12月・きいろい手ぶくろと母
母は裁縫が得意だった。
まだほやほやの赤ちゃんだった40年前の写真の中のわたしは白いニットを着ていて、それも母の手作りだったそうだ。
アルバムには他にも家族4人で、まるでスーパー銭湯で着るような(イメージだが)お揃いの洋服を着ている写真がありこれも母製。
それから叔母の結婚式の参列用にわたしのドレス、弟と従兄弟にはセーラー襟の洋服を作ってくれた。
他にもちょこちょこと、とにかく作ることが好きだったのだろう。
小学校一年生の頃にはミトンの手袋を編んでくれた。
それはクリーム色とレモン色の中間みたいなやさしい黄色で、わたしの名前の頭文字「A」という刺繍が入っていた。
ある日わたしはその手袋を片方なくしてしまった。
帰宅中に落としたようで、一人通学路を戻ってさがしてみたが見つからなかった。
母に手袋をなくしたことを伝えると特に顔色を変えず「そう。」とだけ言ったと記憶していて、悲しんだり怒ったりはしなかった。
わたしはその母の反応になぜか余計に悲しくなってしまい、トイレで声をころしてしくしくと泣いた。
お母さんがどんな思いで作ってくれたのだろう、バカなことをしたなあ、あのかわいい黄色の手袋は今頃泥まみれになったり車にひかれたりしていないのだろうか。
なんて想像しては悲しくて悲しくて。
さらに「母さんが〜夜なべ〜をして、てぶく〜ろ編んで〜くれた〜」
といううたが頭から離れなくて、また夜の布団の中でも泣いたのだった。
お母さんごめんなさいって。
これはわたしが記憶している悲しい出来事の中でもトップクラスだ。
きっと母はまた作ればいい、くらいに思っていたのだろう。
「てぶくろ事件」のその後わたしはどんどん成長、母の手作りを身につけることも減っていたのだが、中学生になりまた母製の洋服を愛用するようになった。
当時、大好きだったファッション雑誌の街角スナップには洋服を作ったりリメイクを楽しんでいるおしゃれな人々がたくさん掲載されていた。
すぐに影響を受けてしまうわたしは生地を買い、お年玉でミシンまで買った。
そして裁縫の本や型紙とにらめっこ。
母に助けを求める。
結局母がほぼ作ってくれる、という流れ。
好きな生地を選んで、形を選んで、作ってもらう。
オーダーメイドだ。
なんて贅沢だったのだろう。
赤いボックスプリーツのスカートは特に気に入っていて、当時は休日のたびに穿いていた。
今でも手作り感のあるものに惹かれる。
ニット小物や刺繍の入ったものなんかはずっと好き。
そのルーツは母の手作りだ。
残念ながら裁縫はそんなに好きにはなれなかった。
でも、亡き母の裁縫道具は現在わたしが使わせてもらっている。
母が学生時代から使っていたハサミやメジャー。
裁縫道具箱はウイスキーの箱。
わたしが小学生の頃学校で使っていたまち針なんかも入っていて、ひとつひとつに母の文字でわたしの名前が書かれている。
クリスマスシーズン。
寒くなると、そして子供達が手袋をするようになると、「てぶくろ事件」を思い出す。
あんなに悲しかったけれど、それはとてもあたたかな記憶として思い出される。
母はわたしのことがきっとかわいかったのだ。
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