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仏・マルセイユ国際映画祭で三冠 『春原さんのうた』が国境を超えて人々の感情を揺さぶる理由 | 杉田協士監督インタビュー

フランスのマルセイユ国際映画祭で日本映画初のグランプリを受賞し、ニューヨーク、サン・セバスティアン、ウィーン、釜山など数々の映画祭にも出品された『春原さんのうた』。大切な人を失い、喪失感を抱えた女性の日常が描かれている。物語の起伏は少なく、説明的な部分も少ない。観客は目の前で起きていくことがなんであるかを探りながら映画を観続けているうちに、遠い昔、忘れていた過去と感情が炙り出されるような錯覚に陥る――。

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『春原さんのうた』を手掛けた杉田協士監督は、ニューヨーク映画祭のCurrents部門に選出され、「日常に光をあてるSugita」と評された。司会者が作品を紹介する最中に涙ぐんでしまい、その様子に通訳の人も涙を堪える事態だったという。「映画が作られたのは日本だし、その片隅のなんてことない話なのですけど、隣にいた大事な存在ともう会えない、っていうことに対する思いは世界共通なのかなと。皆さん、ご自身に引き寄せて受け止めてくれたようです」と語る。

 主人公の沙知はカフェでのアルバイトをはじめ、常連客に勧められたアパートの部屋に引っ越しして新たな生活をはじめるが、もう会えないパートナーのことを忘れられないでいる。台詞が少なく、ストーリー展開も謎めいている『春原さんのうた』。この作品が国境を越えて人々の感情を揺さぶる作品となったのはなぜなのだろうか。

原作は短歌の一首

 前作の『ひかりの歌』(2019年)に続き、『春原さんのうた』も原作は短歌だ。杉田監督が作品を作ろうと思った時に閃いたのが、「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」(東 直子『春原さんのリコーダー』ちくま文庫)という一首だった。なぜ小説などでなく短歌が原作だったのかと尋ねると、「映画ってある時間を描く表現で、一度カメラの録画を始めたら大体もう止められなくて。短歌も、詠まれた瞬間に取り返しがつかないところがあって。それが映画に似ているのではと思います」。

脚本を書く時は、出演者を思いながら

 脚本はあらかじめ出来上がったものではなく、「あの人ならこうするだろう」と出演する人たちの顔を思い浮かべながら書く。そのせいか、出演者たちはとても自然に、生き生きと演じているように見える。

春原さん

 また、杉田監督の作品では、芝居の段取りが組まれつつも、なるべくその場で自然と起きていく流れが生かされている。主人公の沙知が感情を露わにするシーンでも、「沙知の感情の揺れのきっかけとなる、ある女性が見せる一瞬の表情が、本番では(沙知の背中と重なって)カメラから見えなくなったんです。どうしようかと迷ったけど、その表情を見ることができるのは沙知ひとりで十分なのかもしれないと思って」。そのテイクをOKにした。通常だったらリテイクをするようなシーンだが、その時にだけ起きた大切な瞬間を優先する。観客は、どうして沙知の感情が揺れたのか、むしろその余白の部分を想像することになる。

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 撮影現場は、ゆったりとした雰囲気だった。お昼には皆で食事して、夕方には撮影終了。居心地が良いのもあって、舞台となったアパートの一室で原作者の東直子さんからもらったシャインマスカットをいつまでも皆で食べていた。映画の現場では、珍しいペースだそうだ。「年を重ねてきたこともありますし、日々の生活に無理をかけたくないという思いもあります。撮影監督をお願いすることになっていた飯岡幸子さんも、映画『偶然と想像*』の撮影を終えたばかりでお疲れの様子だったから、なるべく負担の少ない現場にできたらと思って。現場は少なくとも週休2日で、朝も早くないし、夕方くらいに終わる日も多いですよって説明したら、安心してました(笑)」。

『偶然と想像』*  2021年にベルリン国際映画祭に出品され、銀熊賞を受賞した作品。監督は『ドライブ・マイ・カー』で仏・カンヌ国際映画祭で脚本賞、米・ゴールデングローブ賞を受賞した濱口竜介氏。

コロナに抗わず、日常を映し出す

 コロナにも抗わなかった。『春原さんのうた』ではマスクをした人たちが街で行き交い、部屋の扉や窓は開け放たれている。コロナ禍、映画界ではこの状況を作品に出すかどうか、監督たちは苦しい選択を迫られていた。「でも、外に出ればマスクをしている人ばかりの今の状況で、そうじゃない映画を撮るのは無理があると思って。この作品の時代設定を、撮影時期と同じ2020年の9月にすれば、説得力は出せる」。チームにそう告げて、コロナを受け入れる方向で進めた。

 海外、アメリカやヨーロッパでも多くの取材を受けたが、コロナやマスクについてはほとんど質問されることはなかった。「映画も設定はコロナ禍だけど、それがテーマではなかったので。でも日本の取材ではそこは必ず聞かれるので、新鮮でした。日本特有の何かがあるのかもしれません」

えがお

杉田監督 Space & Cafe ポレポレ坐にて

 いつもなら、気の向くままに自由に撮影場所も見つけるのだが、コロナ禍のため沙知の部屋と彼女が働くカフェに限定することになった。「この状況でも受け入れてくれるところを選びました。でも、映画って目で楽しむものでもあるから、2つの狭い空間だけで映画をもたせるのは難しい、せめて光をコントロールしないと」と思い、今回初めて照明部を呼んだ。そう言われてみて、場所が限定されていたことに気が付く。沙知が暮らす部屋に差し込む光、人々との温かな触れ合いのシーンが心に残り、場所が限定されているように思わなかったからだ。

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『春原さんのうた』ではごく普通の日常生活が描かれていて、出演者たちは街中を歩き、スーパーなどで買い物する。でも、よく見かける映画やテレビドラマで見かけるシーンとはどこか違っていて、より現実感があるように思える。「通常だと、どうしてもメインの人たちに集中するけど、登場人物が生きている時間があって、その場所にも時間があって、その外側にも人生がある。私たちはたまたま街で見かけたこの人たちの後を追いかけているだけ。そういうのを忘れずにいたいっていうのが根底にあります」。

 これまでの杉田監督の作品では、出演者は俳優とそうでない人の半々であることが多かったが、今回は感染リスクがある中で演技を生業にしない人を巻き込めないと、俳優たちに依頼した。「出演者がほぼ俳優っていう状況は初めてでしたが、自分が書いた脚本をこんなにしっかり演じてくれるんだ、って嬉しくて。俳優の方たちとしっかり作るって面白いっていうことが新たな発見でした」と微笑む。演技以前の、その人自身の魅力に惹かれることが多く、「今まで(俳優のみの映画を)やらずに来てしまったな」とも思ったという。

舞台挨拶

ポレポレ東中野での舞台挨拶。左から杉田監督、「雪」役の新部聖子さん、「涼」役の安楽涼さん。

 『春原さんのうた』で唯一俳優でなかったのは、沙知が働くカフェの店長さんだった。「思わぬ仕草や、体の重心のかけ方とか、俳優としての訓練を積んでいる人とはまたちがった魅力があるんですよね」とこれもまた嬉しそうに語る。「今日(監督の舞台挨拶の日)映画を観にきて挨拶してくれた青年も、前作で高校の野球部員役で出演してくれたんですけど」。いまは建設業界で働いているそうだが、彼の演技は非常に評価が高く、前出の『偶然と想像』の濱口竜介監督も絶賛していたという。「(出演者として)体のあり方のちがう人たちが、同じシーンで一緒に芝居しているのを見るのが、好きなんですよね」。

映像を撮る時に思うこと

 一見無関係だった人々の人生がたまたま交錯することがあるように、『春原さんのうた』でも、傍から見ればなぜ一緒にいるのかわからない人々が、同じ空間に集う印象的なシーンがあった。置かれている状況は異なりながらも、共有したその時間はそれぞれにとってかけがえのないものになる。

「なんだか意味はよくわからないけど(笑)、何かが撮れたって思えるシーンでした。カメラを置く位置にもよるのですけど、人それぞれ、別々の時間をカメラで串刺しのようにできる瞬間があるんです」。

 杉田監督が映像を撮る時に考えるのは、「人類が滅んだ時のこと」だという。「この星にはこういう存在がかつていたという記録。はるか遠くの未来に、宇宙人がもし地球にやってきて、たまたまその映画を発見したら、ということを考えることがあります」。その参考資料をつくるような思いで、イメージする。

 こういう風に撮りたいと思うようになったのは、2002年8月だった。

失って、気づいたこと

 学生だった頃、20歳を過ぎてから珍しく、「この人は信じられると思い、この人についていけばいいんだ」と思った恩師がいた。如月小春*。劇作家として名をはせ、活躍した女性だ。2000年12月、杉田監督が受けていた2コマ連続の授業の休み時間に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。44歳、くも膜下出血だった。「本当に大きい存在で、自らを預けようと思った」その人が、突然目の前からいなくなってしまった。

如月小春* 小劇場演劇での第3世代(野田秀樹や渡辺えり、鴻上尚史ら)のひとり。1982年に劇団「NOISE」を立ち上げた。坂本龍一プロデュースのシングル曲「NEO-PRANT」も話題に

 翌年の2001年には、ニューヨークで同時多発テロがあった。その前に杉田監督は、制作と映像を務めていた舞台の売り込みでニューヨークを訪れ、映画作家のジョナス・メカスに認められ、当時彼がディレクターを務めていたアンソロジー・フィルム・アーカイヴス劇場での公演が予定されていた。だが、テロの影響でそれは叶わなかった。恩師を失い、夢が打ち砕かれた若き日の杉田監督は、どんな思いで繰り返し報道されるあの日の映像をみていたのだろうか――。

 2002年8月、杉田監督は、如月氏が携わっていた中高生向けの演劇ワークショップが行われていた姫路を訪れ、記録としてドキュメンタリーを撮った。山と湖がある大型の施設「こどもの館」で、恩師の何かを撮りたいと思っていた。でも、窓に反射して映る木々の揺れを撮っていた時に、「自分が撮りたかったのは如月さんのことなのに、そんな思いはどこにカメラを向けても映らないと気づいたんです。それでその風に揺れる木々をファインダー越しに見つめていたら、人類が滅んだ時のことを考えていて。ああ、木が風に揺れてるな、この建物もいつか朽ちて草木に埋もれていくんだなって。いまカメラを持っている自分の存在も、人類の存在も、いつか忘れられる。そこでは風が吹いてる」。そういう境地に立った。

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 後世の人に何か伝えたいということなのかと問うと、「そういった思いはなくて。作り手が伝えたいメッセージを持っていると、その思いが必ず作品を縛ってしまうんです。例えば何かのメッセージを込めていると、それで視界が狭まって、そのメッセージを超えて目の前で起きていくことに気づけなくなる。メッセージというのは本人のコントロールの下にありますが、カメラを向けた先の世界に、たかだかひとりの人間にコントロールできるものなんて本来はないはずなんです」。

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『春原さんのうた』には、如月氏の戯曲が登場する。「もう入れちゃおうって思って(笑)」。この作品が完成した2021年、杉田監督は如月氏が他界した年齢と同じ、44歳になった。

 杉田監督のこれまでの作品にはいつも、「喪失感を抱えた人」が登場する。人として生まれたからには、誰しもが避けて通れない感情。彼の作品が国境を超えて人の感情を動かすのは、誰もが心のどこかに持つ哀しみを映像で炙り出すからなのではないかと思う。冒頭のニューヨーク映画祭での司会者の涙も、そこに通じるものがあったのではという気がしてならない。

『春原さんのうた』ではもう一首、裏の原作があるのでここに紹介したい。

夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした

(東 直子『春原さんのリコーダー』ちくま文庫)

聞き手・文 西田信子

杉田協士(すぎた きょうし)
1977年東京生まれ。2012年、初の長編監督作品『ひとつの歌』で劇場デビュー。2019年劇場公開の第2作『ひかりの歌』は東京国際映画祭、全州国際映画祭に出品され、全国各地での公開となった。小説『河の恋人』、『ひとつの歌』を文芸誌『すばる』(集英社)に発表するなど、幅広く活躍。
『春原さんのうた』
マルセイユ国際映画祭グランプリ、俳優賞、観客賞受賞、マンハイム=ハイデルベルク国際映画祭ファスビンダー賞特別賞受賞、サン・セバスティアン、ニューヨーク、釜山、東京フィルメックス、ウィーン、サンパウロ国際映画祭正式出品。
原作短歌:東直子 脚本・監督:杉田協士 主演:荒木知佳
現在、ポレポレ東中野、横浜シネマリンなど、各地の劇場で上映中
https://haruharasannouta.com/
▼上映情報はコチラ
https://haruharasannouta.com/#theatre




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