見出し画像

観音崎要塞めぐり|新MiUra風土記

この連載新MiUra風土記では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第4回は、三浦半島の東南端の岬・観音崎を歩きます。

灯台と砲台

 いつも三浦半島の観音崎を眺めている。

 僕のマンション(横浜市)の階段の踊り場からは、南に横須賀市が望め、その背後には千葉県の房総半島が重なる。そのすき間が東京湾の浦賀水道で、そこに突き出ているのが観音崎の岬だ。

 三浦半島は「要塞半島」とも呼ばれてきた。

画像1

水中聴音所趾

 幕末の招かざる異国船から、海防の城塞として江戸、東京湾の西岸を守ってきた。半島と湾上には27箇所の沿岸砲台を設けて、「東京湾要塞司令部」が横須賀におかれていた(*1)。

*1  明治29年(1896)現上町に移設

 その西洋式築城技術による砲台遺構群は、いま東京港湾部の最古の近代要塞として、「国指定記念物」(2015年史跡)や「日本遺産」(2016年 構成文化財)(*2)に認定された。日本の開国、近代科学史に貢献したという訳だ。

*2 横須賀市HP・指定文化財一覧日本遺産ポータルサイト参照

 神奈川県立観音崎公園。日本初の洋式灯台(初代)が建つ森には、砲台や弾薬庫、トンネルが保全。美術館や博物館、各種広場やハイキングコースが整備されている。要塞岬は民間人には禁断の場所(*3)だったゆえ原生林かと思わせる生態系も残されたのだった。 

*3 「要塞地帯法」「軍機保護法」で昭和20年終戦時まで、横浜市南部の一部から南の三浦半島が、立入制限、写真撮影、スケッチ、測量禁止、建物規制がされていた。

海渡りと弟橘媛命オトタチバナノヒメのミコト

 観音崎へは、JR横須賀駅か京急馬堀海岸駅からバスを選ぶ。ここはカリフォルニアか!? と惑わせる「うみかぜの路」のカナリーヤシの並木が心地よい。対岸には千葉の富津岬がみえ、坂上から振り返ると富士山がくっきり見える日もあって、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」はこの景色だという説を思い出した。

 日本武尊ヤマトタケルの渡海伝説で弟橘媛が入水した御所ケ崎ごしょがさき旗山崎はたやまざきには走水低砲台はしりみずていほうだい(明治19年[1886])が残っている。

画像2

走水低砲台 27cm加農砲座 明治19年

画像3

オトタチバナヒメ入水図 案内板 走水 

 浦賀の叶神社と同じ恋愛成就とパワースポットの走水神社をすぎると、海光が反射するガラス張りの美術館が見えた。

絶景美術館

 横須賀美術館。市街地を離れた周囲の環境を意識したデザインだが、主役は目前の海だろう。砲台が潜む裏山は劇場の背景幕のようで、いまは絶景美術館の別称で呼ばれることもあり、観音崎のランドマークになっている。

画像4

横須賀美術館 裏山側から東京湾、房総半島を望む

 昨春開催の「ヒコーキと美術」展はよかった。飛行機が人類に与えた意味をアートの視点から見直してみた風変わりなもので、関連展示の「横須賀海軍航空隊と秋水しゅうすい」展は三浦半島ならでは、地誌の連続性に刮目させられた。
 
 横須賀は軍港とともに海軍航空隊の揺籃ようらんの地だった。あの予科練発祥の場所(*4)で、後の海軍航空技術廠(空技廠)では実験・試作機を飛ばし、日本初のロケット機「秋水」が生まれた。名機「銀河」の技術と人材は戦後の東海道新幹線開発に伝承されたものだ。

*4 予科練、海軍飛行予科練習生の略。昭和5年(1930)横須賀市追浜おっぱまの横須賀海軍航空隊に創設。下士官兵の航空搭乗員育成組織。のちに茨城県霞ヶ浦などに移転。

要塞の森

 展覧会を見終えると、館内の螺旋階段で屋上に出て山に向かう。めざす砲台趾へは園路をたどればいい。マテバシイなど密生する木立のなかで房州石に防護された砲座群が隠れていた。併設のイギリス積煉瓦造の弾薬庫・掩蔽えんしゃ部(砲兵の退避場所)が渋い。この三軒屋砲台(明治29年[1896]) には27cm加農カノン砲など6門を備えていたが、砲自体は後に撤去されている。付設の観測所や兵舎はツタがからまり、アンコールワットの遺跡のように黙していながら歴史を饒舌に物語る。

画像5

三軒家砲台 兵舎、弾薬庫

 公園内の他の5箇所の砲台群と堡塁ほるい(砲台を守る陣地)を歩くうちに、7年前の中国の遼東半島の戦蹟をたどる旅が蘇った。ロシア軍のベトンと呼ばれた、より堅固なコンクリート造の要塞めぐりだ。

画像6

千代ヶ崎砲台 28cm榴弾砲座 明治28年

 そういえば日露戦争のハイライト、203高地からの日本軍の砲撃による旅順陥落は、遥か横須賀から運ばれた要塞砲によるものだった。

 観音崎の砲台群は、明治期、艦艇を撃退するためのものだったが、その後の戦争は航空機と潜水艦の時代にとってかわった。関東大震災の被災をへて、巨費を投入した多くの要塞は廃止され、やがて半島は高角こうかく砲台や本土決戦のための洞窟陣地、特攻兵器の秘匿基地になってしまう。

画像10

幕末の素掘トンネル 嘉永5年(1852年)

YouTuber?

 ある日この廃墟となった砲台を訪れると、煉瓦庫の前で独りの若者男子が卓を広げて、粛々とサイフォン式珈琲で野点のだてをしていた。それは唐突で、くらくらするほどギャップが大き過ぎた光景だった。

 なぜなら、その直前まで森で駐屯する砲兵の生活や、木洩れ陽のすき間に本土空襲のグラマン戦闘機の低空飛行を妄想視していた僕だったから。

 彼はエモい記録として、野点をYouTubeやインスタグラムで発信するのだろうか? そういえば要塞島の猿島さるしまをはじめ軍事史蹟や基地の一般公開で、女装・男装やコスプレの撮影に出会うことが多くなった。

画像7

観音崎ボードウォーク

画像8

観音崎公園の森

 黒船のペリー艦隊が回頭した観音崎沖を、現在は横須賀を母港にするアメリカ第7艦隊の艦船が通る。それを背に嬉々として自撮りするコスプレイヤー達。そこはかつて機雷や潜望鏡におびえていた浦賀水道で、いまは世界中から来航する船舶で、世界屈指の通航量を誇る平和な海峡になっている。

 要塞や軍需工場など大規模な戦争の建築遺産は、時が過ぎるとその知力と情熱が、儚さと愚かさと呆れに変わり、沈黙の廃墟美を醸して残す。

 観音崎の豊かな自然のなかでの戦蹟トレイルは、粛然とした歴史の教科書で、思考と心と身体のために良き効能があると、僕は思っている。

画像9

関東大震災で崩落した観音埼灯台(2代目)

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。


この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

この街がすき

よろしければサポートをお願いします。今後のコンテンツ作りに使わせていただきます。