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魅惑のオスマン美術史入門(5)・最終回|イスタンブル便り

この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。トルコへの留学を実現し、博士論文のテーマを決め、たくさんの人びとに出会い、研究に邁進する筆者。いよいよ「魅惑のオスマン美術史入門」最終回です。

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初めて訪れたポーランドのワルシャワで、この原稿を書いている。

四年に一度開催されるトルコ美術国際学会の第17回目が、ここワルシャワ大学で開催中なのだ。ちょうど初日の昨日、わたしは自分の発表を終えた。今回は初めて、トルコ美術史の文脈で伊東忠太の話をした。数年来調査していた、東京大学所蔵の伊東忠太資料の全貌を、初披露したのである。世界じゅうから専門家が集まる場で、忠太の話が関心を集め、さまざまな方から質問やコメントをいただき、嬉しい気持ちでいる。

わたし自身は今年で参加は七度目になるが、四年ごとの開催なので、毎回参加する人たちの間では同窓会のようである。何を隠そう、わたしが夫パオロ騎士と出会ったのもこの学会である。ジラルデッリ家にとっては、次の学会では結婚したカップル、その次の学会では娘を連れて……、と、家族の歴史の節目、節目が反映された特別な存在でもある。

というわけで、今月は、オスマン美術史入門の話を締めくくろう。

そもそもわたしがトルコに興味を持ったきっかけは、近代に造られた絢爛豪華な西洋式宮殿、ドルマバフチェ宮殿だった。オスマン帝国で、なぜ西洋式の宮殿が建てられたのだろう。その同時代、オスマン建築の文化的基準作ともいうべき15世紀の建築の修復に、フランス人が起用されたことを、留学後に知った。

わたしが博士論文のテーマに選んだのは、レオン・パルヴィッレという謎のフランス人芸術家。パリの人で、19世紀に、オスマン建築史の法隆寺ともいうべき、ブルサのイェシル・ジャーミを修復した。オスマン建築の(ひいてはトルコ建築の)文化的アイデンティティの根幹に関わる15世紀のモスクだ。オスマン帝国の建築と装飾についての著作をフランス語で初めて著した人物だが、イスタンブルにいつ来たのか? なぜ来たのか? オスマン帝国で仕事をするようになった経緯は? その生涯は、ほとんど知られていない。

パルヴィッレがオスマン帝国へ来る理由となったアルメニア人宝石商ジェザーイルオウルの邸宅。数々の経緯を経て、現オーストリア総領事館となる。パルヴィッレがパリからイスタンブルへやってきたのは、1851年のこと。

ちょうど日本の明治時代と同時代である。そして当時、オスマン帝国の近代化の象徴として建てられた政府の中枢、ドルマバフチェ宮殿は、西洋式だった。

そもそも、レオン・パルヴィッレという人は、ほんとうに実在したのだろうか? 第一、現存作品が知られていない。確証のない二次情報ばかり見ながら、そんな疑問さえ頭に浮かぶようになった。

現在ではずいぶん状況が変わったが、当時のイスタンブルでは、悩みの種があった。文献が多く揃っている図書館が限られている、という点だ。その意味では、日本の東洋文庫(東京文京区)や大学図書館などの方が、時間のロスが少ない。

イスタンブルで文献を調べれば調べるほど、真相は遠ざかるような気がした。生の情報がないのだ。どの文献も、レオン・パルヴィッレの事績を記してはいても、その人の存在、思想を思わせるような、“生身の証拠”に、わたしは触れられないでいた。

断片的にはあった。オスマン帝国政府の文書が所蔵されるオスマン文書館で、パルヴィッレがオスマン政府から勲章を受けた記録を見つけた。1863年、オスマン帝国博覧会でパヴィリオン装飾の功績が認められたのだ。ブルサで地震があった時の資料も出た。だがどうも、生誕から死まで、全体的に俯瞰できる“生の情報”が得られないでいた。

“生の情報”のことを、学術の世界では、一次資料、一次文献という。この場合、レオン・パルヴィッレその人が書いたもの、描いたもの、そのものが一次文献。それを調べて書かれた研究論文などは、二次的なものだから、二次文献だ。つまりわたしは、他の人が調べて書いたものを読んでばかりいたのだ。

一次文献を探り当てないとだめだ。そう思ったわたしは、パリに長期滞在することにした。

* * *

大学学部生の時に選択した第二外国語は、フランス語だった。大学の教養語学の授業だけでは足りず、日仏学院にも通った。旅行で何度か訪れたこともあった。それでも、ここを拠点に研究活動するには、壁は高かった。どこに行けば一次資料があるのか? まずは手当たり次第だ。

フランス国立美術史学院 INHA。

パリ市図書館。アール・ゼ・メチエ博物館。建築博物館。サン・ジュヌヴィエーヴ図書館。フォルネイ図書館。フランス国立図書館。パリ市文書館。装飾美術館図書館。そして、フランス国立公文書館。

フランス国立図書館ビブリオテック・ナショナルの新館、トルビアック館は、完成時建築の方面でも話題になった。
設立にパルヴィッレ自身も関わったことを後からわたしが見つけた、パリ装飾美術館図書館の入り口。ルーヴル美術館に隣接したルーヴル宮の建物の一部である。

フランス語もしどろもどろ、パリの街もろくに知らない状態である。それでも、パリのすべての通りの名前の索引「パリ・パー・アロンディスモン(街区ごとのパリ)」という赤い表紙の地図帳を片手に訪ね当て、素敵な図書館の建物に出入りするだけで、胸がときめいた。

古い紙の匂い。ページが擦れる音。読みふけっている人の頭の上の空気。高い天井。そういうものの間を、足音を消してそっと歩き、年代物の蔵書索引を検索するだけで、どきどきした。そのうちに、パリの街にも慣れて来た。カタログがオンラインになっている図書館の方が少なかったように記憶している。

オンライン化以前の図書館など、今となってはおとぎ話のようだ。どの図書館に行っても、蔵書を紙のカードで一枚一枚検索し、自分の関心のあるテーマの蔵書について、メモを取ることから始める。その作業を通して、その図書館にどんな本があるか、コレクション全体について知るのである。その前段階を経て初めて、実際に本を読む、という段に至る。

コンピュータ検索で瞬時に必要な本を見つけられるようになった現代では考えられないような、気の遠くなるような時間と手間だ。

文書館での作業は、また格別だ。例外も多々あるが、図書館ならだいたい全世界共通の分類システムがある。それが文書館となると、話はまったくちがう。 所蔵する文書の種類や性格によって、分類のシステムは多種多様、一つ一つが固有である。それはさながら小宇宙だ。そして、中にどんな文書が存在するのか、も、実際に箱を開けて調べてみるまでは、わからない。

自分の関心のある文書がどこにあるか、あるいは、果たして存在するのか? 見つけるのは、大海の中で一本の針を探すのに似ている。「レオン・パルヴィッレ」という名前を頼りに、わたしはその大海の中をおぼつかなく泳ぐ、ちいさな魚だった。

「わたしがどうやってパルヴィッレの子孫を見つけたか、知ってる? パリで、電話帳をかたっぱしから調べたの。そして、パルヴィッレという名前の家に電話したのよ」。

ボストンまで訪ねて行った時、ベアトリスはそう言っていたずらっぽく笑った。そんなことも思い出された。

* * *

ビギナーズラックだったかもしれない。

それは、フランス国立公文書館で初めて開いた箱の中から出て来た。1867年パリ万国博覧会に関連するものだった。レオン・パルヴィッレは、オスマン帝国のパヴィリオンを設計した、と言われている。

1867年パリ万国博覧会で、パルヴィッレはオスマン帝国のために三つのパヴィリオンを設計した。これは、ボスフォラス海峡沿いの夏用の邸宅「ヤル」にヒントを得たもの。

白い紙に、薄いパラフィン紙が貼り付けられ、建築の立面図が描かれている。専門書や当時の雑誌で何度も見た、1867年パリ万博のオスマン帝国パヴィリオンのうち、ボスフォラス海峡上の邸宅「ヤル」の建築モデルを模したものだ。実際には、トプカプ宮殿の庭園内、現在はイスタンブル考古学博物館の一部となっている15世紀のチニリ・キョシュク(タイルのキオスク)からインスピレーションを得た作品である。直筆の図面があるなんて。そしてその右隅に、まぎれもない署名があった。

パルヴィッレの協同経営者、セルヴェリアン家が寄進したクズグンジュックのアルメニア聖教会の平面図。 1861年竣工の教会建設には、パルヴィッレ自身が関わった。大統領府オスマン文書館蔵。
紛れも無い、レオン・パルヴィッレの署名。個人蔵。

いたのだ。全身の毛が鳥肌立った。

不思議な話だが、この肉筆のサインを見て初めて、わたしは、レオン・パルヴィッレという人が、実際にいたのだ、とやっと確信したのである。それまで信じていなかった訳ではないが、抽象的な概念だけだったものが、急に具体的に血肉を持って現れたという感じ、と言えばいいだろうか。

この一枚のちいさな紙切れに、意味を与えうるのは、世界でたぶん、わたしだけだ。大きな大きな歴史の流れなかの、ほんの一滴、ほんのひとときの、ほんのちいさな断片。大海の中に一本の針を見つけた感覚は、おそらく味わったものでなければわかるまい。それは、おそるべき麻薬的な力で、再び戻ってくる。一度味わうと、もう一度味わいたくなるのである。そうやってわたしは、常に埃で手を真っ黒にする、文書探索の世界に嵌まり込んでいった。

* * *

「ナントへ行ってみたら? フランス大使館の文書が、そっくりあそこにあると聞いているよ」。

そう言ったのは、知り合って間もなかったパオロ騎士だった。

各国大使館があるのは現在は首都アンカラだが、オスマン帝国時代は、帝都イスタンブルにあった。フランス大使館、とは、イスタンブルにかつてあった大使館のことである。フランス政府は、北西部の都市ナントに、外交文書館を置いている。

TGVに乗っておよそ2時間半。たどり着いたナントの町で、またもや文書館の分類法を一から理解するところから始まった。裁判記録や公証人記録、外交文書など膨大なカタログの中から、「これぞ」と思えるような項目に目星をつけ、請求する。項目は、箱や、ファイルなどに納められている。

事実は小説より奇なり。一つ一つ見るうちに、自分が追いかけているものではなくても、思いもかけないような無数の物語に引き込まれてゆく。文書探索の、大きな喜びのひとつである。いつか使えるようなネタの貯金を、こうやってどんどん溜め込むのである。

そして。二つ目の金鉱を掘り当てた。フランス大使館公証人記録。

当時オスマン帝国で治外法権が認められていたフランス。オスマン帝国人とフランス人の間の契約取引などについて、フランスの法律のもとで公証人に届け、記録する制度があった。それが公証人記録である。これを見ると、遺産相続や会社設立、揉め事の顛末など、種々様々な人間模様が繰り広げられている。

レオン・パルヴィッレは、他の二人のフランス人画家・彫刻家と、ベイオウルで会社を立ち上げていた。その登記が出てきたのだ。驚いたことにその一週間後、会社は友好的に解消され、翌日、もうひとつの別の会社が登記されていた。パルヴィッレは、フランス人の共同経営者の代わりに、イスタンブルのアジア側、クズグンジュックの地元の有力アルメニア系一族出身の建築家と会社を設立した。クズグンジュックは、偶然にも今わたしが住んでいる地域である。そしてパルヴィッレ自身も、クズグンジュックに引っ越した。

文書には、会社経営の出資、財政、労働条件など、すべての詳細が書かれていた。信じられない。この時代に外国人が会社を設立したことすら稀だが、その詳細がすべて書かれている文書も珍しい。

クズグンジュックのアルメニア聖教会、スルプ・クリコル・ルサヴォリッチ教会の現在の様子。わたしが通勤の船着き場に行く道にある。隣にはモスクのある、珍しいロケーション。

共同経営者のアルメニア系一族セルヴェリアン家は、ドルマバフチェ宮殿の建設を請け負ったバリアン家に建材を提供する、材木商である。つまり、パルヴィッレがオスマン建築の重要作品イェシル・ジャーミの修復や、ドルマバフチェ宮殿の改装、1867年パリ万博のオスマン帝国パヴィリオン建設受注など、オスマン帝国の建設業界の中枢に入り込めた背景には、アルメニア系オスマン帝国臣民の共同経営者の媒介、というカラクリが、あったのだった。

その夜、ナントの街角の公衆電話から、イスタンブルのアフィーフェ先生に電話をした。

「先生、見つけました。レオン・パルヴィッレがベイオウルで会社を設立した時の登記が出てきたんです!」

電話の向こうの先生の嬉しそうな声を、今も覚えている。

「アーフェリン(よくやったわね)! そう、"探す人が、見つける"のよ」。

“探す人が、見つける”。それが先生の口癖だった。

日本の「お雇い外国人」とはまた、全く違う仕掛けが、オスマン帝国には存在した。イスタンブルに造られた西洋式の宮殿、ドルマバフチェ宮殿には、<西洋/東洋>という二元的な対立ではなく、もっと複雑で多重的で、途方もなく豊穣な文化的背景が、あったのだった。

パルヴィッレに呼ばれてやってきたアルザス人の画家、ホーニグが日記に書いている。「ドルマバフチェ宮殿の建設現場は、トルコ語、アルメニア語、ギリシャ語、フランス語、英語、イタリア語、ドイツ語、など、などが飛び交う、さながら<バベルの塔>だった」と。

忘れられたもののなかに、かつてあった意味を蘇らせる。物語は、実はすでにそこにある。その意味を読み取り、つなぎ合わせ、他の人にも分かる物語として紡ぐこと。それが、美術史もふくめた歴史家の役割だと思っている。

パリの窓より、ある日の夕暮れ。

* * *

今年の夏休み、イタリアに滞在していた時のことだ。

わたしが論文指導しているゼミの学生、セネムから、半泣きで電話がかかって来た。彼女は、日本初の女性建築家、土浦信子について修士論文を準備中である。わたしのところにやって来て2年。この夏初めて日本へ調査旅行に行った。日本の専門家の方々に親切な手助けをいただき、日本語の資料をたくさん持って帰って来た。

それを読もうとして、普段日本語を習っている先生に相談したところ、「こんな難しい日本語、あなたに読めるわけがない」と言われた、というのだ。

わたしは言った。

「わたしもトルコ語について、30年近く前、まったく同じ状況でした。でも、どうしても知りたい内容が、日本語でしか書かれていなかったら、何としても読むものだから。

最初は1日に1行だけ、理解しようと努めなさい。難しかったら、単語ひとつでもいい。大事なのは毎日続けること、諦めないこと。そうすれば、明日は2行、明後日は4行、少しずつ、だんだんできるようになる。わたし自身が証拠。本当にやろうとおもったら、できるのよ」。

そして新学期になった今、彼女は100ページ近くを翻訳し終わったところだ。新しい世代のトルコ人研究者が書く日本近代建築史を読めるようになるのも、そう遠くないかもしれない。

文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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