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春節の街が“赤いもの”であふれるワケ|立春~雨水|旅に効く、台湾ごよみ(5)

台湾といえば「常夏」――そんなイメージをお持ちの方も多いかもしれません。しかし、台湾にも南国ならではの季節の移ろいがあります。この連載旅に効く、台湾ごよみでは、季節の暦(二十四節気)に準じて、暮らしにとけこんだ行事や風習、日台での違いなどを、現地在住の作家・栖来ひかりさんが紹介。より彩り豊かな台湾の旅へと誘います。

 2021年、節分が124年ぶりに2月2日というニュースを見た。「お節分」といえば、まず思い出すのが日本の豆まきだろう。

 先日、いわゆる日本語教育世代(※戦前に日本統治下だった台湾で生まれ育ち、日本語で日本式の教育を受けた台湾籍の方々)の集う場所で、台湾や日本の暦にまつわる行事について講演をした。

 その際、何人かの方が口々におっしゃるには、日本時代の台湾でも「鬼は外 福はうち」と言いながら大豆を撒いたらしいが、「豆を撒くだけで、鬼のお面はとんと覚えがない」という。日本でもこの頃は、節分といえば大阪発の恵方巻が全国的な行事となった。伝統行事も時代のながれで刻一刻と姿を変えているのは、昔も今も変わらない。

なぜ、節分に豆を撒くのか

 豆を撒くのが行事となったのは日本では室町時代ごろらしいが、その起源は中国の六朝時代(222~589年)の冬至にあるともいわれる。

 冬至に小豆(あずき)を食べる習慣は日本にも伝わったが、これは元々古代シルクロードの起点ともなった中国陝西(せんせい)地方の習俗であった。古い文献によれば、冬至に死んだ子供は「疫病」をもたらす鬼に化け、鬼は小豆を怖がるため、冬至には小豆を炊いて食べ鬼を払った。小豆と桃の木には神の力が宿ると古代中国では信じられており、「刈った草は馬に、豆は兵士に」なる。かつて冬至は一年の始まりで、その後は立春が一年の最初となったので、日本で節分(立春の前日)に鬼払いの豆をまくようになったのではないか、そんな風に推測できるのである。

 節分とは、そもそも日本において「立春」「立夏」「立秋」「立冬」という二十四節気各季節の前日を表わした。節気自体が毎年1~2日のずれがあるため、節分の日にちにも影響するので、2021年の節分は例年より一日早かったのである。日本人にとっては長年「お節分=2月3日」という固定イメージがあるので、ニュースになるのも無理はない。しかし月と太陽それぞれの運行を元にした「太陰太陽暦」の身近な台湾に暮らしていると、暦の日にちが毎年違うなんてことは、むしろ当たり前に感じる。

 台湾を含め東・東南アジアの多くの地域では、月の満ち欠け(太陰暦)を元にした春節(旧正月)を「本当のお正月」として重要視し、旧正月に合わせて学校や職場の冬休みも設定される。西暦カレンダーと照らし合わせてみた場合、2020年の正月は1月25日であった。そして、今年2021年の正月は2月12日。つまり年によって、3週間ちかくの違いが出るのである。

 とはいえ、最近では花火大会やカウントダウン・イベントなど、西洋暦での年越しをお祝いするムードもなくはない。個人的にお正月の雰囲気が好きな筆者としては、日本と台湾、それぞれ違った雰囲気の正月を二回も味わえるのは楽しい。

春節の街が“赤いもの”であふれるワケ

 ところで春節といえば、街中を彩る赤色が印象的だが、どうして赤を多用するようになったのだろうか?

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 むかしむかし「年」(ねん)という怪物が山にいた。動物たちが冬ごもりすると「年」は腹を空かせ、大晦日に山から下りて里の人々を喰らった。そんな訳で人々は、これが最後の食事かもしれぬと大晦日に家族全員でごちそうを食べた。これが今の「年夜菜(おせち)」で、大晦日の食卓を家族と囲むのは華人にとっては一年で最も大切な行事である。

 ところがある年、里で親切を受けた老人が御礼に、「年」は赤色・大きな音・清潔を何より嫌うと教えた。人々は家中を掃除し、門を赤い紙で囲んで爆竹を鳴らし、真新しい下着を身につけ大晦日を迎えた。おかげで「年」は姿を現さず、無事に朝を迎えた人々がお互いの無事をよろこびあって「新年快楽(あけましておめでとう)」と挨拶した。

 この「年」の話は、台湾の小学生の教科書にも載っているほどよく知られる。昔の人はすべて「数え」で年齢を数えたので、いつ生まれた人も元旦が誕生日だった。歳を取れば誰もがいつかは死を迎える。つまり歳(とし)を食うことは、年(ねん)に食われることで、何とも含蓄のある話だと思う。しかし、中国福建地方をルーツとする台湾独特のローカルな伝説もある。

 電気やランプが無かったころ、人間は竹の筒に油をいれたものを「燈猴(テンカウ,猴は猿のこと)」と呼んで使っていた。冬至の日には、白玉だんご(湯圓)をこしらえて椅子やタンスにくっつけ一年の働きを感謝する習わしだが、ある年にうっかり燈猴にだけ感謝することを忘れてしまう。火の神はこれを恨んで玉皇大帝(道教の最高神)に人間の悪口をふきこみ、皆殺しにしてほしいと頼んだ。玉皇大帝はたいそう怒り、「それでは元旦の朝、人間どもの地を沈めてやることにしよう」と仰った。

猿灯

 これを伝えきいた人々はびっくりして、大晦日の夜にお別れのごちそうを作り、食べながら地が沈むのを待った。それを見ていたかまどの神は人間に同情し、玉皇大帝に「火の神が嘘をついている」と陳情する。玉皇大帝はよくよく話を聞いて、人間を許すことにした。夜が明けた。人々は喜んで、「おめでとう、おめでとう」と互いに喜びあった。

 二つの話に共通するのは、大晦日に危機に瀕した人間が、無事を喜び合うことだ。陰暦の正月とは「新月」で、闇夜である。一年で最も寒いころの暗い夜、さぞかし昔の人は心細く過ごしたろうと想像してしまう。

 この「燈猴」の話は、日本時代に黄氏鳳姿という12歳の台湾人少女によって日本語で書かれた『七娘媽生』という文芸作品におさめられている。日本時代における台湾習俗が記録された貴重な一篇だ。作品が書かれたのは1940年で、太平洋戦争終戦の5年前。戦時下のまっただ中にいた植民地の12歳の少女は、こう書きしるす。

台湾の人々もこの頃は、新暦のお正月をむかえるようになりましたが、それでも古い人は、いまでも旧のお正月をむかえます。今は非常時ですから、旧暦のお正月はやめて、新暦のお正月をむかえるようにしなければなりません。同じ一つの国の中で、一方は新暦のお正月をむかえ、一方は旧のお正月をむかえて、別々のことをすると、国がだんだん弱くなります。

私のうちは新暦のお正月を賑やかにむかえました。けれども今年七十四になる大おじいさんが、『旧正月もむかえた方がいい。』とおっしゃったので、ささやかな旧のお正月も、おむかえすることになりました。

『七娘媽生』より ~黄氏鳳姿・著(<外地>の日本語文学選① 南方・南洋/台湾 黒川創・編/新宿書房/1996)より

 異なる二つの文化を背負わされた12歳の少女の悲壮な思いに触れるようで、読むたびに胸が苦しくなる。

日々“新たな発見”のある「常春」な台湾

 日本語教育世代の方々とのやり取りを、この拙文の冒頭で紹介した。そこには続きがある。お昼を皆さんとご一緒していたとき、とある女性が言った。宜蘭女学校の出身で、宜蘭から日本の特攻隊が出発するたび秘密裡に学校に呼ばれ、もう一人の日本人少女とふたり、特攻に出る兵士にお神酒を注ぎ、飛行機が飛んでゆくのを見送る役を担ったそうだ。

「もの心ついたのが、戦争末期でしょう。物がなくてね。だから行事といっても大して覚えがないの。特攻隊の兵隊さんのことばかりよくおもいだすけど」

 もう一人男性がお声をかけてくださった。

「あのね、皇民化運動があって、ぜんぶ日本式になった。ぜーんぶ日本のもの。戦後は中国式になった。台湾らしい風習というの、あまりよくわからないのです」

 ハッとした。

 当たり前だと思っていた伝統や風習の裏で、文化を奪われ伝えられずに来た人たちがいることに、ずいぶんと鈍感であった自分を恥ずかしく思った。

たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時
――橘曙覧「独楽吟」

 立春から雨水にかけては草花や鳥・虫たちが我先にと春を告げ、日を経るごとに発見のあるとっておきの季節である。新たな発見は、これまでなかった空間を心のなかに創造してくれる。日々、次なる視点や思索をもたらしてくれる台湾は、私にとって常の「立春」であり「雨水」であると感じる、この頃である。

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文・絵=栖来ひかり

栖来ひかり(すみき ひかり)
台湾在住の文筆家・道草者。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)。


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