ボスフォラス海峡とナイル河: オスマン帝国的カイロ案内|イスタンブル便り
ナイル河のほとりで、この原稿を書いている。
日本のさる研究機関の研究プロジェクトによる調査出張である。数えてみれば、10年ぶりのカイロだ。初めて訪れたのは、20年以上前の学生の頃、一人だった。それから何度か訪れている。
カイロは大好きな街だ。「ああ、ここからアフリカが始まるのか」というのが、第一印象だった。その印象は、今も変わらない。空港に降り立った途端、細かいことにこだわらないおおらかさを感じる。建物のスケールも、トルコとは違って大きい(19世紀にイタリア人建築家が多く活躍したためだが、この話は、またいつか)。人種的にも多種多様、服装階層さまざまな人々が、思い思いに行き交う様は、壮観だ。車線などはまるで無視した渋滞、砂漠からの砂でどこもかしこもざらざら、排気ガス。
一見カオスに見えるのだが、独自の論理がある。隙間なく詰める渋滞の車は、象嵌細工のピースをはめて行く作業のようだ。絶えず鳴り響くクラクションは、「俺が行くから、注意しろ」という合図である。歩く人も、辺り構わず行き交っているように見えるが、ぶつかることは稀である。道に迷ったら、グーグルではなく、人に聞けばいい。アラビア語で書かれた行き先が読めなくても、 バスに乗せてくれる。そして、大通りを一つ入ると、裏通りには人々が憩うのどかな茶店がある。
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カイロの街の読み方は、それほど難しくはない。南北を走るナイル河は、イスタンブルにとってのボスフォラス海峡と同じ。方角を把握するためのおおきな目印だ。 ただし、ナイルの方がボスフォラス海峡より幅が狭く、川洲にいくつか島がある。シックな地区と庭園のあるゲジラ島とムハンマド・アリ王子の宮殿のあるローダ島。島と陸地をつなぐ橋は通行無料。1日に何度も島と陸地を往復することになる。河は、南の水源アスワン(スーダン)から北の地中海へと流れている。
ゲジラ島の東側には街の中心、タフリール広場がある。有名なツタンカーメン王のミイラを所蔵するエジプト考古学博物館は、これに面している。そのさらに東奥が、イスラミック・カイロ、あるいはオールド・カイロと呼ばれる旧市街だ。
一方で、ローダ島の西対岸には、カイロ大学や有名なギザのピラミットが控えている(今回、ピラミッドには行っていないが)。ローダ島の北東対岸に、20世紀初頭に開発された近代都市地区ガーデン・シティ(田園都市)、その南に、古代キリスト教コプト教の教会のある地区、古代中世のイスラーム王朝の首都フスタート(現在は遺跡で、カイロ市の一地区)が位置する。
カイロの公式人口は2100万人、アラブ圏最大の都市である。1600万人のイスタンブルに比べても大きい。そんなカイロは、歴史的に南に広がって来た。フスタートの南のマアディには、2000年代になってから各国大使館の多くが移転した(日本大使館も、マアディにある)。カイロアメリカン大学の新キャンパスも、マアディ南の「ニューカイロ」にオープンした。
だがカイロは、さらに広がり続けている。現在のカイロ市の約35キロ東に、2000年に着工した「新行政首都」の開発が進行中なのだ。完成の暁には、人口6500万人が見込まれているというから、なんとも桁違いの話である。
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イスタンブルからたった1時間45分のフライト、ほぼ国内便の感覚である。それもそのはず、かつては同じ「国内」だった。もちろん、オスマン帝国のことである。そこで今月は、オスマン帝国的文脈から見たカイロの建築、カイロに唯一存在する、オスマン古典様式のモスクの話を書いてみたい。
この「イスタンブル便り」の連載ヘッダー写真をご覧いただきたい。イスタンブルの旧市街、夕日を背景にしたスレイマーニエ・ジャーミイである。丸いドームに鉛筆のように尖った細いミナーレ(光塔)のシルエットは、16世紀、オスマン帝国黄金期の宮廷建築家、ミーマール・シナンが確立したスタイルだ。これがいわゆる「オスマン古典様式」である。
シナンが確立したのは、アヤソフィアに霊感を受けた古典建築の、形式だけではない。そのロケーション選びに、シナンは奇想天外なアイデアを発揮した。丘の上に、最大のモスクを乗せたのである。 そうすることで、街に建築のシルエットを与えた。都市の景観が、一変した。
この発想が、シナンの天才的なところだ。ビザンチン帝国の首都、コンスタンチノープルから、イスラーム帝国たるオスマンの帝都イスタンブルへ、アイデンティティがこうして刻まれる。変貌は、高らかな勝利宣言でもあっただろう。
話をカイロに戻そう。
カイロ旧市街の東の端の高台に、あたかも市街を睥睨するかのように君臨するモスクがある。ドームは半球体というより少し縦長だが(このプロポーションは、20世紀の再建による)、大ドームを周りの半ドームが支える形。そう、オスマン建築を見慣れた眼には、おなじみのシルエットだ。
このモスクが位置する高台は、12世紀にアイユーブ朝の創始者サラディン(サラーフッディーン 1137/1138-1193)が築いた要塞で、現在ユネスコ世界遺産となっている。
そこにオスマン古典様式の大規模モスク。しかし竣工は19世紀、1848年である。つまり、いわゆる「オスマン・リヴァイヴァル(復古)様式」なのだ。なぜ19世紀のエジプトで、オスマン古典様式のリヴァイヴァルなのか?
そこに、オスマン帝国とエジプトのあいだの愛憎入り混じる、切ってもきれない因縁がある。キーパーソンは、ムハンマド・アリ(トルコ語ではメフメット・アリ、1769-1849、位1805-1849)である。
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オスマン帝国がエジプトを領有したのは、1517年、セリム一世(位1512-1520)の時代である。以来カイロは、オスマン帝国の一都市となった。ただ、アジア、アフリカ、地中海ヨーロッパの交わる要衝の役割は変わらない。支配者としてのオスマン帝国は、地元の有力家系やマムルーク(チェルケズ、クルド、アルメニア、スラブなど出自の奴隷身分出身の軍人)と均衡を保ちながら、税金を徴収するに留まった。
バルカン半島やアナトリアの津々浦々にはシナンの建築が多数あるのに、このイスラーム建築百科事典のような街にはひとつも無いのは、そういうわけだ。シナン作の大規模ジャーミ建築とは、オスマン帝国の中央集権の浸透の、バロメーターというわけだ。
そこに変化が訪れたのは、1798年から1801年の、いわゆるナポレオンのエジプト侵攻(フランス側から言えば、「エジプト遠征」)である。オスマン帝国とエジプトの関係は、19世紀、西洋列強との力の均衡とのあいだで、揺れに揺れた。
ナポレオン撤退以後の熾烈な権力争いで頭角を現したのが、われらが主人公、ムハンマド・アリである。地元の信望を集め、宗主国オスマン帝国も、彼の存在を無視できなくなる。そして、ヴァーリー(知事)の地位を与えた。
この時期の世界史は、ムハンマド・アリのエジプトとマフムート二世(位1808-1939)のオスマン帝国、英仏の拮抗が組み合わさった四つ巴である。一方のバランスが大きくなると、他方がそれを阻止する。飛ぶ鳥を落とす勢いでシリアを領有し、キュタフヤ(現トルコ)を占領するまでに迫ったムハンマド・アリを止めたのは、英仏だった。ムハンマド・アリのエジプトは、オスマン帝国の力を抑える意味では英仏にとって有用だったが、力を持ちすぎると介入してきた。オスマン帝国は、逆に救われたことになる。
ムハンマド・アリが、カイロの旧市街を見下ろすモスクに着工したのは、ちょうどその頃である。形式上はオスマン帝国知事だが事実上独立国家として振る舞っていたムハンマド・アリ王朝に、列強は圧力をかけて不平等条約を迫った。
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「ハディ、ブラヤ バカールムスン?」
(ねえ、ちょっとちょっと、こっち向いて?)
「ヤワシュ ヤワシュ ギデリンミ?」
(そろそろ行きましょうか?)
10年ぶりに再訪したムハンマド・アリ・モスクの階段を登り切ったところで、いきなりトルコ語が耳に飛び込んできた。団体旅行である。
「どこからいらしたんですか?」
ツアーコンダクターと思しき男性に、トルコ語で話しかけてみた。
「いろいろですよ、イスタンブルからも、イズミルからも、コンヤからも。あなたは?」
「わたしもイスタンブルから……、あ、日本人ですけど(笑)」
このモスクは、高台から全カイロ市街を見渡せるので人気の観光スポットだ。だがトルコからの旅行者にとっては、それ以上の意味をもつ。
ムハンマド・アリには、いろいろなアイデンティティがある。現在のエジプトの人にとっては、近代国家としてのエジプトの礎を築いた人物である。トルコの人は、ムハンマド・アリのことを「カヴァラル・メフメット・アリ」と呼ぶ。「カヴァラル」とは、現ギリシャの街、「カヴァラの人」という意味だ。しかしそれ以上に、「カヴァラ出身の(オスマン帝国スルタンの臣下)」という言外の意味合いがある。「ムハンマド」を、トルコ式に「メフメット」、と呼ぶのに、イスタンブル中心主義的なニュアンスを感じるのは、わたしだけではないはずだ。
ちなみに、こちらにきてから知り合ったエジプト人のある歴史の専門家はこう言った。「ムハンマド・アリは、<カヴァラル>と言われていますけど、アルバニア人なんですよ。生まれがカヴァラなだけです」
ムハンマド・アリの出自ひとつとっても、エジプトという国の多様性が浮き彫りになる話である。
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階段を登った台地の上に建設する方法は、イスタンブル旧市街にあるラーレリ(「チューリップの」)・ジャーミイ(1764竣工)を彷彿とさせる。18世紀のチューリップ時代より少し後の、バロックの色濃い影響の見られるモスクである。
ムハンマド・アリ・モスクにも、イスタンブルのオスマン・バロックの要素がそこここに見える。それもそのはず、建築家は、イスタンブルからリクルートした「ボシュナル(「ボスニアの人」)・ユスフ(生没年不明)である。
チューリップのような柱頭、フルーティング(筋)のある付け柱を眺めていて、あることに気づきギョッとした。この巨大なモスク、外壁がすべて、アラバスター大理石で覆われている。白い表面に、ところどころ茶色に見えるのは、遠くから、砂の汚れだと思っていたらとんでもなかった。アラバスターの石の目だった。
アラバスターとは、ナイル河上流のアスワンでだけ採れる大理石だ。透光性があるため、古代・中世のイタリアなどでは珍重され、窓硝子の代わりに使われていた。その貴重な大理石で、巨大なモスクすべてを作るとは。
中に入って、さらに驚いた。中もすべて、アラバスター製である。
ドルマバフチェ宮殿の、スルタンのハマムを思い出した。すべてエジプト産のアラバスター大理石で造られた浴室である。そうか。
オスマン帝国近代化の象徴としてイスタンブルのボスフォラス海峡沿いにドルマバフチェ宮殿を造らせたのは、スルタン・アブドゥルメジット(位1839-1861)。キュタフヤまで侵攻してきたエジプトの臣下「カヴァラル」を許し、「ヒディヴ(エジプト総督)」の称号を与えた人物である。あの宮殿の、総アラバスター大理石のハマムは、「カヴァラル」からの和解の贈り物だったのだ。
「 ハマムのひとつくらい、なんだ。俺にはいくらでもある。このモスクを作れるくらい、な」
これはわたしの想像である。総アラバスター大理石造りのムハンマド・アリのモスクは、キュタフヤ以北への侵攻を英仏に阻まれた「カヴァラル」の、せめてもの意地の見せどころだったのではないか。 オスマン帝国スルタンよりも力があるのは、玉座に座るべきなのは、自分だ、と。
ボスフォラス海峡とナイル河。ムハンマド・アリ王家には、オスマン王家とのあいだに数々の婚姻関係、密な親戚づきあいがある。その創始者は、カイロを見下ろすモスクの建築にオスマン古典様式を選んだ。その結果、ナイルのほとりに、イスタンブルのシルエットが創出された。
反抗と、憧憬と。ムハンマド・アリにとってイスタンブルは、酸っぱい葡萄だったのだろうか。ほんのひととき、そんなことを思った。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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