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村上春樹/ノルウェイの森

又吉(直樹)さんは太宰治が好きだと公言することに最初迷いがあったという。

あまりに有名すぎて結局太宰かと思われそうだからだ。

同じく私も村上春樹が好きだと言うことに迷いがあった。

ハルキストという言葉もあるように、キザな書き出しで始まり洒落たバーで酒を飲みサンドイッチを食べてやたらとセックスする話でしょと思われている方も世の中には一定数いるらしいからだ。

もしくは、メタファーなど難解だと思われる方もいるらしい。

だからこの場において春樹の小説に描かれていることは一体なんなのか、について少しでも核心に迫れたらと思い筆をとる。


ノルウェイの森は当時100%の恋愛小説と謳われ世に放たれた。

しかしこの作品に甘いロマンスなど求めてはいけない。

これは実際のところは喪失(不適合感)について描かれた作品であると私は考える。


「おいキズキ、ここはひどい世界だよ」


これは自殺した幼なじみキズキに主人公である僕が投げかける独白だ。

これには、自分が適合出来ないこの社会の方が歪んでいて死者の世界にこそ正しさがある

不完全な生⇔完全な死

という全ての作品の根底に見え隠れする春樹の

ルサンチマン(弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」)

がある。

そしてこれが、生きること、まともであることへの虚無感、ニヒリズムに繋がっている。

春樹の物語の主人公は大体職を失い(もしくは自由業)、妻、家庭を失い、社会との関係性は極めて希薄だ。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」


キズキの恋人であった直子と主人公の僕はともに遺された存在だ。

彼らは社会に上手く馴染めない弱き者達でもある。

そんな彼らを繋ぐのはキズキの死がもたらした損傷とそこからの治癒の共有のみ。

生きることは、社会の歪みに馴れること..調和することである。

(これは古井由吉の杳子にも通じる。杳子においては、釣り合いをとること、と表現されていた)

これが春樹の世界観だ。

私は春樹の物語に逃避を求める。

私が私のまま何とかうまくやっていくために。


以下、ノルウェイの森上巻で好きな台詞をまとめた。下巻についてはまたの機会があればその際に。

「うまくしゃべることができないの」


「エレクトラ。『いいえ、神様だって不幸なものの言うことには耳を貸そうとはなさらないのです』。」


「あなたのためにシチューを作りたいのに私には鍋がない。あなたのためにマフラーを編みたいのに私には毛糸がない。あなたのために詩を書きたいのに私にはペンがない。」

「私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ』ってさしだすでしょ、すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと投げるの。私が求めているのはそういうものなの」


補足だが、ノルウェイの森のなかで直子と僕が歩きながら話すシーンがあるが私はこのシーンが大好きだ。歩きながら話すという行為自体とても好きだ。

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