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いざ鎌倉!消えた白山道をたどる|新MiUra風土記
この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第8回は、三浦半島の北部、東京湾に面した横浜市の金沢八景を歩きます。
金沢八景駅の風通しがよくなってきた。
駅前は拡幅されて、京急本線と逗子線の駅は新交通システムの金沢シーサイドラインの駅舎と立体的に結ばれて、より利便になったものだ。
周辺の再開発も進み、復元工事がつづいた駅裏にある江戸期の茅葺屋根の旧木村家住宅と金沢八景権現山公園も完成して、この四月に公開されたばかり。この山上には平潟湾からの浜風も届いていた。
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横浜市最南端の金沢区はかつて六浦荘と呼ばれた。
干拓された今の地形は、かつて内海、湾と入江と川に侵食された海岸線で、場所により浦、津、瀬戸、潟、湊と称された。
ペリーが黒船で開港させた北の横浜村はやがて国際貿易港になるが、そのはるか六百年前にこの汀には対外交易の湊があったのだ。
六浦湊(津とも)は中世、鎌倉幕府の都の外港となり宋や元らとつながっていた。
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1984年、高さ約30メートルの丘陵地である当地から、
鎌倉~室町時代のやぐら群、建物跡、五輪塔、人骨が出土した。
ここを下った場所(南側)に六浦湊の船着場があった
北条泰時(*1)は鎌倉道としてそれまでの六浦道を拡張整備し、のちには金沢街道とも呼ばれ、それは現在も大筋は二十三号線(環状四号線)で鎌倉を結んでいる。
(*1)頼朝の甥、御成敗式目を制定し、武家支配を確立させた。鎌倉の築港、切通、交通網を整備する。鎌倉幕府中興の祖。
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また六浦には五つの古道が集まり束ねた、千葉、房総半島に渡海する古東海道のハブ地でもあったのだ。
その古道で消えたのがこの白山道だった(*2)。
白山道は六浦道の以前から六浦と鎌倉をつなぐ塩の道(ソルトロード)で、たたらの道(*3)にもつながるはず。そんなローカルミステリーに誘われ歩いてみよう。
(*2)『金沢の古道』(横浜市金沢区福祉部市民課編)
(*3)古代からの製鉄法。砂鉄を産する土地で行われた。映画『もののけ姫』には鍛治屋の集団が登場する。
始まりは金沢文庫がある称名寺から。
シーサイドラインも楽しいが、まずは駅前の瀬戸神社と琵琶嶋神社に寄りたい。三島明神と弁財天を勧進した源頼朝と政子が創建した、名勝金沢八景の中心なのだから。
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山側に見える赤い戸の建物は、旧料亭千代本
岸辺は歌川広重の浮世絵「八景図」に描かれた、江戸期来の旅館料亭が並ぶ大観光地で、閉業した「千代本」の大きな敷地に建物が残っていて昔を偲ぶことができる。
称名寺へ向かう途中の瀬戸橋を渡ると、明治憲法草創の石碑が立っている。旧料亭「東屋」では伊藤博文などが明治憲法を草案した。
称名寺(*4)は本堂の背後の三方を稜線がとり囲んでいて、京や鎌倉の都のミニチュアのようだった。水平に開いた境内は、宇治の平等院や平泉の毛越寺に似た阿字ヶ池を中心にした浄土庭園。五月には薪能も演じられ、地元民の自然の癒しと心の拠り所になっている。
(*4)真言律宗。六浦荘金沢に鎌倉第二代執権北条義時の孫、実時が自邸内に作った持仏堂を、孫貞顕が称名寺として大寺院化。
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洞窟を抜けると金沢文庫(*5)にでた。ちょうど称名寺の国宝の名品展が開かれていて、「声明譜」という楽譜に似た経典書に刺激された。
いつも渋い、ここならではの展覧会が催され、図書室もあり僕の密かなオアシスでもある。
(*5)金沢文庫(現神奈川県立金沢文庫)。十三世紀後半北条実時が創建。鎌倉幕府滅亡後、蔵書・資料は散逸。称名寺が収集保管後に国や県が保存調査、公開展示している。
称名寺から白山道をたどり、金沢文庫駅への旧道を下る。
先の八景駅もこの文庫駅もかつては瀬戸で絞られた内海だったのだ。その岸にそって今もバス道がカーブしている。
途中、小泉というバス停あり、金沢八景のひとつ『小泉夜雨』がここだった。そういえば六浦道(現二十三号線)端に「小泉又次郎誕生地碑」(*6)が立っているのは、元首相小泉純一郎氏の祖父。のちに横須賀を地盤にする小泉一族はこの地がルーツだったという。
(*6)金沢区観光協会HP
いつの間にか道脇を川が流れている。宮川という、鎌倉市との境の山を水源にして東京湾に下る川。白山道はこの河岸に沿ってゆけば良いはずだ。
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この辺りは釜利谷と呼び、やがて左右の丘が狭まると谷戸道に入り白山東光禅寺に参らせてもらう。智勇兼備の鎌倉武将、畠山重忠(1164-1205)ゆかりの臨済宗建長寺派の古刹。時が停まっているような静謐な空気のなかで、本堂天井の大龍画(月海豪澄法師作)が熱くて逞しかった。
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寺には愛用の馬具が伝わり、近くに首塚もある
スマホマップがあてにならないこの谷戸の道は、住宅が建込んでいて少しずつ方向感覚が狂わされる。この地特有の「やぐら」(武士や僧侶のための岩窟墳墓)に出会うと鎌倉に近づいたのだと気づかされ、異界に招かれたようだ。
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白山神社があったとされる階段上の岩壁には、複数のやぐらに白山権現社や稲荷などの祠が祀られていて、ここは二十一世紀の横浜とは思えない気配が漂っている。それにしても道の名の由来の白山神社は何処だったのか?
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さらに谷戸の奥には白山磨崖仏の市の案内板はあるが、摩滅したのかいまだ山腹にその彫跡がみつけられないのだ。
白山道はこの先で行き止まり、ここで関東学院大学金沢文庫キャンパスの金網に阻まれる。その北の山麓は横浜の繁華街を抜け、みなとみらいに至る大岡川の水源の氷取沢になる。
そこで一度目はあきらめたが、二度目に来た時はその脇の崖下に消え入りそうな山道を見つけた。それが白山道三号尾根道だった。
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古道を登り切ると白山道奥公園で、とつぜん丘の上に白昼夢のようなスペイン風住宅街が広がった。高舟台のウッドパーク金沢文庫は東京湾も一望。それまでの谷戸道とのコントラストと違いすぎて、くらくらしてくる。そして歩く白山道はここを開発中の1986~88年に発見(*7)されたのだった。
(*7)「釜利谷やぐら遺跡」(横浜市教育委員会)
さて途切れた白山道を再び探ろうと、朝比奈市民の森の尾根道を六浦道との合流点に向かう。
ここは武蔵国と相模国の国境だ。水戸光圀が鎌倉漫遊(*8)で眺めたという鼻欠地蔵は、今は懸崖に風化してわずかに見える像。
(*8)『新編鎌倉誌』江戸時代の地誌。水戸光圀が鎌倉見聞して編纂、名勝の選定で古都観光の基本になる。
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ここからは朝夷奈切通(*9)を越えると鎌倉だが、別の道は無いものか。白山道は以前歩いたことがある、この山嶺のたたら道とどこかで交差するはずだ。
(*9)朝夷奈三郎伝説、鎌倉殿十三人のひとり和田義盛の子と云われた勇猛果敢の益荒男。一夜にして朝夷名切通を開削させた伝あり。朝夷名切通は国指定史跡名、現行地名は朝比奈切通、朝比奈峠。
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金沢、釜利谷、氷取沢(火取沢)(*10)、鉄と火にまつわる地名も気になる。三浦半島のミステリールートをまた見つけよう。
(*10)『吾妻鏡』 鎌倉幕府の公式歴史書。
文・写真=中川道夫
中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。
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