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91 以前、夢中だったもの その1 ロス・マクドナルド

新しいタイプの探偵とは?

 人生には、なんだかしらないが夢中になってしまう対象が現われて、それがいつしか色褪せて去って行く。あるいは自分の中に大切な一ページとしてひっそりと仕舞い込まれる。
 ハードボイルドは、ハメット、チャンドラーが双璧で、その流れを汲むいわば竹林の地中に張り巡らされた根のようなしっかりとした世界が存在し、それが発祥地のアメリカだけではなく、日本やイギリスやそのほかあらゆる国でポッと芽を出していく印象がある。
 その一方で、「ハードボイルド界を震撼させる新人」といったようなキャッチフレーズはあまり当てにならない。
 そもそも、ハードボイルドの定義から始まると、生み出したのはヘミングウェイだと言われているから、さらに裾野は広大になってしまう。
 それはともかく、江戸川乱歩、横溝正史、松本清張、高木彬光といったミステリーを読みふけっていた時期があったけれど、ミステリー世界に「本格」が台頭してきた頃に、私はなぜかハードボイルドに興味を持った。
 ハメットは端正だが当時の私には面白味に乏しかった。チャンドラーは悪くないけれど、長編は少ない。私の知る限り、8作ぐらいである。だからすぐに読み終えてしまう。とはいえ『長いお別れ』や『さらば愛しき女よ』といった代表作ばかりなので、何度でも読めばいいのだろうとは思う。いずれ、村上春樹訳も読んでみようと思いつつ、実行していない。
 ハメット、チャンドラーに比べると、ロス・マクドナルドはあまり読まれていないのではないかと感じ、私は読み始めた。結局、生まれてはじめてコンプリートを目指して読みはじめた作家となるのだが、どうしてそんなに夢中になったのか、いまとなってはよくわからない。
 当時の新聞の切り抜きが残っている。
「深く透明な視点残し 巨匠マクドナルドの死」(朝日新聞、1983年7月23日)。同年、日本時間7月14日の新聞の死亡欄に67歳で死去したとあった。
 つまり、「今ならまだ間に合うかもしれない」気がして、夢中になって読み漁ったのかもしれない。
 酒を誘われた探偵が「朝からはやりません。わたしはこれでも新しい型(タイプ)の探偵なんです」と断る(『動く標的』、創元推理文庫、井上勇訳)。
 いまから思うと、この言葉に惹かれたのだろう、と思う。なにしろ、わざわざこの言葉をノートに書き写してあったのだから。
 そして、「新しいタイプの探偵って?」と思ったのではないか。
 それはハードボイルドの流れの中にあって、先人とは違う道を行くことを最初から運命づけているのであって、一種の覚悟だと感じ、「だったら読んでおこう」となったのかもしれなかった。

一種のホームドラマ

 けなしているのではない。当時の私がこうノートに書いている。
「登場人物たちは、みなそれぞれに生活レベルでの暗い影をひきずりながら、アーチャー(ロス・マクドナルドの生み出した代表的な探偵)の前を通過していくのである。一種のホームドラマでもある」
 これはアーチャーを主人公とした7作目の長編『運命』を読んだ感想としてメモしている。いま、推測すると、アーチャーという探偵は少なくとも1970年代まで生きている。すでに環境汚染にも言及し、登場する人たちは、よくある大富豪よりは、もっと複雑な背景を持つ人たちで、抱えている問題は横溝正史的な「家」に近い。その意味でホームドラマと書いたのではないか。
 そしてこのノートでは、次の8作目『ギャルトン事件』(中田耕治訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ)について、いろいろ書いている。当時の自分が興奮していることがわかる。いま読むと大したことないので、ここではあまり引用しないけれど、「後半が実にいい」とべた褒めしていた。アーチャーのシリーズではここからがいわば第二期に入るとされ、転換点の作品だ。
「私はなにも金だけでこんな仕事をしているわけじゃない。こういう生き方をしたいからやっているまでですよ」とアーチャーのセリフをメモしていた。

人の生き方に目を向ける

 ハードボイルドに生きる、みたいな話が、恐らく日本では大藪春彦らの間から立ちのぼり、男性週刊誌などでそれらしい記事が掲載されたりもしていた気がするのだが(昭和50年代だろうか)、定かではない。
 あの頃は、「男は男らしく」とか「男らしさ」といったものを過剰に演出する傾向が見られたはずで、たとえば男性用化粧品に「うーん、マンダム」の流行語を生んだりもして(チャールズ・ブロンソンを起用)、この傾向は「24時間戦えますか」(リゲインのCM)のように、広く一般的に認知されていたに違いない。仕事をする人を「戦士」のように喩えることが、コンプラ的にもまったく問題のなかった時代である(コンプラという言葉さえなかった)。
 もちろん、私はそういう生き方を求めたことはなく、現実にトロトロの煮卵状態のまま、いずれ干からびていく。
 「最高のラスト」とメモしているのが『ウィチャリー家の女』だ。さらに『さむけ』では「まさに黄金期の作品」と絶賛している。遺作となるアーチャーのシリーズ18作目『ブルー・ハンマー』まで、楽しく読んでいるようだ。
 おもしろいかどうかは別として、探偵が人々の「観察者」として物語に介入して結末へ誘っていくスタイルの小説は、「こういう生き方をしたいからやっている」者、つまり基本スタンスはアウトサイダーなのに事件によってインサイダーになっていくため、ハードボイルド、マッチョ、男世界だけでは済まない話になっていく。最後は拳銃で決着をつけるような話ではないのだ。あるいは、決着がつかないまま幕引きになってしまってもおかしくはなく、そうなるともはやミステリの範疇からもはみ出てしまう。
 少なくとも「謎」や「トリック」に引っ張られるのではなく「人」に引っ張られるとしたら、それはもはや一般的な小説であろう。
 たぶん、その頃は、コナン・ドイル、エラリー・クイーンから推理小説に夢中になった延長だったので、マクドナルドの作品が新鮮に感じたのかもしれない。
 いまは、夢中ではないのだが、それは、ホームドラマ的な一般的な小説をたくさん読むようになったからだと思う。
 なお、この時期に私はスティーブン・キングに夢中になっていくのだが、それはまたいずれ。
 
 

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