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豊潤な自然と大事なものを知る人々がつくった”生きた”街(枕崎・JR指宿枕崎線)|終着駅に行ってきました#15

手入れされた駅舎のある九州最南端の終着駅、枕崎。歩くと、鰹節を蒸す柔らかな香りがただよってくる街は、かつて走っていた鉄道をはじめとする記憶を今にとどめています。そして、自然の恵みと人とのつながりを慈しむ人々が、列車に乗ってやってくる人たちをあたたかく迎えてくれます。
〔連載:終着駅に行ってきました

文=服部夏生 写真=三原久明

「がんばれー」「がんばれー」

 永吉川の河口のそばにクルマを停めて降り立つと、高校生たちの歓声が鳴り響いていた。

 見ると、石造りの人道橋を高校生たちが走っていた。沿道の生徒たちが彼らに声援を送る。

 橋のたもとの河原には天幕が張られていて、教師たちも立っていた。聞けば、鹿児島交通の廃線跡を利用した遊歩道などを30km近く走破する、地元の高校の恒例行事とのことだった。

 早さを競うものではないらしい。歩く生徒もいるし、自販機に行儀よく並んで、飲み物を購入する生徒たちもいる。事情が飲み込めると、晴れた空のもとに響くエールには、真剣ではあるものの、どこか可笑しみすら感じられてきた。

* * *

 川には三本の橋がかかっていた。ひとつはクルマが往来する国道の橋。もうひとつは今、生徒たちが走る石橋、そしてかつて鹿児島交通の列車が走っていた鉄橋である。ただしこの鉄橋の本体は、とうの昔に撤去され、石積みの橋脚だけが四つ、支えるものがないまま所在なさげに屹立している。

 鹿児島交通の南薩線は、国鉄(現JR九州)鹿児島本線の伊集院駅から、薩摩半島の西側を枕崎駅まで走っていた鉄道である。日置市にかかるこの橋から40kmほど先の枕崎こそが今回の目的地なのだが、そこへ赴く前にレンタカーを使ってこの河口に寄ることにしたのである。

 ミハラさんとは、早朝に鹿児島市内のホテルで分かれた。彼は、鹿児島中央駅から薩摩半島の東側を走るJR指宿枕崎線に乗って、枕崎駅へと向かっている。3時間近くかかるが、今回の旅本来のルートである。

 だが、三本の橋のかかるこの河口には、あえて別ルートを取ってでも寄りたかった。来たのは二度目である。初めて来たのは5年前、30年以上もの間、行きたいと願っていた場所だった。

* * *

 声援に見送られるように、河口に向かって歩いた。田園の先にある丘には小さな神社があり、その脇を通り抜けると、砂浜に出た。

 ウミガメの産卵地として知られる浜は、彼らがいつでも来られるよう、人の手を極力入れていない。白色の細かな砂地をマツヨイグサが覆う丘の上から海を望むと、かなたに小さな島が見えた。死産だった皇女のなきがらを舟に乗せて海へ送ったところ、沈んだ場所に島が生まれたのだという。先ほどの神社は皇女の御霊を慰めるために建てたとされている。

 前回、河口にかかる橋を訪れたのは、20年勤めた会社を辞めようと決めたタイミングだった。

 踏ん切りをつける思いもあって、どこか旅に行こうと考えた時に、頭に浮かんだ場所。それが子どもの頃、親に買ってもらった鉄道の写真集の一葉に写っていた地だったのである。

 有体に言って、なんてことない写真だった。

 1984(昭和59)年に廃止された鹿児島交通が健在の頃で、流れのゆるそうな川に、石造りの人道橋がかかり、その先の鉄橋を、橙地に濃紺の帯を入れた単行列車が走っていた。遠くには、陽光きらめく海が広がっている。

 当時から鉄道は好きだったが、特にローカル私鉄が好きなわけではなかった。今みたいにひなびた景色が好きなわけでもなかった。なのに、その写真は、妙に心に残った。

 本を手にしたのが、親の仕事の都合で米国の片田舎に在住していた時だった。日本的な風景に郷愁を感じているのかもしれない。そう自分を納得させていたが、帰国してからも、その風景は折に触れて頭に蘇ってきた。

 脳内に浮かぶ映像は、いつしか動き始めていた。想像上の人々が列車に乗り込んで、喋ったり何か食べたり単語帳をめくったりして、それぞれの目的地に向かっていた。映像は色褪せることなく、逆に再生されるたびに洗練され、鮮明になっていった。そして、大人と呼ばれる年齢になる頃には、切なさや懐かしさだけではくくれない、何か大事な意味合いを持つフィルムになっていった。

 はじめて訪れた時も、青空が広がっていた。かつて鉄道が走っていた鉄橋の橋桁を眺めて、半日過ごした。この風景のどこが、自分にとって特別なのかは分からなかった。だが、いいと感じて写真を撮る人がいて、いいと感じて本に掲載する人がいて、いいと感じた僕が、30年後に廃線跡を見にきた。その事実だけで、十分のような気がした。自分も、誰かの心にずっと残るような「何か」を、つくっていけばいいじゃないか、と僕はその時、決めたのである。

 * * *

 川と海が混じり合う場所は、自分にとってのはじまりとなった地だ、という僕の気負いをはぐらかすかのように、茫漠としていた。この空回り感が自分らしい、と思いつつ、釣船が係留されている溜まりから橋の方に目をやると、走っている生徒たちが小さく見えた。

「がんばれー」「がんばれー」

 どこか間の抜けた声援が、ゆらゆら立ち昇って青空の中に消えていった。かつて、彼らのような高校生たちを乗せて、鉄橋を渡った気動車のことを改めて思いだした。

 独立してから、なんでわざわざ再訪しようと思ったのか。明確な理由なんて、はじめからなかった。

 行動の意味なんて、いつだってやってみてからじゃないと、わからない。だが、この場所での時間が、おりのように自分の中に沈殿していって、いつしか新たな意味合いを持つことは、間違いないように思えた。 

 出来のわるい学生が、試験問題の解き方を何度も教師に尋ねるように、繰り返し訪問する場所があることは、幸運である。

 クルマに乗り込んでからも、高校生たちの声援は、まだ続いていた。

 * * *

 枕崎駅に到着した時は、日が暮れ始めていた。

「街の感じは大体、撮影できたんだよ。あとは、人たちを撮りたいんだよね」

 そろそろ一杯飲むところを探すタイミングだったが、昼から撮影を続けていたミハラさんの希望に僕も付き合うことにした。連れ立って入った駅前の観光案内所で話を聞き、おすすめの魚屋に行ってみることにした。

 古い商店が並ぶ通りにあるお店は、案内所の親切な女性が教えてくれたとおり、夕餉ゆうげのおかずを買いに来たと思しき人々で混んでいた。

 と言っても整然と並ぶわけでもなく、なんとなく店の前にたむろしている。そして、ご近所さん同士の風情で、世間話をしているのである。部外者の僕たちが来ても、ゆるい空気は変わらない。順番を抜かされやしないかと睨んだりもしない。もしかして番号札でも発行しているのかと周りを見渡したが、あるわけもない。

「お兄さん、なんにする?」

 切り盛りしている女将に言われて、我にかえった。順番が来たようである。他の客を待たせては悪い。前に出て、自分たちが旅人で、宿の部屋で一杯やるためのアテに、この地のおすすめを見繕ってもらいたいことを伝えた。

「あら、どこに泊まるの?」

 変な質問だな、と思いつつ女将の質問に答えると、とびきりの笑顔が返ってきた。

「あそこのお母さんは、いい人だから。いいところ泊まったね」

 見ると、順番待ちの主婦と独身らしき男性もうんうんと頷いている。

「じゃあさ、ネイゴ持っていきな」

「ねいご、ですか?」

「カンパチのことを、ここではそう呼ぶの」

 女将はそういうと、順番待ちの客たちと一緒になって、カツオは外せない、アジも食べるといい、とメニューを決めて、刺身に切り分けていった。

「ネイゴ、生きじめのもあるのよ。予約だけで売り切れなんだけど、切れ端、入れておくね。これはサービス」

 嬉しいが、常連たちを差し置いて、いただいてもいいのだろうか。そう思って口ごもっていると「生きじめは、美味しいよ」と、主婦がこだわりのない口調で話しかけてきて、男性も真顔で再びうなずくのである。

 事ここに至っては、あれこれ考えることなく、皆の好意に身を委ねるべきだろう。

「ここの名物は、人たちだから」

 女将は、そう言いながら醤油とわさびをたっぷり添えた刺身の包みを僕に手渡すと、予想の半分くらいの金額を告げた。そして、僕が改めて礼を述べながら財布を取り出している間に、カメラを構えるミハラさんに、いい写真、撮れた? と、再び笑顔で語りかけた。

* * *

「俺だって、諦めたものはあるよ」

 ミハラさんは、そう語ると、刺身を口に放り込み、缶ビールをぐいっとあおった。

 魚屋を出てから入った街の居酒屋は悪くない店だった。漁師の賄いにヒントを得たという「鰹船人かつおふなどめし」は、鰹だしの効いたスープが尾をひく深みある味わいだった。

 だが周りは、盛り上がっている数組の団体客と、一人で食べにきている女性客で、無理に話を聞きにいくことははばかられた。

 躊躇する気持ちがある時は、悩んでも仕方ない。とっとと引き上げるのが吉である。

 相方である僕のそんな気持ちを、知ってか知らずか、ミハラさんは阿吽の呼吸で立ち上がり、「宿で、飲みなおそうよ」と会計を済ませてくれた。

 宿屋の女将は、魚屋の女将の言葉通り、実に親切だった。手書きの領収書を二人分、書き上げてもらいつつ、風呂の入り方から朝食のメニュー、枕崎の見どころに至るまで丁寧に解説してもらった後、ようやく部屋へと通された。

 荷物だけ置いてミハラさんの部屋に集合した。コンビニで買ってきた紙皿やパックの蓋を活用した、学生のような酒盛りである。

 今回は、九州で別の取材も入れたから、すでに3日間一緒である。率直に言って、話題は尽きている。遠慮も必要ない間柄だ。互いに場を盛り上げる努力なんてしないから、会話は散発的になる。

 無言でスマートフォンで昼間に撮影した写真を確認していると、不意にミハラさんが話しかけてきた。

「やめて何年になる?」

「もうすぐ5年です」

「会社じゃなくて、お酒の方」

「ああ、まだ2年ですね」

 明らかに依存だとわかっていても、止まらなくなっていた。やめるきっかけになったのは、連れ合いの「今すぐやめてカウンセリングを受けなければ、別れる」という一言だった。

 僕にとって、酒をやめることは、酒と地続きの余白に別れを告げることでもあった。曖昧なままにしておきたい心持ちを抱えたまま、もたれあう。そこで得られるひとときの安息は、甘美で思わせぶりだった。だが、諦めよう、と決めた。

 酒を諦めたって、別に薔薇色の人生が広がるわけではない。むしろ、困ったことだって多い。終着駅の酒場で、人に気軽に話しかけにくくなったのは、その最たるものだ。

 そもそも、心地よく酔っているところに、見知らぬ人に話しかけられたら、誰だって鼻白む。だが、百歩譲って、語りかける側であるこちらも酔っていれば、一期一会の精神で、付き合ってくれることがあるかもしれない。それが、酒場で何度も自分に言い聞かせてきた「基本」である。

 なのに、こちらがシラフだったら、どうだろう。仲間とは到底思えぬ輩が近づいてくるのである。おととい来やがれ、と言われるのがオチだ。取材者として話を聞かせてほしいと近づくのもひとつの手だが、彼らにとって、それまでの愉快な時間と引き換えに、どんな得があるんだろう、と考えれば、二の足を踏んでしまう。

 いつかも書いたが、僕がいることで、酒場の空気を悪くするようなことがあれば、それは取材以前の問題である。分かっていたことだったが、空気を読みながらのふるまいは、思っていた以上に難しかった。

「でもさ、諦めたんだったら、仕方ないじゃない」

 僕の行きつ戻りつの話を聞いていたミハラさんは、そう言うと「俺だって諦めたものはあるよ」と、つぶやいて、刺身を口に入れ、ビールをあおった。

 何を諦めたんですか、とこちらが聞く前に、同じセリフを繰り返して、彼は続けた。

「妥協せずに作品だけを撮り続けることだって、できたと思うんだ」

 でも、のあとは、聞かずとも分かる気がした。普段のミハラさんは、写真の使われ方に注文をつけない。だが、今まで二度、一緒に単行本を制作した時は、トリミングや色味のわずかな修正を、担当者のうんざりした顔にもまるでお構いなしで続けていた。

 ようやく出来上がってからも、見開きの写真を僕に見せ、シャッターを押したタイミングの違いをウィキペディアに五カ国後で載るくらいの一大事として語るミハラさんに、違いが判然としないまま頷きながら、彼が「仕事」を続けるために諦めてきたものの大きさを想像していた。

「君は、酒場で話を聞くために、終着駅に来てるわけじゃないでしょ」

「そうですね」

「諦めた後でも、きっと、何かが残るんだよ。それとどう向き合うかじゃないかな」

 垂れ込めた雲間に一瞬さす光のような一言を放っておきながら、その価値に気づく様子も見せず、ミハラさんは「俺が諦めたもの」を、改めてひとつずつ挙げていきはじめた。

 そのまま、酔うと決まって語り出す「写真論」へと滑らかに話を展開していくミハラさんに相槌を打ちながら、自分もまた「酒をやめた」話を、もう何度も彼にしていたことに気づいた。

 繰り返し口にすることで、少しずつ自分自身の腑に落としていく。そんなテーマを語り合う仲間がいることもまた、幸運である。

 よし、とことん付き合おう、と決めた。ネイゴを一切れ噛み締めると、程よい弾力の後に旨みがじんわりと口の中に広がった。

* * *

 翌朝は、クルマを使って撮影するというミハラさんに、隣の薩摩板敷駅まで送ってもらった。わずかひと駅だが、JR指宿枕崎線に乗って、正調のルートで枕崎駅に入ることにしたのである。

 すぐそばに鹿児島水産高校がある。生徒の約2割が鉄道を利用しているらしいが、休日ということもあって、薩摩板敷駅のホームには僕以外は誰もいない。遠くまで見渡せる直線をゆるゆると近づいてきてホームに滑り込んだ気動車の車内も、がらがらである。

 出発した列車は、やがてトンネルに入った。そこを抜けると、枕崎の市街地の中を突っ切るように走り、ほどなくして終着駅に到着した。

 枕崎駅は、簡素な作りだが、綺麗だった。この駅は2006(平成18)年に新設されている。それまでの指宿枕崎線は、国鉄時代から一貫して、鹿児島交通南薩線の枕崎駅に乗り入れる形をとっていたのである。

 国鉄が私鉄の駅を使うという珍しいエピソードからも分かるように、枕崎の街に先にやってきたのは鹿児島交通の前身である南薩鉄道である。国鉄の鹿児島本線が開通したことが大きな契機となって、1914(大正3)年に伊集院から永吉川を渡って少し先の伊作まで開通した同鉄道は、知覧への支線も含めて延伸を続け、31(昭和6)年に枕崎に到達する。開通した際は、小学生も小旗を持って待ち受け、一番列車がホームに来ると一同歓声をあげた、という記録が残っている。

 遅れること32年。1963(昭和38)年に、国鉄の西鹿児島駅(現JR鹿児島中央駅)から、薩摩半島の反対側をぐるりと回って指宿枕崎線が枕崎に到達する。人々の念願かなって、枕崎を頂点として、薩摩半島を鉄道で一周できるようになったのだが、その頃から鹿児島交通の利用客は減少の一途をたどっていった。

 道路の整備によってバスが発達したことと、南薩地方の過疎化が原因だった。1955年(昭和30)年には350万人あった年間乗客数が、14年後には200万人を割り込み、82(昭和57)年には72万人にまで落ち込んだ。もちろん会社も合理化や観光列車の運行を計画するなどの手を打ったが、前年の豪雨による路線寸断の被害から立ち直ることができず、84(昭和59)年に、鉄道全線が廃止となった。

 残された形となった指宿枕崎線も、利用客は減少を続けている。枕崎市の資料を見ると、利用客の1kmあたりの人数を表す平均通過人員は、2019(令和元)年は1日あたり277人。30年前に比べて約70%も減少している。枕崎駅の乗降客も、旧駅舎を使っていた05(平成17)年には1日116人だったのが、8年後には67人にまで減っている。

 前述したように、利用客の減少は、如何ともしがたい理由がある。だからと言って、街も鉄道も、手をこまねいているわけではない。単線のホームだけだった新駅に、寄付を募って駅舎を作り、さらに駅周辺も観光拠点として整備した。JR九州も、存続のための努力を続けることを少し前に明言している。

 そういった試みを知った上で、改めて駅を見ると、隅々まできちんと手入れされていることに気づかされる。九州最南端の始発、終着駅として、関わる人たちが大切にしているのである。駅前広場のベンチで老夫婦が日向ぼっこをする横で、自転車でやってきた地元の若者たちが何やら語り合っている姿も、微笑ましい。

* * *

「意外と栄えているでしょ」

 市内をしばらく歩いてから、目に留まったコーヒースタンドでひと休みした。歩き疲れた体に、熱いコーヒーは沁みた。

 枕崎市は、1955(昭和30)年の35,546人をピークに人口減少のカーブを描き続けており、2023(令和5)年で約19,500人となっている。高齢化も進んでおり、65歳以上の老年人口の割合は、20(令和20)年で40.9%、20年前から約14%増加している。20%台後半で推移する全国平均よりもかなり高い割合である。

 だが、そういった数字からは見えてこない活気が、枕崎の街にはあるように感じられた。いくつか回った観光客向けの施設には、必ず何組か客がいて、鰹節や焼酎を熱心に選んでいたし、スーパーは地元の人たちで混んでいた。図書館へ行くと、大勢の老若男女が行儀良く本を読んでいるし、住宅街を歩くと、鰹節を蒸す柔らかな匂いが漂ってきて、路地を曲がると小さな工場が稼働しているのである。

 街のどこにいても、見渡すと人がいる。その数は少なめだし、高齢者が目立つ。そこはデータ通りと言っていいだろう。だが、人の気配が濃い。丘の上や商店街の端から濃紺の太平洋が顔をのぞかせる風景も、南国の港町らしい朗らかさを感じさせるのである。

 そのことをコーヒースタンドの主人に話すと、我が意を得たりと冒頭のコメントが返ってきた。

「えー、私は小さくなったって感じるけれどね」

 女将が会話に加わってきた。

「ああ、君はそう感じるかもねえ。でも、他はもっと過疎のイメージが強いんだと思うよ」

 聞けば、女将は枕崎の生まれ、主人は北海道の田舎町の生まれだった。カツオ漁と鰹節生産がもっと盛んだった時代を知る女将からみれば、今の街に寂しさを感じるだろうし、主人にしてみれば、街の根源的な「イキの良さ」に反応したくなるのも合点がいった。

「ここから出ていく若い人も多い。でもね、今だって鉄道に乗って観光客たちが来てくれるんだよ。俺が住んでいたところとは、ずいぶん雰囲気が違う」

 分析をする主人に、それはそうね、と今度は女将もうなずく。

 遠く離れた故郷を持つ夫婦の、なかなかにダイナミックな「ここまで」を、ひと通り聞いたところで、街の住み心地はどうですか、と直球の質問を投げてみた。

「いいと思うよ。俺みたいなよそ者にとっても、人付き合いでは困らないし。もちろん、不便だって感じる。東京に住んでいたこともあるからさ。あと、台風の時は大変だし。でも、贅沢を言えばキリがない。ここには、自然があるから。それだけでも十分だって思うんだ」

 主人が一言ずつ確かめるように言うと、うん、この海と山があるからね。そう女将も言葉を継いだ。

* * *

 時計を見ると、出発の時間が迫っていた。

 枕崎駅を出る列車は、一日6本しかない。次の列車に乗って、山川駅でミハラさんと待ち合わせないと、予約した鹿児島空港発の飛行機に乗れなくなってしまう。

 名残惜しさで駅の周りを歩いていたら、好もしい空気をまとったパン屋を見つけた。1時間強の乗車のお供に、菓子パンでも買って行こうと中に入った。

「山川までかい、お疲れだね。まあ、鹿児島に行くとなると、もっと時間かかるから。指宿からだったら特急も走っているんだけどね」

 来店の意図を告げると、高齢の主人はそう言って笑った。

「この街、何にもないでしょ」

「えー、そんなことないです。自然もあるし」

 コーヒースタンドの夫婦の受け売りみたいになった自分が、少し可笑しかったが、僕は話を続けた。

「ここに来るまでにも、いい景色があったんです。南薩線の廃線跡なんですけれど」

「そうかい。まあ、海があって、山も川もある。確かに、他にはないかもねえ」

 何個かのパンと飲み物を買いながら、枕崎に来るのは二回目であることを話した。

「ここは、いい街だろ。人情があるから。悪い人はいない。珍しい刺身が入ったら、喜んでもらえそうな人に分けるような、そんな街なんだよ。この人情だって、他にないよ」

 昨日の魚屋でのやり取りを見ていたんじゃないか。思わず主人を見ると、笑顔を浮かべたまま、またおいで、と袋を手渡してくれた。

* * *

 線路沿いの木の枝が車両にあたる音が、うとうとし始めた僕を目覚めさせた。2両編成の気動車は、ディーゼルエンジンを唸らせながら、東へ東へと向かっている。車窓には、綺麗な円錐形をした開聞岳が眼前に迫ってきていた。

 枕崎を出る時に乗り合わせた山ほどの食材を抱え込んだ若者たちは、すでにいなくなっている。

「大事なものがあるから」

 初日に訪れた観光案内所の女性は、都会で働いてから枕崎にUターンしていた。彼女は、街の見どころや指宿枕崎線の利用状況を、細やかに教えてくれてから、枕崎に戻ってきた理由をそう語った。大事なものとは何か。酒場でだったら、あるいは聞けたかもしれないが、聞かなくても構わないと思った。人がいて、自然があり、それらを大事に慈しみながら暮らす人たちがいる。それを知るだけで、十分であろう。

 隣のボックス席では、高校生と思しき少年が手書きのノートを広げて、数学の公式を使った応用問題の解答例らしきものを熟読している。

 かつて公式や単語をいやいや覚えて、試験が終わった瞬間に忘れて、を繰り返してきたことを思い出した。志望校にはじまり、あの頃から諦めてきたものは数限りない。だが今、自分にとって大事なものが何かを確かめ、人のそれを想像しながら、忘れていた時間の隔たりを埋めるような旅を続けることができている。

 それで十分じゃないか。

 粉砂糖のやさしい甘みが広がるツイストを食べていると、列車は小さな川にかかる鉄橋に差しかかった。水の流れはゆるやかで、河口はすぐそばにあるようだった。

 不意に、自分が、自身で何度も再生してきたフィルムの登場人物になった気がした。僕だけではない。途中で降りていった若者たちも、隣にいる高校生も、後ろのボックス席にちょこんと座っているおばあさんも、確かに「あの列車」に乗っていた。

 原風景となった鹿児島交通の路線こそもうなくなってしまった。だが、自身の想像の世界の中にいた「彼ら」が、実際に住んでいる終着駅へと連れていってくれる鉄路が、今も健在であることの幸運を、ようやく、実感した。

 ねえ、君。想像と現実が混然としたまま、僕は、隣で勉強に精を出す学生におせっかいをかけてみようと思いたった。受験や社会生活。かけたい言葉は色々あったが、結局、この一言に集約された。

 頑張れよ。

 そっと口の中でつぶやいてみたら、妙に間が抜けていて、僕は思わず笑ってしまった。完全に現実に戻って隣を見ると、学生はまるで気がつかない風で、変わらぬ姿勢でノートに目を向けていた。

 声援は、素面であればあるほど、どこか可笑しみをともなう。でも、その分だけ、酔った時とはひと味違った滋味深さを持つように思えた。

* * *

 列車は、開聞岳の麓をかすめてなおも走り続け、あたりが夕焼けに染まり始めた頃に山川駅に到着した。窓越しに、ミハラさんがカメラを構えて立っている姿が見える。彼と次の終着駅へと向かうべく、僕は座席から立ち上がった。

文=服部夏生 写真=三原久明

【お知らせ】本連載をもとに加筆修正して撮り下ろしの写真を加えた書籍『終着駅の日は暮れて』が、2021年に天夢人社より刊行されています。

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服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのち独立。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。「編集者&ライター。ときどき作家」として、あらゆる分野の「いいもの」を、文字を通して紹介する日々。「鉄」の長男が春から親元を離れ、彼との鈍行列車の旅がしにくくなったことが目下の悩み。

三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2022年10月に取材されたものです。

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