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剥き出しで生きる(仮)1

元号が平成から令和に変わった頃、「平成は木村の時代やん」と深夜ラジオから聞こえてくる。そう語っているのは、Creepy NutsのR-指定だ。刹那、僕は思わず、膝を打った。どんな平成論より合点が行った。それは論と呼ぶべきではないのは重々承知だが、平成という時代を象徴する人物のひとりが木村こと木村拓哉なのもまた紛れもない事実だ。
深夜3時からのラジオ番組を、実家の自室で聞くことができる43歳。同じように実家住まい、独身、非正規雇用の中年男は、おそらく世間が思っているよりもたくさんいる。ただ、世間の目が怖いから、誰も何も言わないずに、子どもの頃からの慣れ親しんだ部屋で息を潜め暮らしている。世の中は、僕らを負け犬だとかレッテルを張り蔑んだり、子供部屋おじさんや貧困非正規中年などと社会問題として取り上げ、哀れみと嘲笑の対象として取り上げる。実家に住む非正規の中年にはそれぞれの事情があり、一概にカテゴライズすることなんて不可能なのに。そんなものは耳糞の価値もない。
僕のようにいまの生活がこれはこれで楽しいと受け入れている人もいれば、ここは生き地獄かと感じている人もいるだろう。感じ方は千差万別だ。僕には僕の事情があり、今に至っている。十人十色でそれぞれ事情は異なる。他の人のことは知らない。だから、僕は僕の話をする。


「サークルに興味……」
と言いかけると
「あっ、間違えました。大学院生の方ですよね」
とその女子大生はすぐさま言い直した。どうやらサークルの勧誘のようだ。彼女がその日、100回は繰り返した言葉が、目の前を通り過ぎる人がいれば反応するセンサーのように口をついた。それは大学の入学式当日、校門を潜り、式が行われる体育館へ向かっている途中のことだった。僕は僕で、新入生なんですけど、と言い返そうとも思ったが、日本で21歳の新入生も珍しいよな、大学院の入学式も同じ日だから間違えたんだろう。そう納得した。
入学式には、長い受験勉強から開放されたという気持ちと、不本意な理工学部入学という苛立ちにも似た2つの相反する気持ちを抱きながら出席した。まわりを見渡すと予想通りほとんどが男で、僕より2~3つほど年下だ。歳も違うし、どうせ話も合わないだろう。だから、誰とも目も合わさず、会話もせず、入学式が終わるとそそくさと池袋へと向かった。


池袋駅の待ち合わせ場所へ着くと、すでに付き合って半年ほど経つ彼女がそこにいた。
「カツヒロのスーツ姿初めて見た。似合うじゃん」
「ありがとう。なんでスーツなの?」
「お互いにスーツでデートしてみたかったの」

同じ歳ですでに大学3年生だった彼女とは僕が浪人中から付き合い始めた。彼女がいなければ、僕はその日そこにいなかったかもしれない。それくらい支えてもらった、と勝手に感じていた。今にも決壊しそうだった精神状態の最後の砦のように機能してくれたからだ。彼女がいたからこそ、なんとか大学へ辿り着くことができた。


入学記念に二人で祝杯をあげると、「これからはもっと頻繁に会えるね」と言ってくれた。


家路を歩きながら、手にしている入学記念品を見ると、無性に腹が立って仕方なかった。より正確に言えば、医学部に合格できないことに納得していなかったし、理工学部に入学してこれからどう生きるのかまったくイメージがわかなかった。怒りがこみ上げ、入学記念の品々を次々と道端に捨て、踏みつけ破壊し尽くした。


「入学式はどうだった?」


自宅に到着すると母親に聞かれた。


「どうもこうもなんであんな大学なんだろうね。なんか記念品みたいなのをもらったけど捨ててきた」


多少酔っていた僕は、半分キレながら言った。それを聞いた母親は笑顔が一瞬にして悲しげな表情に変わる。今振り返れば当たり前だ。両親は愛情を注いで育て、学費の高い高校へ通わせた上に、3年間も浪人させた。金銭面は表面的なことに過ぎない。どれだけ僕の病気や人生について心配してくれたか。そんなことにも気づいていなかった僕は最低だった。


この日から遡ること3年前、当時は進学校だった神奈川県内の高校を卒業したばかりの僕は「ちょっと勉強すれば、1年後には医学部生なのは間違いない」と根拠のない自信、またの名をデカい勘違いで満たされたままに予備校生活が始まった。高校の友人たちは、現役で次々と難関大学へ進学した。同級生ができるなら、同じ高校に通う僕にも可能だ、そう思っていた。


自宅から毎日電車で二時間もかけて通っていた高校で出会った友人は気の合う奴が多かった。毎週、日曜には渋谷駅の東急新玉川線からハチ公口へとつながる階段で待ち合わせしては、渋谷のレコ村や原宿、代官山の服屋や雑貨屋をただただ歩いてまわるのが週末のルーティンだった。テクノが好きなやつもいれば、70年代のソウルやファンクが好きなやつ、ヒップホップが好きなやつ、パンクが好きなやつ、音楽に興味はないけど服が好きなやつ、特に何も興味はないけど、暇だからなんとなくついてくるやつ。いろんな野郎のごった煮だった。僕は中学生の時に、UNITED FUTURE ORGANIZATIONの『Loud Minoriy』を聴いて以来、おしゃれなDJに憧れていたから高校入学と同時にターンテーブルを買った。当時アシッド・ジャズと呼ばれていた音楽や服が好きだった。でも、野郎のごった煮の中にいると、毎月のように各自がミックステープをつくっては手渡されるから、自然といろんな音楽を聞くようになっていった。


高校1年の終わりを迎える頃、高2から理系か文系か選択するよう迫られた。医者か弁護士のような人の役に立つ仕事につきたいと小学生の頃から漠然と考えていた僕は、文系か理系か迷った。正直に言えば、経済的にも社会的にも恵まれているであろう医者や弁護士のその生活に憧れていた。いや、それよりも親にそういうことを言われたのか、ドラマに影響されたのか。通っていた高校にそういう夢を抱いていた人が多かったからかもしれない。子どもの学力、それに伴って湧き上がる将来像は、生まれ育った家庭や地域、学校など環境に多分に左右される。
結局、理系を選択した。医者になるためだ。弁護士は暗記することが膨大なイメージと国家試験合格率が低いことから諦めた。医者は医学部にさえ合格すれば大抵はなれると思っていた。
医学部でも私大医学部を受験しようと考えていた。国立大医学部に比べ、学費はべらぼうに高いが、国立大学に比べれば偏差値が低い学校もある。センター試験を受ける必要がないため、英語、数学が必須で、物理、化学、生物のうちから2科目を選択するため受験科目も少なかった。要は、できるだけ楽をして、経済的、社会的に上昇し、恵まれていると思っていた職業につきたかった。


木村拓哉主演の『ロングバケーション』が世間を騒がせ、僕らの間で浪人生活を「ローニングバケーション」と自虐的に呼んでいた頃から、風向きは徐々に変わり始めた。
それは最初ほんの些細な身体の異変だった。通っていた予備校近くの牛丼屋へ昼食を食べに行くと、周辺で働くサラリーマンで混雑している。牛丼屋では、すぐに注文し、牛丼が運ばれてくればすぐにかき込まなければならない。その仕来りに従い、数口を口に含むと、突然吐き気がしトイレへ駆け込んだ。すべて嘔吐した。洗面台で口を拭い、冷たい水で顔を洗いながら、目の前の鏡を見る。そこにはもともと色白な顔が、さらに白く青みを増し、焦りと混乱が入り混じった表情が映し出されていた。表情ばかりでなていた、内面も焦りと混乱で動揺している。
予備校へ戻る道を歩きながら、牛丼屋での出来事が頭から離れない。19歳のその時まで、大抵の人と同じように嘔吐した経験はあった。普通、なんとなく胃の調子が悪いなと感じているうちに、徐々に気持ちが悪くなり、嘔吐に至る。でも、僕が牛丼屋で経験したのは、何の前触れもなく、突然吐き気を催したのだ。何かがおかしい。そう感じながら、予備校に置いてある荷物を手にし帰路についた。


翌日、毎日そうしていたように朝8時過ぎに最寄り駅のホームに立ち、英単語集を片手に電車を待っていた。最寄り駅は、3~4分おきに電車が到着するが、乗り降りする人が多い上に、快速が止まらない。大勢の通勤、通学の人でごった返している。すると、急に胃がムカムカし、冷や汗が出始める。「なんだ?なんだ?」と心がざわつき始めた。そんなことははじめてのことだった。一時的なものだろうと考えたが、電車に乗っても、冷や汗や胃のムカムカは治まらない。予備校に着くと、水を飲み、机につっ伏す。しばらくすると身体の不調はすべてなくなり、通常通りに戻った。約1時間続いたこの身体感覚はなんなんだと戸惑った。


そんな戸惑いも午前中の講義に集中しているうちにどこかへ去っていく。昼食の時間になり、何を食べようかと考えていると、「昨日みたくまた吐いたらどうする?」ともうひとりの自分の声が聞こえる。その声を聞くと、本当に吐いたらどうしようか、怖いなと感じた。その日はコンビニで素麺を買い、教室で食べることにした。教室で食べ始めても、もうひとりの自分の声の残響がある。何口か食べた瞬間、またも吐き気を催し、トイレで嘔吐した。昨日のなにかがおかしいという感覚は間違っていない。そう確信した僕は帰宅すると、近所の内科を受診した。医者は「今日はどうしました?」という定型文を読み上げると、僕の話しを聞き診断を下した。ストレスによる、自律神経の乱れだという。胃薬と自律神経を整える薬を処方された。
自宅で、3日ほど静養をした。静養と言っても、家でテレビを見て、タバコを吸って、いつもよりたくさん寝ただけ。3日間ダラダラと過ごすことに飽きが来たので、翌日、予備校へ向かった。朝、予備校のテキストをかばんにつめていると「また気持ち悪くなったり、冷や汗が出るんじゃないの?」ともうひとりの自分がささやく。それでも最寄り駅へ向かう。しかし、駅に近づけば近づくほど、もうひとりの自分の声が大きくなってくる。駅のホームに立つと、もうひとりの自分の声が頭の中をリフレインし、その声に身体も反応し始める。3日前と同じように胃がムカムカし始め、冷や汗が出る。身体が反応すると、どうしよう、どうしようとテンパり出す。と同時に、まわりを行き交う通勤、通学の人たちに「あの人、様子がおかしくない」と思われているような気がする。他人の目が痛い。そう考えると、一瞬身体がよろめき、倒れるような感覚に襲われた。その感覚に今度はもうひとりの自分が反応する。「このまま倒れて、死んじゃうんじゃない?」。そんな声を聞くと、居ても立っても居られなくなり、本能的にトイレの個室に駆け込んだ。嘔吐することはなかったが、死んでしまうと感じ、洋式便所に座ったまま冷静になろうとした。15分ほどそのままの態勢でいると、気持ちが落ち着いてくる。絶対に、何かがおかしい。内科で処方された薬はまったく効き目がない。でもこの得体のしれない身体症状は何科の病院へ行けばよいかわからない。


今なら、症状をもとにネットで検索し、なんとなく自己診断を下し、その病だろうと素人考えで診てくれる病院を探す。当時は、Windows95はニュース番組で取り上げられていたが、パソコンなんかに興味はなかった。それは家族の誰もがそうだったから家にパソコンはなかった。だから、もう一度同じ内科を受診した。医者は前回と同じ診断を下し、「ちょっと強めの薬を処方しておきますね。それと勉強のペースを落として、少し安んだほうがいいかもね」と告げ、診察は終わった。つまりは自律神経が影響していると言いたかったのだろう。


医学部志望の予備校生にとって医者の言うことは絶対だ。1週間ほど、自宅で静養することにした。前回の静養と同じように、テレビを見て、寝て、タバコを吸うだけだが。
しばらくすると家でダラダラと過ごすのも飽き、外に出たくなった。近所を散歩し、コンビニで菓子とジュースを手に取り、レジカウンターの列に並ぶ。するともうひとりの自分が「このまま倒れちゃうんじゃない?」と囁いてきた。すぐに身体が反応し、冷や汗が出て、クラクラし始める。このままでは本当に倒れてしまう。そう思い、菓子とジュースを棚に戻し、店を後にする。すると段々と気分が落ち着いてきた。


一体なんなんだよ、この身体症状は。薬は全然効かないじゃないか。あの内科医はヤブ医者だ。そう決めつけた僕は両親に相談し、総合病院で胃の検査を受けることになった。が、結果はなんの異常も見つからなかった。ますます困惑し、外へ出ることが怖いと感じるようになった。だから、受験の正念場とも言われる夏の間、予備校へ行くこともなく、自宅にこもり勉強を続けた。勉強机の上に貼ってあるカレンダーを見上げると、夏も終わりに差し掛かっている。自宅で勉強を続けても効率が悪い。このままでは合格することはできないのではないか。だからといって、予備校へ行くこともできない。なにせ電車に乗ることすらできないのだから。


地元の友人たちが一駅隣りの図書館で勉強していると聞きつけた僕は、一駅ならば電車に乗れるのではないか。それを繰り返していくうちにもっと長く電車に乗ることができるようになり、予備校へ通うことができるようになると考えた。


久々に駅のホームに立つ。またももうひとりの自分が「また倒れそうになったり、死にそうになるんじゃない?」と語りかけてくる。胃が気持ち悪くなり、冷や汗が出る。身体が反応する。だが、「一駅だけだ。耐えよう。たったの数分間だ」と自分に言い聞かせ、一駅をなんとかやり過ごし、図書館へ到着した。電車で一駅移動するのに、こんなに精神的にも、身体的にも疲れるのは初めてだった。行き帰りの計10分も満たない電車移動で1日のエネルギーの半分以上を使っていると感じるほど消耗が激しかった。その後も、毎日のように行き帰りの1日2回この苦行が待ち受けていた。時には、友人が車に乗せていってくれたが、すぐに気持ちが悪くなり、電車と大して差がなかった。

図書館へ通い始めて2日目、友人らと図書館の近くにあるショッピングモールでランチを食べようと、店を物色していると2ヶ月前の嘔吐の記憶が蘇る。マクドナルドの席につくと、冷や汗が出始め、胃がムカムカし始めた。友人らは「大丈夫か?」とこいつに一体何が起きてるんだと意味不明な様子で声をかけてくれる。が、とてもではないが、食べる気にはなれず、仕方なく図書館の中庭兼喫煙所のような空間のベンチで食べることにした。そんなことを何度も繰り返していくうちに、友人らは毎回具合が悪くなる僕の姿を見て震えるような冬の日でもその中庭で一緒に昼食を食べてくれた。


そんな状態で毎日図書館へ通い勉強を続けたが、まったく頭に入ってこなかった。2~3日前に解いた問題を、復習代わりに解き直してもできない。そんなことはこれまでの人生で初めてだった。おそらくうつ病に近い状態だった。うつ病と言うと、気分の落ち込みややる気の低下などに焦点が当たるが、集中力や能力が極端に低下することもある。でも、当時の僕はそんなことはまったく知らなかった。大体、うつ病だったらしいと医者から聞いたのは、20年後だったんだから。そのまま受験シーズンに突入。合格するかどうかなんてどうでも良かった。受験会場へ到着できればそれで良かった。結果はすべて不合格。特別に驚くことはなかった。


図書館で一緒に勉強した友人や浪人をしていた高校の友人達が次々と4月からの進学先を決めた3月。僕だけがひとりぽつんと道端に捨てられた靴の片方だけのように取り残された感覚を覚えた。でも、医者になれると信じて疑わなかった僕は浪人2年生になった。


日常生活には問題が山積みだった。電車には乗れず、コンビニで買物もできず、外食もできない。自宅以外で過ごすと、エネルギーを膨大に費やし疲れてしまう。一浪目に嘔吐して以降、何度も病院に通い検査も受けたが、結果はなんの異常も見つからなかった。近所の神経内科では、「そんなのインドでも旅行すれば治るよ」などと言われる始末だった。その御大は、東京のようなめぐまれた環境で暮らしているから病気になるんだと言わんばかりで、ムカつくというより、そんな医者がいることにがっかりした。どこの病院へも通わなくなっていった。


そしてなによりも、一番の問題はこれまでと同じように勉強してもまったく頭に入ってこない受験勉強だった。中学のとき、通っていた進学塾のおかげで学力は劇的に向上した経験があった。その塾で勉強のやり方そのものを学んだと思っていた。中学受験の時はひたすら暗記に徹し、1日12時間勉強したのに箸にも棒にもひっかからなかった経験があった。中学の時に通っていた塾では暗記以上に考えることの重要性を学んだ。それはそれは大きな自信となった。だから、高校で学力が落ちても、また劇的に向上する自信があった。しかしいまや日常生活もままならず、勉強もうまくいかない。すべてがネガティブな方向へしか向かわなかった。


今なら、まずは病気を治しながら、日常生活を通常通りに送ることができるようにして、受験勉強に挑むべきだとわかる。でも、その時の僕には学力の低下、つまりは自信の喪失が体調を悪くさせていると考えていた。そして病気の治療より先に、受験勉強を優先したのにはもう一つ訳がある。私大医学部受験生の間では、現役もしくは一浪までが合格しやすく、二浪目以降のいわゆる多浪生は合格しにくいと噂されていたからだ。ちなみに、私大医学部受験を目指す僕が話したことのある人間はほぼすべて親か親類に医者がいた。しかも、「親が〇〇大学出身だから、有利だ」などと自慢する始末。2019年、東京医科大学の男女差別をめぐって、私大医学部の入試状況は明らかになり、これらが単なる噂ではなく、事実であると判明した。僕は親は自営業で、親類にも医者は一人もいない。


そこで確固たる勉強法や実績があり、少人数制の予備校を探し入塾し、二浪目をスタートさせた。ただ、二浪目は国立大の医学部を目指すことにした。塾長からも多浪生なら、地方の国立大学を目指したほうが良いとアドバイスがあったからだ。


新しい予備校での初日。「ここから心機一転、なんとかなるだろう」と朝からフレッシュな気分で、何かが吹っ切れたように感じ、予備校へ向かう。その日はもうひとりの自分からの囁きは少なく、予備校で授業を受けることができた。しかし、一週間もするともうひとりの自分の囁きと身体の反応は元通りになった。それはまたも自宅にこもることを意味していた。週に2~3回ほどしか外出せずに、自宅で勉強をしたりしなかったりとダラダラとした毎日を過ごしていた6月のある日、自宅でワイドショーを見ていると、「現代病」というタイトルの特集を放送していた。ぼんやりと見ていたが、スタジオに画面が切り替わり、その病気の特徴をフリップで紹介すると、身を乗り出していた。すべての特徴に僕の症状は当てはまっていたのだ。「この病気だ」と確信し、急いで取材に協力していた病院名をメモる。買い物から戻ってきた母に、現代病のことを話し、すぐにその病院の予約を取った。


6月の終わり、僕と父は都心にある精神科、心療内科をかかげるクリニックの待合室にいた。医学部を目指しているとはいえ、精神科をかかげるクリニックを受診することには抵抗があった。2000年の「うつは心の風邪」キャンペーンで、心療内科がファッション化する以前は、精神科や心療内科はなにかおどろおどろしい、奇声をあげ、暴れる患者というイメージがあったからだ。それは映画やドラマの影響だったのだろう。
実際にその都心にあるクリニックの待合室に到着すると、クラシック音楽が流れ、サラリーマンらしきスーツを着た男性や小綺麗にした女性が物静かに診察を待っている。1時間近く、心理検査やアンケートに答え、診察室へ入ると見るからに優しそうな医師が、約1年に渡る症状を聞いてくれた。医師はいくつかの質問をした後、「パニック障害ですね。死んでしまうのではないかというのはパニック発作です。発作は薬でかなり抑えられます」という診断を告げた。そして「受験勉強も大変だけど頑張ろうね」と励ましてくれた。
先日、テレビで見た特集の通りパニック障害だった。はじめてきちんとした診断名がつき、心の底から安堵した。


パニック障害とは、不安障害のひとつで、特別なキッカケもなく、突然、動悸、呼吸困難、胸痛、めまい、吐き気など多彩な身体症状が出現し、激しい不安に襲われるといった発作を繰り返す病だ。発作は10分以内にピークに達し、通常数分~数十分程度で自然とおさまるため、救急で受診しても、病院に着く頃には症状が消失しており、そのまま帰されることが多い。パニック障害は、脳の扁桃体を中心とした恐怖神経回路の過活動があると言われている。
今でこそ、芸能人をはじめとする著名人がパニック障害であることを公表し、多くの人に知られることになっているが、当時は現在ほどメジャーではなかった。

医師は処方した三環系抗うつ薬と抗不安薬は1週間ほどで効果が出始めると説明した。1週間後恐る恐る電車に乗ってみることにした。1年前に処方された自律神経の薬はまったく効かなかった。今度の薬は本当に効くのか。半信半疑のまま駅のホームに立つと、多少の胃のムカムカ感やもうひとりの自分の囁きはあったが、その声に反応する身体症状は以前に比べ、格段に弱くなっていた。電車に乗り、予備校まで行くことができた。驚くほど効いた。
同時に、これまでいくつもの病院を受診したが、その医者たちは何を診断していたのかという怒りがこみ上げてきた。この苦しみがわかるこそ、僕は医者にならなければいけないとも思った。


これで日常生活を取り戻すことができるようになるかと思ったが、1年間失った日常生活を送るという自信は、たまに顔を出すパニック発作で簡単に戻ることはなかった。


薬はよく効いた。だが問題がなかったわけではない。服薬を開始してからというもの、日中も眠気が襲う。朝起きても二度寝をすることがほとんどで、生活習慣がどんどん崩れていく。予備校へは週に3~4回は通うようになっていたが、昼前に到着することがほとんどだった。肝心の勉強も、相変わらず頭に入ってこない。ただ、パニック発作の回数が激減したことだけが救いで、それ以上を望むべきではないと自分に言い聞かせていた。
成績が上がらないといっても、去年に比べれば体調は良い。だから決して医学部合格を諦めたわけではなかったし、根拠のない自信はまだまだ心の奥底に鎮座し僕を支えてくれた。だから、このまま勉強を続ければ、じきに成績が急上昇し、医学部へ合格するだろうと本気で思っていた。しかし、11月になっても成績は一向に伸びず、国立大学は諦めた。私立大学のみを受けることにしたが、翌月の12月の終わりには二浪目もどこにも合格できないと半ばあきらめていた。二浪目の入試を迎えたが、予想通りまたもすべて不合格だった。


私大医学部の入試が終わった2月下旬、予想通りとはいえ、医者になれないという現実をあらためて目の当たりにすると猛烈にショックだった。
この先、どう生きていくべきかわからなくなったし、将来が不安で仕方なかった。薬で少ない頻度に抑えても、たまに顔を出すパニック発作。これまでと同じようにやっても頭からどんどん抜けていく勉強。


「僕はダメ人間なんだよ。二浪をしても私大の医学部にさえ合格しない。本当はすごい馬鹿なんだ。医学部になんて受からない。もうすべてにおいて自信がない。それにこの病気だ。もうこんな人生は嫌だし、これ以上、甘えていられないよ。本当は死にたいくらいだ。働くでもなんでもするよ」


完全に自信をなくした僕は両親に泣き叫んだ。いま振り返れば、まるで働くことが簡単かのように言い方だった。


「そんなことはない。運悪く病気になってしまったかもしれない。医学部にこだわる必要はないし、せっかく努力してきたんだから、大学へ進んでほしい。大学へ進めば、医者以外の道を考えられるかもしれない。それくらいのお金はあるし、もう一年だけ頑張らないか」


父親は涙混じりに訴えた。

「少し考えさせてほしい」

それだけを僕は告げた。


この頃、19歳までなんの気なしに送っていた日常が送れず、成績は一向に上がらない自分に腹が立ち、自信という自信をほとんど失いかけていた。自分の中にあった根拠のない自信は、相当削られていた。
僕は、なぜ自分だけがこんな病気にならなければいけないのか。大学生活を謳歌する友人らと比べ、自分だけが取り残されたように感じる人生に納得がいかなかった。そしてとにかくこの医学部に入るという呪縛から逃れ、どこか別の場所で生きていきたい。そうすれば病気も治り、万事が再び好転しだすのではないかと思っていた。


しばらくの間、自分の将来を考えた。両親は、医学部にこだわる必要はないと言ったが、もう一年だけ頑張ってみよう。ただし、医学部以外の学部も受け、それでも合格しないのであれば今年で最後にしよう。そう心に決めた。僕の心はもう悲鳴を上げていた。


3浪目に入ったが、悲鳴をあげた心では、勉強をする気になれなかった。今年が最後なんだ、これで落ちたら医者になれないんだ、と何度も自分を奮い立たせたが、心の資源はすでに枯渇していた。パニック発作は、相変わらず時折顔を出し、勉強は右から左へどんどんと流れていくように頭に入らない。


遊びたい盛りだった僕は、友人から同じ歳の大学生の女の子を紹介され、付き合うことになった。そして彼女に夢中になった。その子といることで、再び人生がうまくいくように感じた。彼女はいつも「カツヒロなら絶対に医学部に合格できる」と励ましてくれたし、自信を喪失した僕を認めてくれた。認めてくれる人がいることは、崩壊しかけ、枯渇した心の資源を少しずつ満たしてくれた。なんとか勉強を頑張る気にもなれた。しかし、現実はそう甘くなかった。あいも変わらず、勉強をしても右から左へ抜けていき、一向に成績は上がらない。3浪目も受験した医学部はすべて不合格。滑り止めで受けた私大の理工学部にだけ合格し、僕は大学生になることができた。


#パニック障害 #闘病記

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