213 流動性 流される人生
流動性は時代の要請か
私が社会人になってから、とくにいろいろな方面で図られてきたのが「流動性」のような気がしている。最初は金融、資本の流動性からはじまって、グローバル化によってそれはいま極限に近く達したのち、むしろ流動性を嫌う囲い込み型が一部に生まれて、いま現在も、そこに確執が生じている。
さらに流動性は労働にも及んだ。その結果、派遣会社に長く所属はしているものの、職場は数年、いや数か月単位で変わっていくスタイルで仕事をしている人たちも多い。
ドラマ「舟を編む」はコロナ禍を描く最終回で感動的な終わり方を見せたが、あの辞書づくりの現場の固定的な姿は、いつまで保てるだろうか。正直、あのように何年も、何十年もひとつのことに打ち込めるような仕事は、極めて少なくなっていくだろうし、そのとき、会社組織の中で存在できるのか、私にはとても懐疑的だ。すぐに浮かぶのは外注化だろう。別会社にしたら生き残れないだろう。MBO(マネジメント・バイアウト)や、EBO(エンプロイーバイアウト)によって継続できるのかどうか。極めて難しいのではないだろうか。最後に残って総取りを狙う、と言うけれど、その時の市場規模がどのぐらいなのか予測することは難しい。
固定化、囲い込みの弊害はもちろん多い。シンプルに言えば、長年担当していた人が、横領していた、使い込んでいた、といったことも含めて、流動化した方がいいような気にもなる。ただ、流動化すると、人や技術や知財の流出も起こりやすいから、努力の結果、市場規模が拡大したときの最大利益を確保しにくいかもしれない。
産業や経済といった大きなくくりで語る流動化と、いざ自分たちが流動化する話とは、分けて考えないといけない。これは、長期の話と短期の話を分けるのと同様だ。尺度の違う話を混ぜると危険なのである。
どこに流れ着くのか?
人の流動化については、メリットよりもデメリットの方が多いと感じている人も多いのではないだろうか。なにもひとつの仕事、ひとつの会社で、人生をまっとうしなければならない、とはさすがに言わないけれど、数か月、数年単位で職場や場合によっては職種まで変わっていく人生は、なかなかにハードな世界である。
私自身は、いろいろな職場に出入りしフリーランスでも仕事をしてきたけれど、やっている仕事の内容はずっと同じだったからなんとかなったものの、これで仕事内容まで変わっていくとすると、果たしてついていけるだろうか、と心配になる。
たまたま、私がやっていた時代はいまから思えばそれが許された時代で、私よりも何十倍も稼ぐトップランナーが存在し、そのおかげで末端の私でさえもなんとかやってこれた。
だが、そうしたトップランナーを作らないタイプの仕事ではどうだろう。むしろ底辺を広げていくことで成り立っているとすれば、どれだけ仕事に習熟しても得られる金銭は増えない。常に新しい参入者たちによって、安い料金が提示され続けるとすれば、地獄そのものだろう。
現実にそうなっている部分が増えて、そのために所得の増えない人たちが存在している。
私はリスキリングを信用していない。学び直しによって誰が潤うのか。それをよく観察しなければならない。リスキリング産業が潤うことは間違いなく、そこに公的な支援も注がれる、つまり税金が注入されるのだ。これは、いわゆる海外からの研修生とどこが違うのだろう。もちろん、リスキリングに成功して輝かしい人生を送る人もいるだろう。ところが、いまの時代は多くの職種でそうしたトップランナーを生み出さないような方策が採られているので、実際にそんなヒーローやヒロインがいるのかと疑わしいのである。
もっともいい人生は、流れたい人は自由に流れる環境があり、そうしたくない人も、当たり前に流されないでいられる環境がなければならない。しかも、その選択を各自で自由にできなければ意味はない。
選択肢そのものが、むしろ狭まっているような気がしてならない。それが私の勘違いであればいいけれど。
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