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82 フィクションと虚構

ドラマ『三体』全30話を見た

 WOWOWでやっていたドラマ『三体』全30話を見終わった。
 正直、このドラマは本当に終わりがちゃんとあるのか、かなり心配になっていたのだが、しっかり終わってくれてホッとした。もちろん、わからないこともたくさん積み残されているのだが、原作を読めば解決するのかもしれない。だけど、解決しなくても、それはそれでいい。
 とくに、タンカーへの対応(としかネタバレになるので言えないけど)は見事だったし、この回(28話)のおかげで「見てよかった」と思えた。
 それよりも、この作品は、SFであるが、サイエンスであると同時にサイエンティストのフィクションとなっていて、物理学者をはじめ科学者たちが直面し、絶望するストーリーと、最初に絶望があってそれを人類の滅亡への道をあえて仕組もうとする科学者たちのストーリーがある。
 さらに、背景に中国の近代史(北京五輪までの半世紀)があり、この時点の中国から見た過去に、消し去ることのできない黒歴史があることをドラマではうかがわせる。三つの太陽のある惑星「三体」との交信が、怨嗟を抱えたひとりの女性にとってはむしろ希望になってしまう。そのために、彼女はいくつもの過ちを犯す。一種の「砂の器」(松本清張)なのである。
 結局、私は登場人物の名前をろくに覚えられないままに見終えたのであるが、ラストシーンはかなり記憶に残ることになりそうだ。
 なお、ドラマ「三体」については、過去に触れている。
 45 見ているドラマ、見るのを諦めたドラマ(18作品)

『本は読めないものだから心配するな』(管啓次郎)にあったフィクション考

 『本は読めないものだから心配するな』(管啓次郎)を読んでいることは、以前からここに書いている。
 そしてたまたま、フィクションについての言及があった。
「珊瑚礁とフィクション。」の節を読むと、真偽がただちに明らかになるとき、フィクションは生まれない。「『その場』で真偽を判定できないために限りなくフィクションに近いものとして受けとめられる文章」という表現があった。
 その例として、地球温暖化、地球上の人口爆発を挙げていた。統計などの証拠から事実だと信じるしかないような事象は、だが、多分にフィクションが入り込む余地を残してしまう。事実とフィクションの間の溝を、私たちが個人的に飛び越えなければならない。「それは決断に似ている。その跳躍に倫理が問われる」と著者は言う。
 人は決断を迫る人を嫌う。「どうするんだ」と迫られて、思わず選択してしまうことは、誰かと一緒にランチを食べるときのメニューや、友人たちとの旅行先の選択などでも起こり得る。
 店を信じたり(人気ナンバーワンとか今日のオススメとか)、周囲の人たちの意見(テーブルの上の料理も意見の一種だ)、あるいは同行者を信じて決めざるを得ないことがある。
 個人は自分のことを自分の意思で決定しているはずだ、と民主主義の日本では考えられていて、それを前提とした法体系となっている。彼のことが好きだったが、嫌いになっても脅されて離れられない状況になってしまい、その彼が詐欺の首謀者として国外逃亡したときに一緒に行ってしまった、といった場合でさえも、「それは一緒に行ったあなたが悪い」となるのである。
 こうして事実、真実のような虚構が生まれていく。

「微睡みの中で恋をして」のフィクション性

 このマガジン「微睡みの中で恋をして」はフィクションである。どれだけ、私が正確性を保証したところで、私ごときの保証でどうなるものでもない。検証不可能な事項は、事実かもしれないが、虚偽かもしれない。どこが事実でどこが虚偽なのか、書いている本人にも切り分けられないのだとすれば、それはもうフィクションでしかない。
 虚構としてのフィクションは、事実ではない。それが前提になる。私の存在そのものも、虚構なのである。そもそも「本間舜久(ほんまシュンジ)」という人物は存在しない。存在しているけれど、それがどこまで本人なのかは誰にもわからない。本人にもわからない。
 ドラマ「三体」でも、それは思い切りフィクションだろうと思いつつ、どこかに事実が潜んでいるかもしれない。太陽が三つある惑星からの侵略者たちがいまも地球を目指して大艦隊で迫ってきているかもしれない。いや、ほかの惑星からだって侵略者は来るかもしれない。あるいは、このドラマでは最初から「虫」が印象的に描かれているものだから、すでにSFとしては存在しているだろうと思うものの「虫型宇宙人」による侵略は起きているといってもいいかもしれない。
 いまの時代がうまく行かないと感じていて、それは人だと思っていた人たちが、実は人の皮を被った悪魔だったから、と言われたところで、コメディにしかならないけれど、ニュースを見ているとどうも、悪魔っぽいヤツはいそうな気がしてしまう。
 もちろん真偽は確かめようがない。虫に「おまえは宇宙から来たの?」と聞いたところで答えてはくれないだろう。人類はいまのところ虫とのコミュニケーション方法を確立できていない。人類も多言語だが、もし昆虫に種類の数だけ言語があるとすれば、それを解明することは不可能に近い。
 ニュースに登場する人に対して「おまえは悪魔なのか」などと問い質せば、こっちが危ない人間にされてしまうに違いないし、スティーブン・キングの作品のような悲劇しか生まれそうにない。
 つまり私は、この世の中をフィクションとして生きることにしたのである。残りの人生はすべて虚構となるのだ(と言ってみたところで、本当にそうなのかを確かめる方法はない)。
 
 
 
 

 


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