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note初投稿からちょうど2年9日経ったということで

ダッシュボードを開くともう、noteを始めてちょうど2年9日経つのだと実感する。表現も内容も中々にヒドイコトを言っており、完成度も甘いものばかりだが、曲がりなりに中実の詰まった出来だとは思う。例えばSNSの投稿を見返してもこのような感慨は得られない。

9日超過しておいてちょうど? もしそのような無粋な突っ込みを浮かべてしまったのなら、今一度己の固定観念を見つめ直すべきだろう。時間は絶えず連続して流れ続けており、そこに区切りが設定されているのは人間の恣意でしかないのだ。節目というものに縁起こそあれど、本質的な意味など何もない。元旦に掲げた覚悟だって往々にして約束されたみたいに衰退する。

今日、ついさっき、僕は何となく過去記事を読み返したり、当時の心境を反芻したりしていた。そして2年9日経ったのだと実感したのだ。それは勝手に訪れてくるキリ番の日なんかより、よほど「ちょうど」と呼称するに相応しい気付きの日だ。思い立ったら記念日。肝要なのは数字上の節目ではなく、心がきっかけを得た瞬間こそなのだ。だからこれは、断じてエルデンリングのDLCに没頭していたことへの弁明ではないのだ。

一番最初に自転車の旅の話を投稿して以来、定期的にnoteを更新する上でなるべく守っているマイルールというものが幾つかある。「推敲しない・面白いかどうか考えない(なるべく)」はその最たる例だ。選択や判断に動員するエネルギーって明らかに馬鹿にならなくて、これを守らないと社会人・趣味人とnote更新の両立なんてやってられないと痛感した。まあ、そのせいで昔の記事を読み返す時、迂遠な表現や論理の破綻に頭を抱える羽目になるんだけど。

自分のnoteを読み返すと、生活の重要な転換点などまるで無関係な適当ばかり書いていて笑ってしまう。その癖不思議なことに、当時どんな精神状態でどんなことに執心していたのか、何だかんだ分かるのだ。昔ハマった音楽を聴くと、同時期の印象的な出来事も連想される感覚に近い。

しかしまあ、定期的に長文の記事を更新し続けるのって改めて酔狂な趣味だとは思う。誰かと共同作業するでもなく孤独に取り組み、ともすれば罰ゲームみたいな所業だ。もっと楽で面白い娯楽は世にごまんと溢れているのに、と素面になりかけることもしばしば。そこに「楽しいから」以上の意味を見出すのなら、僕にとってこのnote更新はある種の治療行為であるとも気付いた。

これは僕に限った話じゃないのかもしれない。やや偏見的で失礼な物言いになるが、note投稿者(特にエッセイや日記を書いてる人)って誰しもちょっと過剰な考え事癖を抱えている気がする。思考をやたら過活性させていたり、どこか病的に自問や内省をしているのだ。それを執筆モチベーションと呼ぶにはどこかちぐはぐで、吐き出された文章もアウトプットというより情動の発散に近い、そんな感覚。

それが悪いとは思わない。自分の近辺事情の文章化は思考の整理に繋がる行為だ。心理カウンセラーの役割が当人の悩みを言語化させること……つまり思考の整理を促すことであるなら、文章執筆にも治療ないし予防治療的な側面も見出せるだろう。実際、壊れた蛇口のように際限のなかった僕の考え事癖は、note更新を初めて以来ある程度抑制できるようになっている。……いや、本当か? 文脈的に本当ということにしておこう。

そして、他人のそういう文章って油を搾って捻出したものより明らかに面白くて……少なくとも僕の好みではあって、どこか親近感が湧くのだ。お前も考え事をし過ぎる悪癖を抱えているのか。いつか気が触れるのではと薄く恐れているのか。まるで病院ロビーで自分と同じ病状の患者を観察するみたいな、一方的で身勝手な共感だ。直接のコミュニケーションなど皆無なのに、けれど待合室でたまたま並んで座ることがあれば、一つ感じ入るものも生まれよう。隣同士あなたとあたし、それぞれがnoteに書き晴らして、それぞれが錯乱防止の薬としているのかもしれないな、なんて。

冷静になるんだ。