【新連載】新千円札の図案にもなった「富嶽三十六景」で北斎が描きたかったもの|今につながる浮世絵の魅力
身近な北斎、幻想の北斎
浮世絵は、江戸時代前期に創始された絵画ジャンルのひとつです。今では美術館で鑑賞するものというイメージが強いかもしれせん。しかし浮世絵、とりわけ量産可能な浮世絵版画は、出版ビジネスが盛り上がりつつあった当時、その新商品として登場したものだったのです。
主な購買層は商人や職人をはじめとした町民。女性も含まれます。そこで彼らがうんと楽しめるよう、絵師や版元(今の出版社にあたる)など、作り手が大事なテーマとしてとらえたのが、当時の「今、人気のあるもの」。それらは、人気のインフルエンサー(歌舞伎役者や遊女、町娘)、話題のスポット(季節ごとの名所や歴史ある社寺)、流行りのファッション、評判のグルメ……、などなど。
これらを楽しいと感じた江戸っ子の感覚には、現代人も親近感を覚えるのではないでしょうか。本シリーズでは、21世紀を生きる私たちも思わず共感してしまう、そんな浮世絵の魅力をご紹介できればと思います。
第1回は葛飾北斎の「冨嶽三十六景」。最も有名な日本人絵師による屈指の名作から2点を取り上げます。
「冨嶽三十六景」シリーズといえば、新千円札やパスポートにもデザインされるなど、近年ますます注目を集めています。刊行当時も人気で、「三十六景」と冠しながら最終的には46図も制作されているのです。ただし、一度に全て刊行されたわけではなかったようで、文政13年(1830)頃から天保5年頃(1834)頃にかけて、断続的に刊行されたと推測されています。
刊行開始時、北斎はすでに60代後半。当時の平均寿命を考えると、老いてなお旺盛な制作意欲には驚かされるばかりです。
気象現象を描いた「冨嶽三十六景 山下白雨」
「冨嶽三十六景」シリーズの舞台は、東京都はもとより神奈川県、静岡県、愛知県、山梨県、長野県、千葉県、茨城県に及びます。ただし、今も具体的な場所がわからない作品も複数含まれています。
シリーズ中でも高い人気を誇る「山下白雨」(図2)もそのひとつ。
中腹よりやや上の背景にはもくもくとした雲が連なり、さらに山頂近くは晴れわたっています。一方で山裾では閃光が暗闇を切り裂いていて、雷雨であることが示されます。「白雨」とはにわか雨のこと。あまりに雄大であるため、その上と下で天気が異なってしまう富士山の姿を、余分なモチーフを極力排した構図で、シンプルに、大胆に描き出したのが「山下白雨」なのです。
こうした富士山の姿は、ゼロから北斎が生み出したわけではありませんでした。先行する東海道沿いの地域のガイドブック(地理や歴史、伝説や名所、名産品を記した書物)『東海道名所図会』巻之五「吉原駅より描いた図」(図3)などとの類似が指摘されていて*、北斎はこうした作例を参照した可能性がとても高いのです。
ところで、富士とその周辺の天候が織りなす幻想的な姿は、実際に目にしたことがあるという人も多いのではないでしょうか。SNSでもそうした投稿が人気を集めることがしばしばあります。筆者も、旅行や移動中に目にした富士山と周囲の空模様が生み出す光景に何度も目を奪われました。
飛行機からの眺めはさておき、高い建物もなく空気も澄んでいたと思われる江戸時代には、今よりもはるかに多くの場所から富士山を見ることができたことでしょう。そして富士山をとりまく多様な気象現象も、多くの人々が目撃したはずです。
余談ですが、30代になるまで西日本に住んでいた筆者にとって富士山は、さほど身近なものではありませんでした。しかし関東に住むようになり、いたるところで富士山が見え、またあらゆる場所がかつては富士見の名所だったと知り、「なるほど、これは富士山がたくさん絵に描かれるよな」と妙に納得したものです。
話を戻しましょう。
江戸っ子たちも、江戸市中からは難しかったかもしれませんが、東海道を歩いた際に(皆が旅に出られたわけでなないですが)その表情豊かな姿を見たことでしょう。
ところが富士山の気象も含めた表情豊かな姿が造形化されるようになったのは、18世紀半ば以降でした。
富士山は古来、霊峰として崇拝されてきました。吉祥モチーフでもありましたから、造形化にあたっては雪を頂く端正で堂々とした姿とされることが長らく行われてきたのです。これが江戸時代に入ると、実際に見たままの景色を描く作品も徐々に生み出されるようになります。
ちなみに北斎が「冨嶽三十六景」を描くにあたり、参照したことが確実視される河村明雪『百富士』には、富士山の周囲の空模様も表すものが1点(図4)あります。1点だけですので、『百富士』のなかでは一般的な表現ではなかったといえます。では北斎がどういった作品から気象を取り込む発想を得たのか、それは実はよくわかっていないのです。
また江戸市中からは遠く霞む富士山を望みますので、夏の富士山が天気とともにビビッドな色合いで表されたこと自体も新鮮であったと思われます。
さて「山下白雨」と同様、夏の富士山と空模様を大きくとらえるのが「凱風快晴」(図6)。この2図は落款の書体が似ることから同時期の刊行と考えられています。さらに両者の構図はとても似ています。つまり発売当時、江戸っ子たちは似た構図ながら、天気の異なる富士山の絵を店頭で見比べ、気に入った方を買っていったと想像されるのです。
はるか遠くから眺めるだけだった富士山の、実際の夏の姿、また変わり続ける周囲の気候。これらは伝統的な富士山の絵とは異なるもので、江戸っ子たちにとっては意表をつく表現であったと思われます。しかし一方で、絵の中で表情を変える富士山は、あるがままの富士山を描いているとも言えるでしょう。奇抜でありながらも、実感をもって眺めることができる富士山の絵。それが、江戸っ子にとっての「山下白雨」や「凱風快晴」であったかもしれません。
農村地帯だった東京・渋谷の今昔
「冨嶽三十六景 穏田の水車」
「山下白雨」や「凱風快晴」とは対象的に、シリーズ中には現在の都心部に具体的な場所が推定できる図も多数含まれます。そうした作品からまずは、太田記念美術館からも程近い場所を描く「穏田水車」(図6)を見てみましょう。富士山の全貌をとらえるかのようなスケールの大きい「山下白雨」や「凱風快晴」とは対象的に、庶民の暮らしを主たるモチーフとして描いた1点です。
見どころのひとつは、なみなみと水を湛えた水車と、これから溢れ流れ出す水の動き。この水車と水の動きが、遠景の泰然たる富士山との好対照をなしています。また水車の周りには洗い物をする女性や重い荷を持った男性たち、そして亀を連れた少年(図7)などが描かれています。穏田は富士見の名所とは伝えられていませんが、この地で暮らす人々が丁寧に描写されることで、鑑賞者はあたかも実際にこうした光景が広がるかのような印象を受ける作品となっているのです。
のどかな田園風景が広がる穏田は、明治神宮前にありました。今や若者や世界各地から観光客が訪れるこの地は、幕末の「東都青山絵図」(図8)に見るように江戸時代は農村地帯でした。中央を流れる渋谷川(隠田川)には米を撞つく水車が設けられており、北斎はその水車のひとつを題材としたのです。
やや時代は下りますが『絵本江戸土産』9編(元治元年[1864]序)に「青山穏田」(図9)が取り上げられています。同書は歌川広重の晩年の作で、嘉永3~慶応3年(1850~67)の刊行。途中で広重は没していて、8編から10編までを二代歌川広重が描いています。
月あかりに照らされた農村地帯が趣ある様子で描かれ、丘陵の手前には川が流れています。画面左端には水車らしきものも見えるので、当時も水車の存在が知られていたのでしょう。
詞書は、春に出かけてこの地の広やかな光景を目にすれば、鬱々とした気持ちも吹き飛ぶと称えています。農地に川が流れ、水車や家屋が点在するこの地には、江戸の中心地にない鄙びた魅力があったようです。
裏原宿、キャットストリートに残る江戸の面影
なお渋谷川は暗渠化工事を経て、現在は旧渋谷川遊歩道、すなわちキャットストリート、あるいは裏原宿と称される一帯へと変貌を遂げています。随所に架けられた橋も失われているのですが、通りには昭和 30 年(1955)に架け替えられた際の「穏田橋」の橋名板が残されています。目を凝らせば、わずかに川があった頃の名残を見出すことができるのです。
しかしもう少し、かつてのこの地の空気を感じさせてくれる場所を求めて訪れたのが穏田神社。
キャットストリートの南東に位置し、通りの2筋ほど裏から境内横に出る階段を昇ることができます。
その創建は江戸時代初期と伝えられ、永らくこの地の鎮守として信仰を集めてきました。「東都青山絵図」では「第六天」と記されるのがこれで、当時、同社が第六天神を祀っていたことによります。やや高台に位置し、筆者が訪れた秋晴れの日には境内に爽やかな風が吹き渡っていました。「穏田の水車」で水車がやや小高い位置にあったことも想起され、絵の中に登場する人々も、こうした風を頬にうけながら仕事に勤しんでいたのかもしれない、そう思わせてくれます。
太田記念美術館で浮世絵を見て、穏田川の川筋をしのびつつキャット・ストリートを歩き、穏田神社に参拝する。そんなお出かけルートも楽しいかもしれません。
北斎「穏田の神社」が描いたように、ここから富士山がこれほど見事に見えたのかはわかりません。また北斎の興味は、富士山と水車というモチーフの組み合わせの面白さの方に強く向けられていたかもしれません。
しかし北斎は、人々の何気ない日常や、天候という全ての人が影響を受ける普遍的な事象、これらを織り込むことで、絵画ならではの造形を楽しみ、新しい表現を追求しつつも、見る人が親しみを覚えるような「富士山の絵」を目指したように感じられます。
だからこそ「冨嶽三十六景」は、現代人にとってもその造形が魅力的であると同時に、鑑賞者それぞれの体験も重ねられる、稀有な浮世絵となっているのかもしれません。
文・写真=赤木美智
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