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イスタンブル便り

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25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わ… もっと読む
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#イスタンブル

ボスフォラス海峡とナイル河: オスマン帝国的カイロ案内|イスタンブル便り

ナイル河のほとりで、この原稿を書いている。 日本のさる研究機関の研究プロジェクトによる調査出張である。数えてみれば、10年ぶりのカイロだ。初めて訪れたのは、20年以上前の学生の頃、一人だった。それから何度か訪れている。 カイロは大好きな街だ。「ああ、ここからアフリカが始まるのか」というのが、第一印象だった。その印象は、今も変わらない。空港に降り立った途端、細かいことにこだわらないおおらかさを感じる。建物のスケールも、トルコとは違って大きい(19世紀にイタリア人建築家が多く

静かに進化するトルコの食文化(2)イスタンブルのリトル・シリア|イスタンブル便り

「先生、僕の彼女、フーディー(食べることが大好きな人。グルメとは違う日常的な食に関心が高い人のこと)なんです」。 授業の合間にそう言って、<すごく美味しいシリア料理>を勧められた。さる私立大学で助教を務めながらインダストリアル・デザインの博士課程に通うバライダは、流行に敏感で、レストランに詳しい。ある日、体調を壊したと言って授業を急に休んだので心配していたら、翌週出てきてこう言った。 「先週僕の誕生日だったんですけど、新しくできたタイ料理のレストランで、生まれて初めてタイ

静かに進化するトルコの食文化(1)|イスタンブル便り

「ねえ先生、うちのおじいちゃん、あのベトナム料理の、生春巻きにはまっちゃって、『ほら、お前がこの間作ったあのサルマ(葡萄の葉でお米を巻いたトルコ料理)が食べたい』なんていうんですよ。」 講義の休憩時間にそんな話をしてくれたのは、大学院修士課程で私が論文指導をしていた学生、ブシュラーだった。コロナがようやく下火になって、マスクをしながらだが対面授業になってすぐの頃だったから、2年くらい前だろうか。 それを聞いて、隔世の感に捕らわれたのを、よく覚えている。ブシュラーはトルコ南

トプカプ宮殿宝物秘話:トルコ共和国建国100周年に寄せて|イスタンブル便り

今年2023年10月29日、まもなくトルコ共和国は建国100周年を迎える。100年前のこの日、アンカラのトルコ大国民議会は「共和国」の成立を宣言した。それとともに、法律を制定し、これを建国の日と定めた。 晴れがましいこの日は、600年以上続いたオスマン帝国に最後のとどめが刺された日でもある。トプカプ宮殿と、そこに安置された宝物は、その交代劇で人知れぬ、しかし大きな役割を演じた。あまり言及されることがないので、そのことを、この機会に書いておこうと思う。 * * * 「来週

魅惑のオスマン美術史入門(5)・最終回|イスタンブル便り

初めて訪れたポーランドのワルシャワで、この原稿を書いている。 四年に一度開催されるトルコ美術国際学会の第17回目が、ここワルシャワ大学で開催中なのだ。ちょうど初日の昨日、わたしは自分の発表を終えた。今回は初めて、トルコ美術史の文脈で伊東忠太の話をした。数年来調査していた、東京大学所蔵の伊東忠太資料の全貌を、初披露したのである。世界じゅうから専門家が集まる場で、忠太の話が関心を集め、さまざまな方から質問やコメントをいただき、嬉しい気持ちでいる。 わたし自身は今年で参加は七度

ヨルダン砂漠の遠足と美術史家という病|魅惑のオスマン美術史入門(4)|イスタンブル便り

日本の文部省(当時)から受けた奨学金の期間は二年。しかしわたしには、留学する前から密かに抱いた野望があった。 トルコ語で博士論文を書く。 トルコで博士号を取得する、というよりも、美術や建築作品を生み出した言語、それを愛でた人々が話し、考えていた言語で、作品を理解したい。そういう切実な願いを持っていた。 たとえば日本美術の専門家がいたとする。その人が日本語を少しも理解しなかったとしたら、日本人のわたしたちは、どう受け止めるだろうか? ああ、日本美術が好きなのね、と思いこそ

イスタンブルの水不足|魅惑のオスマン美術史入門(3)|イスタンブル便り

怯んだのも一瞬、わたしはここぞとばかりに訴えた。 日本で手に入る文献には限りがある。母校の図書館や専門図書館の東洋文庫、中近東文化センター、さらには専門家の先生がたから個人的に本を借りたりもしている。それでも足りない。 それに、オスマン帝国の建築文化というものを、現地に行って深く理解したい。必死だった。 その時、審査室全体の雰囲気が変わったのを覚えている。数人の審査員の先生が、深く頷いてくれたのだ。 そして数週間後、わたしは合格の通知を手にしたのである。 * * *

トルコにバロック建築がある!?|魅惑のオスマン美術史入門(2)|イスタンブル便り

トルコのことを研究する。 星山晋也先生に背中を押されて、人生にそういう方向があるということを示された。だが、右も左もわからない。大学四年生になった、春のことだった。 先生がコピーしてくれた英語の世界美術百科事典 『Encyclopedia of World Art』の項目、Turkeyは、当然ながら英語で書かれていた。トルコのことを勉強しようとすると、文献は英語なのか。その事実に愕然としていた。 外国のことを学ぶのだもの、当然だ。しかしそれを知っているのと、実際にやる、

ドルマバフチェ宮殿の衝撃|魅惑のオスマン美術史入門(1)|イスタンブル便り

門はどこにあるのか? わからない。それがわたしのオスマン美術史入門だった。 先月、わたしがトルコ語を習い始めた頃のことを書いた。前後の経緯は省いたのだが、そこを知りたい、というご希望を後からいただいた。そこで今回は、なぜこの 豪華絢爛な迷路に迷い込んだのか、という話をしようと思う。 はじめは美術史だった。世の中には、「美術史」という学問があるらしい。そのことを知ったのは、大学で文学部に入り、専門に分かれる前だ。一年生の教養課程で、「美術史教養演習」という講座があった。美術

東京のなかのイスタンブル(後編)ユヌス・エムレ インスティテュート東京と、トルコ語初学のころ|イスタンブル便り

ユヌス・エムレと聞いて、何のことかすぐにわかる人は、稀だろう。 トルコは最初からそういうハンデを負っている。 では、ゲーテなら? このエッセイをお読みの本好きの方なら、ご存知のはずだ。ならば、ゲーテ・インスティトゥートといえば何のことか、だいたい予想はおつきでしょう。19世紀ドイツの詩人・文学者、ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)の名を冠した、ドイツの文化センターのことだ。ドイツ連邦政府の機関で、世界各国に設置され、ドイツ語の普及やドイツ文化全般

【緊急寄稿】地震後のトルコから|イスタンブル便り

その時、わたしは東京からイスタンブルへ帰る飛行機の中にいた。 あとから計算してみると、ちょうどトルコ上空に差し掛かった頃ではないかと思う。朝6時25分に着陸して、パオロ騎士の迎えの車に乗り込み、自宅に着いて荷物を運び込んでいた時、電話が鳴った。 友人の風刺漫画家、ベヒッチだった。すぐにニュース検索すると、トルコ南東部のカフラマンマラシュ付近が震源、マグニチュード7.8の巨大地震とわかった。だが、当然ながら被害状況はすぐにはわからない。朝9時半ごろの時点で報道されていた死者

【東京ジャーミイ】東京のなかのイスタンブル(前編)|イスタンブル便り

年明けから約1ヶ月の予定で、東京にいる。 母校の早稲田大学より招かれて、三回のセミナーを行うのが主な目的だ。研究室も宿舎も提供されて、学生時代を過ごした早稲田界隈で生活する。タイムマシンに乗って舞い戻ってきたような、不思議な感じである。 そこで今回は、東京のなかのイスタンブル、と洒落込んで、イスタンブルからきたわたしが見た東京を、描いてみたいと思う。行き先は代々木上原、東京ジャーミイである。 東京ジャーミイは前になんどか訪れたことがある。 それで、特に事前チェックをしていな

アンカラ建築見学旅行|イスタンブル便り

「先生、みんなで一緒にアンカラに行きましょうよ。わたしに任せてください。書類全部用意しますから、先生はサインしてくださるだけでいいです」  イスタンブル工科大学で教えている近現代建築史の講座のアシスタント、キュブラがそんなことを言い出したのは、3月の半ばだったか、終わり頃だったか。コロナがそろそろ下火になった今学期、イスタンブル市内で初めて計画した見学会の帰り道だった。街で実際に三次元の建築を訪問し、見る喜びを、学生と共有した火照りがあった。 「えっ? そんなことができる