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247 運は尽きるものなのか?

運試しは何回できる?

 私は運の専門家ではない。特別、運がいいとも思えない。なにも当たったことはなく、表彰もされたことはない。平凡な日々しかない。だが、もしかしたら、それもとんでもなく幸運だからそうなっているのであって、これで運が悪かったらこんなnoteを書いている時間はなかったかもしれない。
 たとえば「これが運の尽き」みたいなことが世の中にはある。「あいつもこれで終わりだなあ」みたいな。
 しかし、運って、本当に尽きるのだろうか。
 だいたい、しょっちゅう「運試しだ」と、自分の運のよさ悪さを試している人たちも多い。「もういっちょ」とそういう人は希望の結果が出るまでやめようとしない。そういう人は、とっくに運が尽きているのではないか?
 だからといって、「運を溜めておく」こともできそうにない。運試しを一度もしなかったら、ジャンボ宝くじに当たるのか、と言われると、どうやらそうでもなく、結局は、しょっちゅう宝くじを買って運を試している人にしか幸運はやってこないのである。
 もちろん「宝くじは買わなければ当たらない」派もいれば、「宝くじの期待値は低すぎるから買わない」派もいるのが世の中のいいところだ。世の中、全員ギャンブラーだったら、けっこうすごい世界になりそうだけど、幸い、そうではない。

今日が万年目

 鶴は千年、亀は万年と申しますが。「おい、昨日おまえから買った亀、今朝、死んじまったぞ」「はい、今日が万年目でして」。
 要するに、事象のどこを見るかによって、運は左右される。運が尽きてしまったと思ったところから、とんでもない幸運で道が拓けることもあるかもしれない。最高にいい運だと実感したとたん、亡くなってしまう人もいるかもしれない。
 そう考えれば、塞翁が馬ではないけれど、運不運はあざなえる縄のごとし、なのかもしれない。
 自分にとっての幸運は、誰かにとっての不運である。少なくともギャンブルの世界はそうだ。ポーカーで勝ち続けるには誰かを不幸に陥れなければならない。破滅していく人を見ながらほくそ笑む、というのは、なんだか悪魔的な楽しみに見えるけれど、世の中ではそういうことを実際にやっている人たちが存在する。誰とは言わないけど。
 あるいは運に見放されたような人を見ることを楽しみにしている人たちもいる。
 こういうことはフィクション(たとえば「カイジ」みたいな)の世界ではなくリアルな世界なので、目の当たりにすると愕然としてしまうけれど、私は若い頃に見てしまったものだから……。

 運に頼ることはないが、多少は運があった方が助かる。そのために、ゴミを拾ったりする人たちもいる。なにかいいことをすると自分に返ってくるのではないか。それを「あさましい」と批判してもいいけれど、いろいろ考えて行動している人を批判するのは、どうも高みの見物めいて、さきほど触れた、運に見放された人を眺めて楽しんでいる連中に近い気もしてしまう。
 正しく生きる、清貧に生きると自分で決めてやっていることなら、とやかく言うことはないし。運に頼って生きているのなら、それもまたひとつの生き方だ。
 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に基づいて、糸につかまっている連中が互いに賭けに熱中する話を昔、読んだことがある。筒井康隆だろうか。忘れた。せっかく掴んだ幸運にしがみつきながらも賭けに興じる。それを笑ってしまう自分もいながら、もしかするといまこうして生きている自分こそ、その当事者かもしれない。糸が切れるまでの、束の間の夢、だろうか。

道は遠いなあ。

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