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俺たちはもうドッヂボールで仲良くなれないのか

二時間目と三時間目の間の行間休み。わずか15分だが、その15分のために僕たちは命をかけた...はずだ。

読者諸君も思い出してほしい。わずか十数分、もしくはわずか30分にも満たない時間のために校舎の中を走り、コートをとり、ドッヂボールをしたはずだ。中には隣のクラスの人たちとドッヂボールをしたこともあった。遊戯が終わった後、僕たちは心地よい爽快感に包まれ、教室までの道を急いだ。そんな経験はだれにでもあるのではないだろうか。

読者諸君も思い出してほしい。たしかにそこには「心が通い合った」という実感があったはずだ。

はじめて会った人であろうと、普段交流がないあの子であろうと、仮に関わりがない隣のクラスであろうと、確かにそこには能力差こそあれど皆対等に心が通い合い、無料で、短時間で、しかし間違いなく良質な心地よさに包まれていたはずだ。そこには上下貴賤相なく、ただ心を通わせ、限定的ではあるが平等な関係があったはずだ。

だが読者諸君、今の我々はどうであろうか。我々が人と仲良くなるときになにをするであろうか。酒を飲み、下世話な話題を交わし、二時間に3千円(僕の時給より高い!!)を投げ、味付きのアルコールを流し込む。

そう、飲み会だ。20歳前後の若者が必ず通る道である、飲み会だ。我々は何かと理由をつけて酒を飲みたがる。なぜああまでして酒を飲みたがるのか。我々は高校受験、大学受験を通してちっとは利口になったはずだ。だが実際はどうだ。対人能力に関して言えば小学生の方が上だったのではないか。そんな気がする。

読者諸君も考えてほしい。たしかに酒は有益なコミュニケーションツールとなりうる。だがその質はどうか。対価はどうか。もう一度考えてほしい。その飲み会は本当に行く必要があるのか。逆に酒を飲み、高い料金を払ってでも一緒に飲みたい人はいるだろうか(そんな人こそ我々が大事にするべき人だ!!)。

サンデルがメリトクラシーを批判するのと同様、我々が飲み会社会を飲み会社会の中から批判するのはちゃんちゃらおかしい。だが、すこしでもおかしいとおもったなら、もう一度人間関係について考え直してみたらどうだろうか。

う○この3文字で笑うことができ、千円あればなんでもできると考えられ、球一つと15分あれば一時的にコミュ強になれた時代から、私たちが得られる気づきはかならず、必ずあるはずだ。

それではみなさん、良い1日を。




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