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ドルマバフチェ宮殿の衝撃|魅惑のオスマン美術史入門(1)|イスタンブル便り

この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、「そもそも、なぜオスマン美術史を研究することになったか」について学生時代の思い出をつづっていただきました。

門はどこにあるのか? わからない。それがわたしのオスマン美術史入門だった。

先月、わたしがトルコ語を習い始めた頃のことを書いた。前後の経緯は省いたのだが、そこを知りたい、というご希望を後からいただいた。そこで今回は、なぜこの 豪華絢爛な迷路に迷い込んだのか、という話をしようと思う。

はじめは美術史だった。世の中には、「美術史」という学問があるらしい。そのことを知ったのは、大学で文学部に入り、専門に分かれる前だ。一年生の教養課程で、「美術史教養演習」という講座があった。美術も好きだし、世界史も好きだ。面白そうだ。そんな軽い気持ちで受講した。

担当は、当時気鋭の助教授だった丹尾安典たんおやすのり先生だった。もともとゴーギャンやフランス近代美術が専門の丹尾先生が、明治美術に傾倒し始めた頃だったのではないか。日本の浮世絵がフランス近代美術に影響を与えたジャポニスム、一方の明治日本では西洋の油絵を真似て、あるいは想像から、材料や、画法や、様々な工夫の末に奇想天外な作品も生み出されたこと、など。面白いテーマを面白いところだけ、毎回読み切りのような感じで学ぶ、贅沢な講座だった。その講座で、美術史という学問の面白さに魅了され、翌年、迷いもなく美術史専修に進んだ。

インターネットもパワーポイントもなかった当時、美術史の授業は35ミリフィルムの「スライド」で行われていた。クリックひとつでコンピュータ画面に画像が溢れかえる現在とは違い、写真画像の貴重さといったらなかった。そういう環境で勉強していると、美術作品のオリジナルが見たい、と強く思うようになるのは、自然の成り行きである。

大学三年生の時、神保町の古書会館のアルバイトでお金を貯めた。授業で出てくるパリのルーヴル美術館や、フィレンツェのウフィッツィ美術館の本物を見たい、と思ったのだ。 もちろん、バックパックを担いでの貧乏旅行である。

夏休みに友達同士でバリ島に行くようなクラスメートもいたが、なぜかわたしは、一人で、そして行くなら、長期で行く、と決めた。三年生が終わった春休みだった。

最初に入るのはパリ。帰りの飛行機に乗るのはイスタンブル。フランスから南下してイタリア、長靴のかかとブリンディシから船に乗り、ギリシャのパトラス、アテネ経由で陸路イスタンブル(*1)。それがわたしの経路だった。

なぜ終着点をイスタンブルとしたのか、未だにわからない。イスタン「ブール」と、最後を長く伸ばす言葉の響きを、妙に美しいと思っていた。美術史の勉強とは関わりなく、外国に行くなら、<イスタンブール>に行ってみたい、と思っていたのだ。子供の頃に読んだアラビアン・ナイトと、トルコの違いさえもわかっていなかった。もしかしたら、庄野真代さんの大ヒット曲「飛んでイスタンブール」も、無意識のうちに影響していたのかもしれない(真代さんとは、その後お知り合いになるという嬉しいサプライズもあった)。

(*1)「イスタンブル」の日本語表記について。日本では、公共放送や新聞など公式の表記としては、語尾を長く伸ばす「イスタンブール」がいまだに使用されている。だが、これは英語や西欧語起源の発音に由来する。わたしは個人的には、現地の発音に最も近い「イスタンブル」を使うことにしている。

初めて訪れたルーヴルで、フランスなのになぜこんなにたくさんエジプトのものがあるのか疑問に思い、フィレンツェで花のサンタマリア大聖堂の歌い上げるような色彩に感動し、アテネで見る「ギリシャ美術」の、ルーヴルで見たのとは全然違うおおらかな味を、好ましく思った。そして最後にやってきたイスタンブル。

トプカプ宮殿の「スプーン売りのダイヤモンド」も見た、ブルーモスクにも行った、アヤソフィアも見た、地下宮殿も見た。そして最終日、わたしが行ったのは、日本でいうと明治時代に、近代化の象徴として建てられた西洋式宮殿、ドルマバフチェ宮殿だった。

絢爛豪華。ひとことで言うなら、そう表せる。ボスフォラス海峡沿いの絶景を望む、白亜の宮殿。110,000㎡の敷地に、285室、43の大広間、ハマム(トルコ式蒸し風呂)6つを含む、総床面積45,000㎡、海側正面ファサード全長600mの主要棟。ガラス張りの天井、巨大なシャンデリアのある、クリスタル製の手すりのバロック階段。金箔で押された列柱。透光性のあるアラバスター大理石で全面覆われた、スルタンのハマム。

ガラス張りの天井から陽光がふりそそぐ。巨大なシャンデリアのあるクリスタル製の手すりのバロック階段。
天井部を支える金箔で押された列柱。
アラバスター大理石で覆われた、スルタンのハマム。

現在もそうだが、宮殿のガイドツアーで、最後に連れてこられるのが、ムアーイェデ・サロヌと呼ばれる祝祭日の式典の間である。56本のコリント式の柱が支える1800㎡の空間に、高さ36メートルのドームが穿たれている。狭くて暗い、殺風景な廊下を通って導かれたその広さ、その高さ、その色彩。それらはわたしを圧倒した。モスクのような空間だが、そうではない。東洋のようだが違う。かといって西洋でもない。

混乱した頭で、 ふらふらと外に出た。ぼんやりと庭のベンチに腰掛けた。その時わたしを訪れたのは、抉られたような痛みだった。衝撃、後から考えると、その根っこには、悲しみがあった。

こんなに大きくて、こんなに豪華な宮殿が、なぜ西洋式なのだろう? トルコで、なぜ、西洋式の宮殿を作らなければならなかったのだろう。

翻って日本を考えると、明治時代に、似たような経験がある。赤坂離宮のような西洋式の宮殿もある。だが、この規模はどうだ。まったく無知だったながら、オスマン帝国という三大陸にまたがった大帝国の途方もなさに、わたしは圧倒されていた。それが大きければ大きいほど、豪華であればあるほど、西洋式を受け容れざるを得なかった苦渋が、迫ってきた。西洋化とは、近代化とは、なんなのか。

もしかしたら。

その時、わたしのなかで、ちらりと灯った光があった。トルコで、この宮殿がなぜ西洋式で作られたかを知ることができれば、日本の近代も、相対的に見えてくるのではないか。

オリエンタリズムとか、植民地主義とか、ポスト・コロニアリズムとか、世界の不均衡とか、そんな言葉さえも知らなかった。長い旅が終わり、明日は日本に帰らねばならないという感傷も手伝っていたと思う。

ドルマバフチェ宮殿の前庭には、季節ごとに美しい花々が溢れる。手前に見える薔薇の名前は、「イスタンブル」。

「ウェア、アー、ユー、フロム?」
「ワッツ、ユア、ネーム?」

そのまま座っていると、子供たちがやってきた。小学生くらいだった。トルコは、人を一人にさせておかない国だ。今ではずいぶん変わったが、30年以上前の当時、日本人は珍しかった。

メルハバ(こんにちは)、しか知らなかったから、おそらく英語でやりとりしたのだと思う。住所を交換し、手書きで書かれた名前の「i」に点がないのを発見した。「これは、” i ”でしょう? 間違っているわよ」と、点をつけた。子供たちは説明しようとしたが、片言の英語ではうまくできない。苦笑いしていた男の子の顔を鮮明に覚えている。点のない「i」、それは、トルコ語の特殊文字、「ı」だった(と、今ならわかる)。

信じられないほど広大で金ピカの西洋式宮殿、そこから受けた痛み。そして好奇心丸ごとの、素朴な子供たち。この子達が、将来日本に来たりすることは、あるのだろうか。

そんなことを想像すらできないほど、当時のトルコは貧しかった。なぜわたしは、ここにいるのだろう? 経済的に豊かな国、日本に生まれたというだけではないか? 

色々な感情が入り混じり、涙が出てきた。子供達は、さぞかし驚いたにちがいない。傾きかけた日差しのなか、ボスフォラス海峡の青さが、ぼやけた。 

* * * 

帰った日本では、就職活動がすでに始まっていた。遅れをとった。きびきびとリクルートスーツに身を包み、授業に遅れて出席する同級生たちを横目に、わたしは煮え切らないままだった。 

卒業論文のテーマは、出発前にすでに提出してあった。日本の池泉回遊式庭園と、現代美術のインスタレーション。指導教授は、 今は亡き日本美術史の佐々木剛三先生である。しかしわたしのなかには、どうしても取れない棘がすでに突き刺さっていた。この棘を、どうにかできないか。 

佐々木先生の研究室のドアを敲いたのは、研究テーマを変えるというよりも、どうしたらその棘から逃れられるのか、助けを求めたい一心だった。誰かに相談したかった。 

「先生、旅行から帰ってきて、どうもトルコのことが気になって仕方がないんです」。
「そうか、じゃあ、僕は面倒見きれないから、高橋榮一先生のところに行きなさい。あとから書類を持ってくるように」。 

佐々木先生は、けんもほろろだった。そう、相談するどころか、わたしは即座に破門されたのだった。呆然としながらも、とにかく言われた通りに、今は亡き高橋先生のドアを敲いた。高橋先生は、ビザンチン美術のご専門である。ビザンチン帝国は、首都がコンスタンチノープル、現在のイスタンブルであるから、地理的には正しい行き先である。 

運よく在室中だった高橋先生は、わたしのしどろもどろの話を聞くと、にこやかにこう言った。

「そう、じゃあね、君やりなさい。だけど僕は専門じゃないから、君自分でやってね」。 

そんな。泣きっ面に蜂、とは、このことである(今から考えると、当時、やりなさいと言ってくれる先生がいただけでも、かなりの幸運だったのだが)。

途方にくれた。トルコという、未知の世界を前に、二人の先生から見放された(に等しい)。打ちのめされて、とぼとぼと美術史専修室に行き、そこにいた誰か(たしか野澤美紀ちゃんだったか)に、経緯を話し、慰めてもらっていた。

そこへやってきたのは、日本美術史の星山晋也先生だった。室町時代の水墨画などがご専門の星山先生は、無口だが、たまに学生たちの溜まり場にやってきて、にこにこ話を聞いてくれることがある。
 
わたしの身に起こった悲劇を訴えると、星山先生は黙って、専修室の書棚の前に立った(と言っても、専修室は四方の壁すべてが書棚だが)。『Encycloperia of World Art』(世界美術百科事典)という、30巻だか40巻だかある厳めしい本を示した(今回調べてみて、実際には全部で17巻だと判明した。記憶の中で巻数が増幅されたとは恐ろしいものである)。

英語の本なぞ、手に取ってみたこともなかった。分厚いハードカバーで、青い背表紙に金で押し箔がある。それがずらりと並んでいる。実にいかめしく、それが美術史専修室の格調高い雰囲気を醸し出しているように思っていたが、実際に使うものだとはまったく発想がなかった。

星山先生は、その中の、一冊を取り出した。そして、 黙ってコピーをとりだした。

何が起こったのだろう?

ガー、ピー、ガー、ピー
コピー機の音のなかで、星山先生は言った。

「まず、これを読みなさい」。

先生が見せてくれたのは、Turkeyという項目だった(それだけで、たしか20ページくらいあったと思う)。

ガー、ピー、ガー、ピー
「はい」。

ガー、ピー、ガー、ピー
わたしに背を向けたまま、星山先生は言った。

「専門家に、なるか」。

人生に、そういう方向がありうるのか。暗闇に道が拓けた、瞬間だった。

文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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