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言葉が萌え出す場所 稲泉 連(ノンフィクション作家)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2022年4月号「そして旅へ」より)

 詩人の長田おさだ弘さんの『記憶のつくり方』という本に、〈記憶の庭〉という言葉が出てくる。昔、僕はこの言葉を母から教えられ、本を買い求めて読んでみた。すると、そこにはこんな文章があった。

〈記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う〉

 過ぎ去らなかったもの、自らの裡に留まったもの。そんな土壌としての記憶――。人には誰にも長く耕してきた〈記憶の庭〉があるのだと言葉にしてみれば、確かにそういう気がしてくる。

 では、自分にとっての〈記憶の庭〉とは何だろうか。間違いなくあの記憶だ、と言えるものが僕にはひとつだけある。それは小学校に入る前に、「キグレサーカス」という今はもうないサーカス団で暮らした体験だ。

 37年前、僕が5歳になろうとする頃、2年前に父と別れた母は、子供を育てながら働ける場所を探していた。そんななか知人の伝手つてで巡り合ったのが、「サーカスで働く」という道だった。当時のサーカスは大天幕だいてんまくの裏手の〝テント村〟で、芸人やスタッフの家族が共同生活を営んでいた。母はその炊事係として働き始めたのである。

 以来、東京でアパートと保育園を往復するだけだった僕の生活は一変した。サーカスでは誰もが何らかの「仕事」を持たなければ生きていけないが、未就学の子供たちは唯一自由な存在だった。最初は恐る恐る様子を窺っていた僕も、いずれ同い年の友達ができ、「サーカスの子」としてテント村を走り回るようになった。

 あれは夢のような日々だった、と今でも思う。僕らは朝からリンゴを持って象の小屋に行き、鉄パイプのジャングルを駆け回った。気が向けば大天幕の裾をめくり、芸人たちのショーを観ることもできた。それが子供たちの「日常」であった。

 サーカスはひとつの大きな「家族」だった。裏方をしている男たちも、化粧をして舞台に立つ女たちも、誰もが子供たちを見守り、ときには我が子のように叱った。

 そして、彼らは旅という「非日常」を日常として送る人々でもあった。日本全国を巡業するサーカスでは、2カ月に1度のペースで「場越ばこし」と呼ばれる引っ越しをする。だから、ある日、唐突に街の空き地に現れた大天幕は、公演が終われば忽然こつぜんと消える。全ての荷物や動物たちがトラックに載せられ、がらんとした空き地に戻ったテント村の跡には、何とも言えない寂寥せきりょうとした気持ちを呼び起こすものがあった。

 僕がキグレサーカスで暮らしたのは、小学校に入る前のほんの1年足らずのことだ。当時の記憶は夢とうつつとが交ざりあったような、いくつかの断片に過ぎない。だけど、その断片の土壌で育ったものは自分と〝共に生きる過去〟になった。そして、今は「ものを書くこと」を生業なりわいにする僕にとって、そこは言葉が萌え出す場所であり続けている気がするのだ。

文=稲泉 連 イラストレーション=林田秀一

稲泉 連(いないずみ・れん)
作家。1979(昭和54)年、東京都生まれ。2005(平成17)年『ぼくもいくさに征くのだけれど一竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『「本をつくる」という仕事』(ちくま文庫)など著書多数。

出典:ひととき2022年4月号

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