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77 言葉がつながる。言葉から見た世界。

小説『ライフタイム』について

 小説『ライフタイム』は、もう少し続く予定だけど、いまはちょっとお休み。
 昭和から平成へと変わる時代は、ちょうどパソコンやインターネットといった情報機器が広がっていき、仕事の仕方も大きく変わっていったけれど、そういう時代性に関係なく、人は生きて死ぬ。まったく関係ないわけではないだろうと感じていた当事者としては、でも、やっぱりそういう表向きとは違う別の流れが意識下にあって、実はそっちで生死を操られていたような気もしてしまう。そんな感じをちょっと確認したくて書いている。
 小説の最初の頃は活版印刷だが、このあとオフセット化が進み、DTPへと変わっていく。
 とかなんとか言ったところで、自分自身のリアルな過去に向き合うのはどうも違う気がして、そこは思い切り違う話にすり替えてしまうわけだが。主人公の「ぼく」の私小説風だけど、この「ぼく」は筆者とはかなり外見も行動も違う。もちろん、自分の体験をベースにしているから、ある程度は「ご本人登場」なところもあるけれど、別物だ。

『本は読めないものだから心配するな』(管啓次郎)を読んでいる。

 『本は読めないものだから心配するな』(管啓次郎)を読んでいる。吉本ばななのインタビューで知って読み始めたが、なんといっても語彙の豊潤さによる陶酔感が素晴らしい。つぎつぎと本が登場し、それを著者が独特の語り口で紹介していく。著者の中には広大な読書地図のようなものがあるようで、紹介する本の位置を把握して語っているようだ。
 この本には目次がない。hontoの電子版で読んでいて、とても助かっている。マーカーをつけられるし、検索できるから。
 著者は明治大学教授であり詩人である。詩について語っているところで、「詩はいつもそこにある。」ではじまる節がある。そこでは明治大学のこと、詩人のことに触れ、田村隆一の現代詩を取り上げている。そして「言葉は、それを使うはじから、『言葉以外のもの』『言葉以前の自分』を、その場に呼び出してしまう」という。
 さらに「流星の道に向かって。」の節では、解剖学者・養老孟司について語っていて、「万物流転するという世界の中で、唯一それを止めてくれているのは言葉だ」と養老氏の言葉を引用している。
 「XENOGLOSSIAについて。」では、多和田葉子を取り上げて、翻訳から言葉について考えていく。「人は個々の言語を通じてしかその宇宙に接近することができない」「総体としての『言語』の宇宙」「一言語が死んでその死が別の一言語に新鮮な力を与える」といった文言が私の目に飛び込んでくる。
 私は、日本語の「犬」は英語の「dog」と本当に同じなのか、などと思ってしまう。フランス語ではどうか。ヒンディー語ではどうか。日本で思う「犬」とその周辺に広がる表現のかたまりは、他言語とは違うだろう。

言葉から見たら?

 もし、言葉から見たら、私たち人間はどのように映るのだろう。
 いま、こうして言葉をつかっていて、たとえば「犬」という文字の向こう側にはなにがあるのか、こちらからは見えないけれど、犬は水面下でdogとかchien(フランス)、kutta(ヒンディー)、Gǒu(中国)とつながっていて、情報のやり取りをしているのだろうか。
 言葉は、自分たちの文字(表記)と発音を抱えて、さらに広大な意味、ニュアンスを抱えている。そして、それは他国の言語との関係性で、少しずつ変化していく。
 ついこの間も、「ブラックフライデー」で賑わって、しかも日本でもかなり浸透してきていることを実感したものの、もしも1980年代の自分がこの言葉を耳にしたら、不吉で邪悪な想像をしたに違いなく、もしかするととんでもないホラー映画をこのタイトルで作る人だっていたかもしれない。実際『ブラック・サンデー』は、『羊たちの沈黙』で知られるトマス・ハリスの小説で映画化もされた。元米国軍人が国に裏切られたと考えアラブのテロリストと手を組んで、スーパーボウルの会場で観客皆殺しのテロを計画する。それをイスラエルの諜報部員が阻止しようとする、といった話だ。
 日本ではこの映画の上映を阻止する脅迫状が届いたため、上映はされなかった。ビデオ化はされたので、私はレンタルで見た(70年代の話)。
 しかし「ブラック」という言葉が、もはや日本語のカタカナの「ブラック」と英語の「black」では意味やニュアンスがまるで違ってきているとしても、不思議ではない。
 こう考えると、私たちは言葉によって「つながれる」「理解できる」と希望を持つと同時に、本当にそうだろうか、と懐疑的にもなってしまうのであるけれど。
 
 


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