテーブルでは、人が集まってチャイを飲みながらトルコ語の勉強会が開かれていた。
夕方、アゼルバイジャン人の先生による子供のためのピアノレッスンが行われていた。トルコ語で話していたかと思うと、いきなり「せーの!」と日本語が聞こえてきて、びっくり。

東京のユヌス・エムレ インスティテュートのカフェで、 思い思いにテーブルを囲んでおしゃべりしたり、勉強したりしている人々を見回しながらわたしは言った。

「日本で、ということですか?」
「そうです」
「そうですね……、トルコがすごく好き、とか」

わたしがそう答えると、ヒュセイン所長はニコッと笑った。

「そう、それもありますね。つまり大半は、趣味なんですね」

そこで一息おくと、ヒュセイン所長は続けた。

「趣味とは何か? ひとに、居場所を与える、ということではないですか?わたしたちは、ここを立ち上げる前に、その点をずいぶん議論しました。日本で、トルコ語を勉強するとはどういうことか」

「ヒュセイン所長ご自身は、どうして日本語を勉強したんですか? どうやって?」

「アンカラ大学で日本語を専攻しました。でも結局は、おばちゃん達ですよ。トルコ語のテイゼ(おばちゃん)、アンネ(お母さん)、あなたもよく知っているでしょう? トルコのテイゼ達は、惜しみなく与える。誰かが何かを必要としていたら、もう、なんとかして、助けようとする。日本のおばちゃんたちも同じです。おばちゃんは、万国共通です。わたしは日本のおばちゃんたちから、ずいぶん助けてもらいました」

アンカラで、学生だった未来のヒュセイン所長に日本語習得の手助けをした、たくましき日本女性たちの姿が眼に浮かび、微笑ましく思った。

「だから、ここに来る人たちには、ここを居場所として欲しいと思っているんです」

文化センター併設のカフェでは、トルコのチャイやトルココーヒー、トルコ料理のランチメニューやバクラヴァまで味わえる。だが、特別な高級なものとしてではなく、価格はリーズナブルに抑えられている。

ユヌス・カフェには、トルコ語や文化講座に来たひとだけでなく、東京ジャーミイを訪れた人も一息入れにやってくる。組織は別だが、相乗効果があるのだそうだ。
カフェの厨房は、時にトルコ語実用会話のレッスンを兼ねた、料理講座の場としても使われる。
トルココーヒーと、自家製のバクラヴァ。ピスタチオたっぷりで、大変美味。コーヒーの器も、トルコから運ばれたものだ。

「バクラヴァだってね、自分たちで研究しましたよ。カラキョイのギュルルオウル(トルコの一流老舗菓子店、最近銀座にも出店して話題である)から親方が来てくれて、みんなで習って、工夫しました。だからとっても美味しい。だけど、わたしたちが作っていたら、値段のことを考えないので、材料費の方が高くなるといって、本部から怒られました」

そう言って笑う。現在、スタッフは8人。人手が足りないので、講師のトルコ人の先生たちも、トルコ語を教える傍ら、空き時間にチャイも作る。

「トルコの家族って、そうでしょう? みんな手作りです。お金が儲かるとか、採算がとれるとかよりも、それぞれが持ち寄って、分け合いたい。与える、ということが大事です。みんなが計算ばかりしている世の中で。それが、ユヌス・エムレの精神でもあります」

ヒュセイン所長が熱く語ると、うまく呼吸を心得たスタッフの千夢ちむさんが、補足してくれた。彼女は、8年前のユヌス・エムレ インスティテュート東京の立ち上げの時から支えてきた、コアスタッフだ。

トルコ語の授業も、ユーザーベースなのだそうだ。趣味としてゆっくり進みたい人用のクラスもあれば、トルコの大学への進学希望者、研究者や仕事で使う人向けに、進度も早く高度な指導をしてくれる先生もいる。トルコの大学受験システムに連動した公式トルコ語能力資格試験 TYS (Türkçe Yeterlik Sınavı)も、ここで実施されている。同試験は、日本国内では、ほかに筑波大と獨協大でのみ実施されるそうだ。。

現在ユヌス・エムレ インスティテュート東京で語学講座の受講者は、延べ1000人ほどだそうだ。この数字は、トルコ語という言語の日本での特殊性を考えると、驚異的である。そして数字は、意外にもコロナの期間、 伸びたそうだ。偶然、東京滞在中に、ヨーロッパの別の国の文化系政府機関の所長と話す機会があり、コロナの影響で減った、と聞いていたので、驚いた。

言語を習得する、という以外のなにかが、受講者を惹きつけている。それは歴史や文化の奥深さだけでなく、トルコの飾らなさであったり、惜しみなく与えようとする暖かさであったりするのだろう。その美点は、奇しくも先日の地震後の対応で、 日本でも少し報道されたと聞いている。

文化講座も人気だそうだ。トルコの食文化、手工芸、オスマン帝国の歴史や美術についての講座が開かれ、展示スペースではさまざまな展覧会が開催されている。

* * *

隔世の感がある。こういうことを書くと自分が化石になったような気がして嫌なのだが、わたしがトルコ語を勉強しはじめた30年前(すでに!)とは、なんという違いだろう。経緯は省くが、トルコのことを研究しようと決心した大学四年生のとき、清水の舞台から飛び降りるくらいの苦しい思いだったことを、今でも鮮明に覚えている。

母校の早稲田大学にトルコ語の講座はなかった。東京外国語大学にもトルコ語学科がまだ無かった時代である。そして、インターネットもなかった(ほんとうに化石の気分である)。

トルコ、トルコ、と探しても、なかなか見つからず、とりあえず大学でアラビア語を履修して挫折し、隣の国だからいっそロシア語勉強しようか、とまで思いつめたこともあった。やっとの思いで日本トルコ協会主催のトルコ語講座を見つけた時は、とても嬉しかった。そして、受講者は同じ思いの人が多かった。何というか、少ない情報を手繰るようにして探り当てた仲間のような感じを、共有していた。講師は、今は亡き大島直政先生だった。

「ネザマン ゲレジェックシン」(Ne Zaman Geleceksin ?    お前はいつ来るのか?)
という、人称変化や時制の学習に最適な歌詞の、変なアラベスクの歌を毎週歌ったり(みんな変だな、と思いながら素直に歌い、今でも歌詞は忘れない)、トルコ語は膠着語で、一つの単語に色々な意味が付されて長くなる例として有名なフレーズ、
「シズビジムチェコスロバキアルラシュトゥラマドゥックラルムズダンムスヌス?」(Siz bizim Çekoslavakyalılaştıramadıklarımızdan mısnız ?)
という、ひと単語で〈あなたは、私たちがチェコスロバキア国籍を取らせることができなかったグループの人に属するのでしょうか?〉を意味する)を習ったりした。

発音も文法も、それまで学習したヨーロッパのどの言語にも似ていない。長い単語を覚えるのは、落語の「寿限無」を全部暗記しようとするのに似ていた。

そうこうするうちに、早稲田のライバルの慶應義塾大学に、トルコ美術の専門の先生がいるということを突き止めた。今となっては恩師の、ヤマンラール水野美奈子先生である。わたしは美奈子先生の、正式な学生だったことは一度もない。

慶應に通っていた友人にトルコ語の授業日と教室を教えてもらい、何の紹介もなく乗り込んでいって、勉強したいので出席させてくださいと頼み込んだ。先生は、そんな学生を受け入れてくれたばかりか、毎月ご自宅での研究会に呼んでくださったり、多くの先生方にお会いする機会をいただいた。情報が少なく、間口が狭いからこそ、正式の学生でなくとも、勉強したい、その思いだけで受け入れてくださる、そんな昔気質の気風があった。

トルコへ留学の道が拓けたのは、それから間もなくのことだった。

* * *

食後や勉強の合間に、ほっと一息。併設のユヌス・カフェでは、トルコのチャイが味わえる。

ユヌス・エムレ インスティテュート東京でヒュセイン所長と千夢さんから話を聞いた帰り道、すっかり暗くなった代々木上原の街を駅まで歩きながら、ほんのひとときそんなことを思い出した。東京のなかのイスタンブルから、現実の東京に戻ってきたような気が、したからだろうか。

文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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