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エッセイを粗製濫造したくない自分を否定したいし、肯定もしてあげたい

数日前に川沿い散歩についてエッセイを書いた。
自分の投稿を見返したらページ末尾に同ジャンルの上位互換みたいな記事がレコメンドされてて勘弁してくれよとは思ったが、それはそれとして、我ながら結構気に入っている。出来もそうだが、ちゃんと完成させたことに対しても。
エッセイって定義上は文章作品らしいけど、前回書いたやつは、文量や内容的にはまあ「作品」をギリ名乗っても良いんじゃないかなと自惚れてる。僕はどちらかというと卑屈気味なタイプの人間で、こういう素直な自己肯定って結構貴重である。
※自画自賛してしまったが、僕は経験則から、これが脱稿直後にだけ到来する一過性の有頂天であることも心得ている。

取り扱ったテーマが健常者過ぎたし、曲がりなりにも丁寧に書いた。さて、副産物的な弊害かそもそもの性格か「次は……いやこんな虚無な内容のエッセイって書く意味あるか?」という疑念が出てきてしまっている。元々は141字以上書けるTwitter+がやりたかっただけの筈だった。それがいざインターネット上でURLを持つ個別のページに文章コンテンツを放流するとなると、作品扱いを自認してしまうと、一定水準の意味や示唆や考察や論旨を有してないと納得できない凝り性が発動してしまったのだ。単なる自分語りはイタくてつまらないという擦り込みも影響している。

結果として、今って書きたい題材がわんさか溢れてるのに全部下らなく思えて、全部お蔵入りさせてる状態に嵌まってる。建設性の無い悶々とした思索ネタなんかが主で、具体的にどんな内容なのかと問われれば、まぁこんな感じである。あと速筆を目指すと雑な文になる。構成を意識しないから脊髄反射的な文脈になる。口語寄りで寧ろ読みやすいとか思われたら泣くかもしれない。

概ね勝手にしろやの一言で片付いてしまう話だけど、まさにその俯瞰的な突っ込みが自縄自縛を成している。だがしかし、随筆って勝手気ままな所感の言語化が本懐では……? 虚無の定義って他者評価で揺らぐのか……? 意味や答えと言うのは後からついてくるもの……?

ズブの素人が何様のつもりか、現に抑止効果が働いてしまっているのは事実であって、バカみたいだ。プライドって高すぎても低すぎてもダメだと思うんだけど、塩梅の調整って難しい。

テキストの価値は最終的には読み手が勝手に見出すものだと思うし、ことエッセイというジャンルにおいて、題材の良し悪しを書く側がふるいにかけ過ぎても詮無き事のように思える。「文章を書く練習」がしたいなら、完成度に執着し過ぎず沢山書けとはよく言ったもので、今の僕にはまさにどんぴしゃな指南だ。
僕は職業小説家やライターになりたいと思ったことはないけど、悩みの原理は理想ばかり高すぎて行動に移せない凡例ワナビと同類だと思う。まずはなりふり構わず書いて、習慣化が第一目標だと割り切った方が良いんだろう、一般論的には。

とまあ他人事のように正しそうな論を並べてみたけど、実際のところ、身の丈に合わない自尊心だって必要な拘りだとは思ってる。そういう美学って、意識的に捨てた覚えはなくても、保管場所を失念したまま忘れてしまうケースが多い気がする。
書けなきゃ本末転倒が問題なだけで、いったん脇におく必要はあるかもしれないが、やっぱり大事にはしていたい。つんつんいじって一利も無いカサブタが子供心には生命の神秘であるように、まだ両手で覆って大切に守っていたい。????? まぁこんな感じである。文章、書いてて楽しいんだよな。精進しましょ。

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