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静かに進化するトルコの食文化(2)イスタンブルのリトル・シリア|イスタンブル便り

この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、イスタンブルの旧市街で楽しむシリア人街の食文化についてです。

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「先生、僕の彼女、フーディー(食べることが大好きな人。グルメとは違う日常的な食に関心が高い人のこと)なんです」。

授業の合間にそう言って、<すごく美味しいシリア料理>を勧められた。さる私立大学で助教を務めながらインダストリアル・デザインの博士課程に通うバライダは、流行に敏感で、レストランに詳しい。ある日、体調を壊したと言って授業を急に休んだので心配していたら、翌週出てきてこう言った。

「先週僕の誕生日だったんですけど、新しくできたタイ料理のレストランで、生まれて初めてタイ料理を食べたんです。そしたら美味しくて食べ過ぎて、お腹を壊しました」。

香辛料に当たったらしい。

その彼が、「フーディーの彼女のスペイン人のお母さん」お勧めという、シリア料理レストランの話をしてくれた。「ありがとう、週末の食べ歩きの行き先リストに入れておくわね」。

ある週末、「いつもの」ラグ麺を食べようと思って、パオロ騎士と旧市街のアクサライ地区に出かけた。駐車中のパオロ騎士を待つ間、ふとほんのひととき、街並みを眺めた。

窓際に吊るされた大きな肉、「ファラフェル」と書かれた文字。

ずらりと並ぶ肉に、ちょっとぎょっとする。
ファラフェル、と、トルコ語とアラビア語の両方で書かれたレストランの店先。

写真を撮っていると、コックさんが呼びかけてきた。ファラフェルを差し出して味見してみろという。

ファラフェルを差し出してくれたコックさん。人懐こい笑顔。

サクッとした歯ごたえ。揚げたてだ。すりつぶしたひよこ豆にスパイスを混ぜ、成形して油で揚げた軽食、「ファラフェル」は、ここ10年ほどの間にトルコでポピュラーになった。聞けば、コックさんはアレッポ出身。故郷の味を、トルコの地で作り続けている、というわけだ。

お礼を言って歩くと、小さな店が目に入ってきた。道路の高さから階段を少し降りた半地下にある、雑貨店。モスル(イラクの地方)料理の店の下階、シリアの店だ。食品から調理器具、日用品、薔薇の香油やアレッポ石鹸まで、なんでも揃っている。

大通りから階段を下った半地下にあるシリア食材雑貨店。

瓶詰めの漬物やチーズ、アラビア文字が書かれた商品のパッケージのデザインが物珍しくて、思わず吸い寄せられた。しげしげと眺めていると、話しかけられた。

店内には、食材が整然と並ぶ。シリアのものもあれば、ヨーロッパからの輸入品や、トルコのものも置かれている。
天井下に設けられた棚には、木工の手工芸品や伝統的コーヒー器具が。
荒く編まれた麻の袋に入ったお米、アラビア語表記やこのグラフィックが目新しい。

店主の男性は、30代半ば。11年前に、トルコへ移住してきたという。流暢なトルコ語を話す。レジに立っていた若者は、トルコ語学習中といったていで、尋ねると数ヶ月前にイスタンブルに出てきたばかりだという。

「店内の写真を撮らせていただいてもいいですか?」

恐る恐る、尋ねてみた。「いいですよ、この店は隅々まですべて、合法的です」。胸を張って答えてくれた姿が、印象的だった。

「出身はどこ?」
「アレッポ」。
「この辺りは、アレッポ出身の人が多いんですか?」
「いや、そんなことはないよ、ダマスカス出身の人もいるし、シリアだけじゃない。イラク、クウェート、サウジアラビア、ほんとにいろんな人がいるね」。

しかし総合すると、「アラビア語話者」ということだろう。

雑貨店を出たところで、気が変わった。今日はラグ麺じゃなくて、シリア料理を食べてみたい。ふと、バライダが言っていたお店が頭に浮かんだ。地図を見てみると、歩いて15分ほど。たまには新しいところに行ってみるのも、面白いかも? いつもの表通りから、わたしたちは裏通りの奥深くに入り込んで行った。

* * *

グランドバザールを至近距離に控え、現在移民の多い賑やかな商業地区として知られるアクサライ。歴史的には、宮廷人や上流人士などの富裕層が住み、流行の最先端が真っ先に入ってくる瀟洒な場所だった。19世紀半ばに起きた火事が、有機的に入り組んだ伝統的な街並みを変えた。火事後の復興で、近代的な都市計画が取り入れられ、最終的に、1950年代から60年代、アドナン・メンデレス時代に全体主義的な都市計画が行われた。

アクサライは、その重点地区である。旧市街の幹線道路は、東側にあるアヤソフィアや宮殿などの歴史的保存地区には触らず、アクサライを起点に、西側の城壁の外へ向かって扇型に伸びている。毎年共和国記念日などに軍事パレードが行われる「国民大通り」をはじめとして、イスタンブルの「近代都市」としての顔を代表する地区となっていった。だからアクサライの探索は、「裏通りの奥深く」といっても、扇型に広がる大通りの合間を縫う近代都市の街区の上に乗っている。

イスタンブルの面白いところは、起伏がある点だ。地図で見ると、整然と放射線状になっているようでも、実際に歩いて見ると、山あり谷あり。平地にゼロから作られた「近代都市」とは、印象がまったく違うのである。建物としては、1960年代以降のいわゆるトルコの「アパート」が立ち並んでいる。そういう街並みの中に、突然アラブ風のコーヒーを飲ませる店があったり、水煙草の装置を売る店が登場したりする。

バライダのお勧めのレストランは、そんなサプライズを経て、パッとひらけた商店街の中にあった。シリア菓子店がある。シリアの乾物を売る店がある。おもちゃ屋もある。驚いたことに、アラビア語新聞社まであった。さながら「リトル・シリア」である。

しかし考えてみたら当然だ。2011年のシリア危機以降、トルコは公式に知られているだけで30万人以上の移住者を受け入れた。30万人といえば、ちいさな都市ほどの規模だ。ひとびとの社会生活や教育、経済活動を支えるために、新聞社ができて当然といえば当然だろう。

シリアレストランに入ってみて、その活気と趣味のいい内装に、「アラディン」のお伽噺の中に迷い込んだような錯覚を覚えた。間口の狭い、奥の深い店内に、綺麗に盛り付けられた色とりどりの漬物、 豆や野菜。壁にぶら下げられた銅製の調理器具。働く人たちは、簡素な色彩の伝統衣装を身に纏っている。お客のほとんどは、シリア人だろう。一人で静かに食べている人もいれば、家族連れもいる。壁のモニターテレビでは、日本でいえば「寅さん」のような、おそらく70年代くらいの国民的テレビドラマが映しだされている。何もかもが、映画のワンシーンのようにみえる。ひとびとが食べているのは、プラスチックのどんぶりに入った料理だが、それさえもなんだかお洒落だ。

シリア料理のレストランには、シリアの伝統工芸であるガラスを使ったランプや幾何学模様のタイルなど、洒落たインテリアが施されていた。

メニューはシンプルだ。

看板料理はフェッテとファラフェル。それに、いろいろなサイドメニューがある。メイン料理のフェッテは、カリカリに油で揚げた薄焼きのパンにひよこ豆と練りゴマのペーストでできた濃厚なスープなようなものをかけ、茹でたうずら豆、バターで揚げたナッツなどをトッピングしたものだ。トッピングは種類が色々あって選べる。

従業員の方が着ているシャツも、シリアの伝統的な衣装。これは制服らしい。仕事を終えたコックさんが、ジーンズにダウンコートの私服に着替えて出ていくのを見かけた。
看板料理のフェッティ。揚げた薄焼きパン、ピスタチオやカシューナッツ。アーモンドが香ばしく食欲をそそる。

なんとなく、日本のラーメン屋さんに似ている。が、違いは、こちらは肉類をまったく使用していない点である。つまり、ベジタリアン・フレンドリー。

混み過ぎでも空き過ぎでもない店内。うまい具合に、すぐに席が見つかった。定番を注文してみる。

濃厚である。寒い上に、時分どきを随分過ぎていたので、極限までお腹が空いていたが、その空腹に染み渡る。それでいて、植物由来だから、しつこくない。

男性一人や、数人連れが多いが、女性客もいる。と、隣のテーブルに女性二人連れが座った。

休日にシリア料理を食べに来た二人のトルコ人女性。

「どこから来たんですか?」
「イスタンブルよ。もとはバルトゥンだけど。黒海地方、わかる?」

高校の同級生だという二人連れは、トルコ人。公務員のイーレムさんの職場が近くで、久しぶりに会うのに、ここを選んだという。

「シリア料理って、お二人にとって、どんな感じ?」
「トルコ料理と違うよね、香辛料がたくさん使ってある感じがする。ちょっと異国風というか、エキゾチックだと思う」。
「わたしは初めてだから、ちょっと勇気がいる感じ。でも試してみたいと思って」。

茹でたひよこ豆をすりつぶして作るファラフェルは、シリアに限らず、東地中海一帯で広く好まれる軽食。

わたしがトルコへやって来た30年近く前、若い女性、しかも頭を覆った保守的な家族出身の女性が、二人だけでレストランで食事をする、という光景は、ほとんど見られないものだった。それが、こうやって普通になっている。シリア料理のレストランは、移住した人々に故郷の味を提供するだけではない。トルコの普通の若い世代にも、普段食べたことのない、変わったものを試してみる、という選択肢のひとつになっているようだ。

「わたし、エディルネに婚約者がいるの。彼も高校の同級生で、みんな一緒だったんだけど。森林技術者なの」
「あら、じゃあ今は離れ離れ? 大変ですね」

エディルネはトルコのトラキア地方の町、オスマン帝国の二番目の首都である。イスタンブルから車で3時間ほどの距離だ。

「でも来年一緒になるの。わたしがエディルネに行くか、彼がイスタンブルに来ることになるかは、まだわからないけれど」。
「よかったですね。だけど、じゃあお仕事はどうするの?」
「二人とも国家公務員だから、結婚すると配慮してくれるのよ。一緒に住めるようにしてもらえるの」。

これは知らなかった。二人ともが国家公務員で、全国転勤のある職種の場合、結婚すると同じ都市に配属されるように配慮される、というか、当然の権利としてきちんとシステム化されているのだそうだ。

カップルで、片方(多くの場合は、女性)がキャリアか結婚かで選択を迫られる、という話は、日本でよく聞く。わたしの世代などでは、運のいい女性のみが、キャリアを続けながら出産まで実現できている、という印象がある。

トルコで女性がキャリアを自然に普通に続けてゆく背景には、国からのこんなサポートがあったとは。そういえば、トルコ共和国は女性の投票・参政権の実現がとても早かった(地方議会議員は1930年、国会議員は1934年。ちなみに日本は1945年だ)。日本がトルコから学べることは、たくさんありそうだ。

シリア料理のレストランを後にしながら、そんなことを思った。


文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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