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角川財団学芸賞・蓮如賞ダブル受賞! 文学者の役割を問いかける渾身の評伝——『小林秀雄 美しい花』の序章を全文公開!

稀代の批評家・小林秀雄の精神の評伝!

文学者の社会における役割を問いかける本書の序章を全文公開!

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◇ ◇ ◇

第一部 序章 美と見神


「どうも私は講演というものを好まない」、そう前置きしながら小林秀雄は聴衆にむかって話し始めた。一九四八(昭和二十三)年十月、大阪でのことである。主催者側が準備した演題は「私の人生観」だった。その記録はのちに、同名の講演録として発表され、小林の代表作の一つとなる。

 物書きであることを天職だと感じ、愛着も感じている。書きたいことなら無数にあるが、話したいことなどない。むしろ、喋ることではどうしても現われ出ない思想があって、それが「文章という言葉の特殊な組合せを要求する」。その道を生きることに懸命なのだ、というのが小林の言い分だった。これまでにも随分講演を重ねてきたが進んでやったことはない、すべては世の義理を果たしたに過ぎない、今回もそうである、そのつもりで聞いてもらいたい、と続けた。

 だが、好まないと言いながら、講演に助けられていたのは小林の方ではなかったか。小林の生涯を振り返るとそう思えてくる。批評家として節目を迎えるとき小林は、求められた講演に一度ならず活路を見出してきた。なかでも「私の人生観」は特別な意味を持つ。小林の仕事はこの講演を分水嶺として前後に大きく二分される。

 年譜的にみて「私の人生観」を目印に前期、後期を分けることができるだけではない。誤解を恐れずにいえば、この時期を境に小林の仕事への態度も、そのありようも大きく変化していく。当然ながら、論じる者の視座も変えることを求められる。

 講演が行われたとき小林は四十六歳、二年前には『無常という事』を刊行し、同年の十二月に「モオツァルト」を自身が編集責任者を務める雑誌『創元』に発表、講演の前年には最後の——そして、もっともよく知られている——ランボー論を書いている。この講演のあとにドストエフスキー論の中核的作品「『罪と罰』について」が発表された。

 これらの作品は皆、戦前からの仕事とつながっている。小林にとっても太平洋戦争は事象的には大きな出来事だったが、彼の文学のありようを戦前、戦後で分けて考えるのはあまりに紋切型であるだけでなく、小林の場合、乱暴な解釈ですらある。戦後、小林は平野謙や埴谷雄高らの『近代文学』の同人との座談会で「利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と皮肉交じりに語ったが、彼の場合、見るべきは戦前、戦後の変化であるよりも、その持続である。

 小林秀雄論は、小林の生前から多くあった。しかし、その一方で評伝が編まれなかったのは、彼の生涯と境涯の位相の差異を捉えきれなかったからかもしれない。結論めいたことだが、前半の生涯は評伝という形式でも語り得る。しかし、後半の彼の境涯を語ろうとするとき書き手は別な視座を持たねばならない。評伝が、その人の年譜的事実とその奥にあるものを語ろうとする営みであるとすれば、小林の場合、それに適しているのは前期で、後期をその手法で書こうと試みても、彼の実像は浮かび上がってこない。求められるのは、精神的評伝というべきもので、私たちはそれを通時的な時間軸で捉えるのではなく、共時的な時空のなかで捉えなくてはならないように思われる。

 前期の小林はその時代と同時代人との深い交わりのなかで活動を続けた。しかし、後期は違う。哲学者井筒俊彦の表現を借りれば、前期は現実界での営みだが、後期はいかに叡知界と交わるかが彼の眼目だった。論じる対象も叡知界を旅した者たちとなって行ったのは自然ななりゆきだったといえる。

 前期の小林は、『ドストエフスキイの生活』を別にすれば、長編と呼べる作品はない。しかし、後期になると長編の作品が中心になっていく。『本居宣長』に至っては連載期間が十年以上に及んだ。

「私の人生観」が小林秀雄の生涯の前期の終わりを告げる作品であるとすれば、後期の始まりとなったのは『ゴッホの手紙』である。「私の人生観」の講演が行われた翌月、小林がこの作品の連載を始めているのも偶然ではないだろう。

『ゴッホの手紙』から『本居宣長』さらには絶筆となった「正宗白鳥の作について」を書く小林は、それ以前とは明らかに質的変化がある。ドストエフスキー伝を書くとき小林は、この小説家と対峙する道を探した。このとき批評とは、小林にとってドストエフスキーと対話することだった。しかし、後期になると向き合うのではなく、論じる相手の心の内側に入り、その眼を通じて見た世界を描き出そうとする。

 誤解を恐れずにいえば、宣長が考えたことを論じるだけでなく、ゴッホ、宣長、あるいは正宗白鳥が見た世界の光景をよみがえらせようとした。小林にとって批評とは、読み、書くことによって論じる相手の生涯を生き直してみようとすることだった。批評という営為が、精神の領域というよりも、小林の表現を借りればその「魂」の境域で展開されるようになってくる。そう信じた小林が、学問的事実よりも自らの実感を重んじるようになるのは必然の成り行きだった。晩年に行われた河上徹太郎との対談で小林は、ニーチェにふれながら、「文献をたよりに歴史を再建してみせるなどという仕事を、〔ニーチェは〕頭から認めない」と述べながら、文献学的視座に固執する近代的精神をこう批判する。

彼にとって、歴史とは決して整理など利かぬ人間悲劇だ。彼の関心は、遺された文献ではない。文献の誕生だ。

 ここでの「彼」とはニーチェだが、もちろん、小林だと理解して構わない。彼らにとって「読む」とは、書かれていることの意味を学問的に「正しく」知ることではなく、どこまでも個的に、小林自身の言葉を借りれば「無私」の精神によって書かれていない言葉すら引き受けようとすることだったのである。

小林秀雄その2(修正済)

 ドストエフスキーを論じるにあたって小林は、評伝である『ドストエフスキイの生活』と作品論を弁別して書いた。小林の生前に刊行された全集で後者は『ドストエフスキイの作品』と銘打って別の巻にまとめられたことが象徴しているように、そこには異なる精神が働いている。評伝的世界と作品論的世界を不可分だが不可同なものとして捉えること、小林を論じる場合にも——ことに後半生の場合——それに似た試みが必要なのではあるまいか。さらにいえば、そのことを混同してきたところにこれまでの小林秀雄論の困難があったように思われる。

『ゴッホの手紙』、『近代絵画』、『感想』、『本居宣長』そして「正宗白鳥の作について」には、小林がドストエフスキーの五大ロマンを論じたように、その通時的な時間軸においてではなく、時代的な環境に過度に引っ張られることなく、共時的な精神領域の出来事として論じなくてはならない主題が潜んでいる。

 この五つの作品を貫くのは、知の領域と信の境域との差異であり、生者と死者、現世と彼岸、意識と無意識の交わりであり、問題はさらに、人間と超越者との関係へと発展する。

 キリスト教が分からないといってドストエフスキー論の筆を擱いた小林が、次に論じたのがゴッホである。『ゴッホの手紙』は、題名の通り書簡を軸にこの画家の生涯を浮かび上がらせようとした試みでもあるが、同時にゴッホという画家を媒介としたキリスト論でもある。このことは同時に小林とドストエフスキーの間にあった究極の問題が、キリスト教に関するものであるというよりも、キリストにかかわるものだったことを明示している。

 キリスト教とキリストは同じではない。それはキリストがキリスト教信者ではないということ、さらには、キリストの生涯のあとにキリスト教が生まれたという素朴な事実を見ればたりるだろう。後期の小林にとって最後まで問題であり続けたのは、キリスト教であるよりは、キリストに魅せられた人々だった。

 絶筆となった作品でキリストに魅せられた人である正宗白鳥や内村鑑三に改めて言及しなくてはならなかった事実もそのことを物語っている。そのことは『ゴッホの手紙』にある次の一節を見るだけでも十分に伝わってくるだろう。

ゴッホは、ボリナージュを去るに当り、自分の看護で一命を取り止めた坑夫に会いに行ったが、額に傷痕を残して回復した男の顔に、蘇ったキリストの幻を見た、そうゴッホは言って、黙ってパレットを取り上げた。ゴーガンも黙って、ゴッホの肖像を描き始めた。僕もやはりそこに一人のキリストの幻を見た、とゴーガンは言っている。ゴーガンの様な人の言う処に、恐らく誇張はないであろう。彼の清澄な眼に見えた通り、まさにそういう事であったのである。

 第一次の『小林秀雄全集』の刊行が、単行本『私の人生観』刊行の翌年の九月から始まっているのも、この講演が小林の生涯において重要な目印となっていることを象徴している。


『私の人生観』が単著として公刊されたのは、講演の一年後、一九四九年十月だったが、それ以前に全体が三つに分けられ、それぞれ同年の七月、九月に三つの異なる雑誌——『文學界』、『新潮』、『批評』——に分載された。

 一つの講演を三つの異なる雑誌に発表するのは通常のことではない。書こうとしてもうまく行かなかったことが、話してみると言葉になった、そう感じたのでなければ小林はそれを活字にはしなかっただろう。小林の講演録は話されたままの記録ではない。対談にもいえることだが、それは「書かれた」講演、「書かれた」対談であることを見過ごしてはならない。そこに小林は、通常の原稿に勝るとも劣らない熱情をささげた。

『文學界』では、「私は思う」と題され、『新潮』においては、「美の問題」、最後に発表された『批評』では演題そのままの「私の人生観」が表題として用いられた。「私は思う」と題したとき、小林の念頭にあったのは、おそらくデカルトの『方法序説』である。

 別な講演——「常識について」(一九六四)で小林は、この本は、『方法序説』などというむずかしい書名ではなく、「方法の話」さらにいえば「私のやり方」と訳されるのがもっとも著者の意に近い、デカルトの哲学とは、畢竟、常識の哲学だといえると語った。

『方法序説』は、「我思う、ゆえに我あり」の一節が記されているデカルトの主著で、ここで語られている心身二元論が近代哲学の視座を決定した、としばしば言われる。だが、この本をゆっくりと読んでみれば、誰の眼にも明らかなとおり、デカルトはいわゆる二元論など論じていない。心身は不可同だが、不可分でもあると書いたに過ぎない。デカルトが語っていることは秘められたことではなく、むしろ私たちが日々経験していることではないか、と小林はいうのだった。

「私の人生観」で、デカルトに言及されるのは一度だけである。だがこの講演で小林は、もっとも深く親しみ、また、強く影響を受けた哲学者であるベルクソンには一度ならずふれている。小林にとってベルクソンは、デカルトの真の後継者だった。その血脈を継承し、魂の形而上学を語ったベルクソンの態度にふれ、小林はこう語っている。

正確に考える為には、日常言語で足りるという〔ベルクソンにおける〕デカルト的決断は、先ずその決断に現れる。

 批評家としての小林を貫くのも同質の確信である。真実に近づくには「日常言語で足りる」とするところに小林秀雄の「方法」もまた、定まっていった。「私の人生観」は、そうした小林のもっとも率直な、また直接的な表現として注目してよい。

 自身が述べているように小林の講演録は、すべて「書かれた」作品である。録音と講演録を比べれば判然とするように小林は、単に速記を整えるのではなく、新しく作品を生み出す態度でペンを走らせた。自身が話した言葉を道標に未開の森を切り拓くように文字を紡いだ。

 このことを踏まえて小林の講演録を読むといつも、ドストエフスキーの主要な作品が、口述筆記だったことを思い出す。ドストエフスキーの小説は、作者自身が書く手を止め、言葉の通路になりきることがなければけっして生まれることのない言葉の軌跡に満ちている。現われた言葉に、まず驚愕したのはドストエフスキー自身だった。書き手は、発せられた言葉をもっとも近くで聞いている存在でもある。さらに言えば、誰であれ、自己を驚かす言葉がなければ、あえてそれを文字に残す必要もないのである。

「私の人生観」に続く講演も、小林には、潜んでいた内心の声を聞く機会となった。講演は、小林にとってしばしば新たな地平を切り拓く作品を胚胎した。

「表現について」と題する講演で小林は、ボードレールにはじまる象徴派詩人にふれ、彼らにとって詩作とは「音楽からその富を奪回しよう」とする営みだったと述べている。また、ボードレールが「奪回しようと思ったのは、音楽の富であって、文学化された音楽の富ではない」とも言った。十八世紀、バッハにはじまり、モーツァルト、ベートーヴェンを経て、音楽は近代においてもっとも完成された芸術表現となった。ボードレールは、音楽から、芸術の核、すなわち美の根幹を詩に移し替えようとしたというのである。

「音楽の富」とは、「音」を通じて、この世に五感ではとらえきれない実在を顕現させることにほかならない。一方、「文学化された音楽」とは、無数の論者によってすでに語られ、飼いならされた「音楽」である。

 前者は不可視だが実在する。しかし、後者は誰の眼にも明らかだが、人間の魂を揺るがすことはない。ここで私たちは、小林が「当麻」に書いた、あのよく知られた一節を思い出してよい。

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

「美しい花」は眼前に実在する個物だが、「花の美しさ」は観念に過ぎない。「音楽の富」は、調べにのせ、聴く者に「美しい花」を見せるだろう。だが、「文学化された音楽」に接した者は皆、口をそろえたようにひたすらに「花の美しさ」を語り始める。

 実在は、人に存在の根源をかいま見せるが、観念は人を饒舌にする。そればかりか、しばしば袋小路に迷わせる。

 後期小林秀雄の代表作の一つ『近代絵画』も講演を基にしている。一九五四年、雑誌掲載当初の『近代絵画』は講演録として発表され、文体も講話体の「です・ます」調(敬体)だった。その初回は次のような一節から始められていた。

今、上野でルオーの展覧会をやっています。私も見て来た。先年来、ピカソ、マチス、ブラックなどの絵の展観があり、近代絵画に関する本も、最近沢山出版される様になった。こういう近代絵画に関する近頃の人気の性質とはどういうものでしょう。考えてみると、どうも甚だ漠然とした曖昧な不安定なものの様に思われます。

 この講演がもとになって著作となったとき、文体は「である」調(常体)となり最初の章で論じられたのはボードレールになった。冒頭の一節もまったく様相が変わっている。

「近頃の絵は解らない、ということを、実によく聞く。どうも馬鈴薯らしいと思って、下の題名を見ると、或る男の顔と書いてある。極端に言えば、まあそういう次第で、さて分からないということになる」。講演でボードレールに言及されていないのではない。しかし、講演録をまとめるうちに小林は、近代絵画を語るとは、もう一つの詩論を書くことにほかならないと感じるようになっていく。

 小林にとってボードレールの後継者は、象徴派の詩人たちだけではない。印象派の画家たちにもその遺産は脈々と流れ込んでいると感じられた。ボードレールは小林がもっとも愛した詩人である。その傾倒の深さが、ランボーに勝るとも劣らないものだった。詩人のなかにはいつも批評家が蔵されている、詩人とはもっとも優れた批評家の異名だ、とボードレールはいった。小林はしばしばこの言葉を引く。自らを批評家というとき、この言葉が小林の念頭から離れたことはなかっただろう。

 現代において詩人は、批評家として新生する。それは小林が筆を執って以来、ほとんど不動の、信念に似た思いだったように思われる。小林はボードレールの遺言を、続く詩人たちからだけでなく、印象派の画家たちからも聞いたというのである。

『近代絵画』は、単なる美学あるいは美術評論のさきがけではなく、従来の日本にはなかった美の形而上学の批評的試みとなった。小林にとって画家たちは、絵によって「詩」を謳った人々だった。批評において小林は、哲学の主題を論じようとしただけではない。現代では批評を通じてこそ、真の意味における哲学を明らめることができると信じたのだった。


「ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演」が行われたのは一九五六年、「近代絵画」のルノワール論が書かれていた頃である。表題のとおり講演は、この作家の没後七十五年を記念した催しで行われた。この講演録は、数ある小林のドストエフスキー論のなかでも、ほとんど最後に位置するものだが、それまでの作品論、作家論の領域を超えて、十九世紀ロシア精神史に発展する兆しを見せる秀逸な作品となっている。

 ここで小林が論じたのはドストエフスキーの精神であるよりも、ドストエフスキーという正統なる異端者が誕生する土壌だった。河上徹太郎はこの講演を、小林の評伝『ドストエフスキイの生活』にも勝るとも劣らない、と高く評価している。

 この講演が行われなければ私たちは、小林が見た十九世紀ロシアの精神風景をこれほど鮮やかに追体験することはできなかった。それは小林も同じだろう。彼も話すことで、自分のなかに何が眠っていたのかを発見したのである。さらに言えば、この講演がなければ小林のドストエフスキー論には埋められるべき大きな空白が残ったままだったようにさえ感じられる。

 最晩年、ドストエフスキーが国民詩人プーシキンをめぐる講演を終えると民衆が、この小説家を前に預言者であると賞讃した、という光景を描き出し、小林は評伝『ドストエフスキイの生活』の筆を擱いているが、そこにも何か象徴的な事象を見る思いがする。小林の最後の作品となったのも講演「正宗白鳥の作について」を基にした同名の作品だった。

「ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演」で小林は、評伝では詳論できなかった時代の深層を語り始める。ドストエフスキーの文学には、霊的革命と呼ぶべき出来事に結実する言葉があり、ロシア革命の背後にも同質のうねりがあった。このことを小林は、流刑にあった思想家チェルヌイシェフスキーが書いた小説『何をなすべきか』にふれながら語った。ドストエフスキーという作家を動かしているものを明らかにするために、この作家の同時代人の境涯を語るのである。

 この作家には現代でいう「小説家」という呼称のなかにはけっして収まらない働きがある。そのことはこの作家自身も感じていた。彼は時代や文化、あるいはロシアという霊性を語ろうとしたのではない。時代が、文化が、永遠のロシアがこの作家を通じて語ったという趣さえある。「預言者」というのは比喩ではない。後半生の小林は、さまざまなところで預言者的な役割を担った人物を論じた。近代の預言者は、必ずしも言語で語るとは限らない。ゴッホをはじめとした画家たち、ベルクソン、本居宣長もそうした人間だった。「正宗白鳥の作について」で小林は、年長の同時代人でもあった預言的人間である内村鑑三に熱意を持って言及している。内村が亡くなったとき、小林は二十八歳になろうとする年だった。小林が魅せられた人にはどこか預言者の片鱗がある。同質の思いはベルクソンにもあった。

 ベルクソン論『感想』で小林は、文学と哲学のはざまを生きたベルクソンの境涯を描き出そうとするとき、「誤解を恐れずに言うなら、哲学者は詩人たり得るか、という問題であった」と語っている。同質のことは詩人の境涯を考える場合にもいえる。「詩人は哲学者たり得るか」という表現にも逆説以上の真実がある。詩人的世界と哲学的世界を往復すること、それが『ゴッホの手紙』から『本居宣長』を経て、絶筆に至るまでの中核的問題だった。

「感想」の連載がはじまったのは『近代絵画』が刊行された翌月である。この作品は五年間書き続けられ、未完のまま中断され、ついに小林はこの作品の刊行を禁じた。「感想」を中断した二年後、彼は『本居宣長』の筆を執る。十余年にわたって続いた連載が終わろうとするとき、小林が行った講演が「信ずることと知ること」だった。

小林秀雄その4(修正済)

「私の人生観」と並んでもっともよく読まれた小林秀雄の代表的な講演録である。そこで彼は、『感想』と『本居宣長』に通底する魂の問題をベルクソンと柳田國男にふれながら、これまでになく率直に語った。

『本居宣長 補記』、さらに絶筆となった「正宗白鳥の作について」もまた、講演を機に書き始められた作品だった。そこでは、白鳥の生涯を深く横切った内村鑑三、島崎藤村から語られはじめ、最後には題名とはほど遠い主題、フロイトとユングに及んでいる。

 近代は、フロイトとユングの登場によって無意識を再発見した。彼らの登場以前、人間が無意識を知らなかったのではない。それは宗教と神秘思想の世界で厚い蓋の下に封じ込められていた。二人にとって深層心理学は、単に新しい学問であるに留まらず、蹂躙された魂を宗教や秘教から解放する精神運動でもあった。その点において二人の見解に違いはない。だが、進んだ道が異なった。

 深層心理学が一つの「科学」、すなわち学問として確立するためには、関心の領域を五感的感覚で認識可能な世界に限定しなくてはならない。その境界を超えて神秘があることを前提にすれば、体系は一気に崩壊する、フロイトはそう考えた。フロイトは非宗教的、科学的に学問体系として自説を確立しようとする。

 だが、ユングは別な道を行く。人間は世界に不可思議な現象をかいま見、驚く。しかし、本来は逆ではないのか。人はもともと大きな神秘のなかに生きていて、その断片を降り落ちる流れ星のように経験しているにすぎないのではないか。学問とは神秘なる現象からの放射を受け取り、それを言葉に定着させることではないのか、と訴える。現代の宗教が忘却した霊性と叡知の伝統をすくいあげるのが心理学者の使命だと考えたのである。

 溝は容易に埋まらない。二人は訣別する。ユングにとって心理学とは魂の神秘学にほかならなかった。ユングは単にフロイトを否定したのではない。世界が存在することが、最大の神秘であることを彼に教えてくれた最初の人物は、ほかならないフロイトだったことを彼がいかに強く認識していたかは、没後に刊行された『自伝』をかいま見るだけでも十分に感じられる。

 雑誌連載中の「本居宣長」でも小林は、フロイトとユングとの深層心理学者の相克に言及していた。しかし、単行本にまとめられるときに一連の記述は削られてしまう。この二人の深層心理学者の邂逅と訣別の問題は、彼にとってはいつか決着をつけなくてはならない残された問題だった。

 フロイトとユングの出会いと訣別という問題は、絶筆で再び語られている。『本居宣長』を完成させるときも、一歩踏み込めば、宣長論の主題すら飲み込みかねない危険を敏感に感じとっていたのである。

 だが、この主題に向き合う機会も、晩年に講演を行う機会がなければおそらく、小林に訪れることはなかったのである。

 岡山市で開催された白鳥の生誕百年を記念する講演として「正宗白鳥の作について」が行われたのは一九八〇年五月、それが作品として『文學界』に掲載されるのは翌年一月である。この作品が完結することはなかった。一九八三年三月一日、小林は亡くなる。

「正宗白鳥の作について」は、「心の現実に常にまつわる説明し難い要素は謎や神秘のままにとどめ置くのが賢明」との『ユング自伝』に記されている編者の意味深長な言葉の引用で終わっている。

 魂の専門家ともいうべきフロイトとユングの別離が明示するのは、私たちが暮らす世界の彼方に、もう一つの次元が存在するのか否かという問題である。今も私たちはそれにどう向き合うかを問われている。フロイトが拒み、ユングがその存在を無視することは世界をゆがめることになると語った名状しがたい存在を小林は、「実在」と呼ぶ。実在は、「私の人生観」を読み解くときの鍵語の一つでもある。この講演で実在と文学誕生の秘儀にふれ小林はこう述べている。

文学者の心が、時代の進むにつれて、どんなに知的なものになろうとも、言葉には知的記号以上の性質があるという文学の発生とともに古い信仰の上に、今日も文学というものが支えられている事に間違いない。言霊を信じた万葉の歌人は、言絶えてかくおもしろき、と歌ったが、外のものにせよ内のものにせよ、言絶えた実在の知覚がなければ、文学というものもありますまい。

 言葉の彼方で「実在」を知覚する営み、小林にとって文学とは、それ以外の出来事ではあり得ない。人間はいつも「実在」にふれることを渇望している。芸術、哲学、文学、思想はもちろん、すべての知性と実践は、こうした切望する魂に応じることを求められている。それはフロイト、ユングだけでなく、小林が積極的に論じた先人たちを貫く確信だった。彼らにとって「書く/描く」とは、実在へと歩みを進める、孤高の営みだったといってよい。

 言葉を紡ぐことによって、もう一歩も進むことができないところまで行く、人はそこで言葉を言葉たらしめている無形のはたらきに出会う。古人はそれに「言霊」という呼び名を与えた。自分の発した言葉にふれ、自らが驚き、ときに畏れを感じる。言霊に導かれ、そこで人間に照らし出される世界は、あらゆる想念を超える。そこではじめて人に、言語を超絶した「実在の知覚」が芽生え、そこに文学が胚胎する。万葉の歌人がいう「言絶えてかくおもしろき」とは、そうした経験の表現である。ここに文学の原点がある、と小林は考えている。

 自己を、もっともよく理解しているのは自分である、と思うのは、一種の幻想に過ぎない。むしろ、人間にとって自己とは永遠の謎とほとんど同義であり、生きるとは、己れという解明不可能な存在に、可能な限り接近しようとする試みだと言った方が現実に近い。それが現実であるならば、自分よりも自分に近い他者という存在も空想の産物ではなくなる。論じる対象自身よりもその人の心に近づこうとすること、こうした一見不可能な試みに身を投じること、それが小林秀雄にとっての批評の基点だった。

 自分よりも自分に近いとは、矛盾的な表現だが、芸術にふれ、真に動かされたとき、私たちはそうした絶対矛盾の経験の真っ只中にいる。音楽、絵画、彫刻、あるいは言葉によって、私たちはそれまでの人生では経験したことのなかった自己の深奥と呼ぶべき場所に導かれる。このとき私たちが遭遇する何ものか、それが小林が信じる「美」である。「私の人生観」で彼は、美との遭遇をめぐって、こう述べている。

美は人を沈黙させるが、美学者は沈黙している美の観念という妙なものを捜しに出かけた。この美学者達の空しい努力が、人々に大きな影響を与えている事は争われぬ様に思われる。〔中略〕芸術家は、美について考えやしない、考えられぬものなど考える筈がない。「美」を作り出そうなどと考えている芸術家は、美学の影響を受けた空想家であり、この空想家は、独創性の過信、職人性の侮蔑という空想を生むだけである、芸術家は物Dingを作る、美しい物でさえない、一種の物を作るのだ。〔中略〕物を作らぬ人にだけ、美は観念なのである。

 美について語る者は多い。その人物がどんなに流暢に語ったところで彼らにとって美は概念に過ぎない。美は、解析の対象であり、自分が何かを語る手段に留まる。彼らは「美」に出会ってはいない。その周辺をうろつき、上辺をなぞっているだけだ。なぜなら、真実の美は、それについて語る観念の遊戯から人間を遠ざけ、必ず沈黙を強い、「物」を作ることを強く促すからだ。

 美との邂逅の真偽は、言説によってではなく、行為によって証される。言葉でそれを証明しようとする者は、言葉を「物」に至るまで研ぎ澄まさなくてはならない。

「物」は、美の断片の異名である。先に述べたように、「私の人生観」の一部は「美の問題」と題され、発表されている。「美」は、「私の人生観」の第一の主題であるだけでなく、批評家小林秀雄の根本問題だと言ってよい。小林が考える「美」は、私たちが日常的に付与している意味の領域を大きく超えている。ときにそれは色であり、また、音、光、香り、言葉、あるいは不可視な感情の痕跡、すなわち伝統ですらある。

「独創性の過信、職人性の侮蔑」と記すことで小林が読者に注意を促すのは、表現を通じて何かを産み出し得ると信じて疑わない近代人が抱く、創造性への傲慢である。職人にとって表現とはまず、伝統の確実な継承である。独創性とは、特定の個人の表現ではなく伝統が時代に蘇る現象にこそ付される言葉でなくてはならない。

 このことは、言葉をめぐっても言える。真の独創性とは、言葉に新しい意味を付すことではなく、そこに秘められたものを顕現させることにある。「花」という一語にも数千年の時と無数の人間の情感が記憶されていることを思えば、それを個の表現に限定することに独創などという表現を与えたりはしないだろう。

 物の中核にあるのが実在としての「美」であるように、言葉の核には尽きることのない意味がある。美は/意味は、すでに存在する。知るとはすべて、想い出すことであるとプラトンは言った。プラトンの言葉が正しければ、人間は何か新しく創造することはできない。可能なのは常に発見することだということになるだろう。小林にとって「物」を作ることもまた、見失われた破片をつなぎ合わせ、もとの姿によみがえらせることにほかならない。むしろ、人間に託されているのは、すでに在るものを今に復活させることだと小林は考えている。小林へのプラトンの影響は、一稿を要するほどに強く、深い。その軌跡を私たちは講演の「本居宣長」とその記録をもとに書かれた『本居宣長 補記』に見ることができる。

「それにしても、真理というものは、確実なもの正確なものとはもともと何んの関係もないかも知れないのだ。美は真の母かも知れないのだ。然しそれはもう晦渋な深い思想となり了った」(「モオツァルト」)と書いているように、真の美は、私たちが美しさを感じる対象とはおよそ違う次元に存在する、そう小林は感じている。美といわゆる美的なものは、真理と「確実なもの正確なもの」ほど異なるものだというのである。

 人は美しい絵を見て、まるで本当のようだという。これは私たちが日常的に耳にする会話の断片だが、このとき人は「われ知らず大変大事な事を言っている様だ」と小林は語りつつ、こう続けた。以下の文中にある「二人の画家」とは梅原龍三郎と安井曾太郎である。

会場に絵を並べた二人の画家は、四十何年間も海や薔薇を見て未だ見足りない。何という不思議だろう。そういう疑問が、この沢山な鑑賞者のうちの誰の心に本当に起っているだろうか。そういう疑問こそ、絵が一つの精神として諸君に語りかけて来る糸口なのであり、絵はそういう糸口を通じて、諸君に、諸君は未だ一っぺんも海や薔薇をほんとうに見た事もないのだ、と断言している筈なのであります。私は美学という一種の夢を言っているのではない。諸君の眼の前にある絵は実際には、諸君の知覚の根本的革命を迫っているのである。

 絵は見る人に、声ならぬ「声」で、現象ではなく実在を見よ、とささやき、「知覚の根本的革命を迫っている」。そうであるならば、画家を革命家と呼ぶことに何の問題があろうか。むしろ、世にいう革命家のほとんどは、扇動家に過ぎず、「革命(revolution)」の字義通り、存在認識の根源的変革を問う者ではないと小林はいうのである。

 ここで小林が、美と記した言葉を、真、あるいは善に、そして芸術家を、哲学者、あるいは宗教者に置き換えても、一切齟齬はない。プラトンの哲学が正しければ、実在は美であるだけでなく、ときに真理であり、善、また聖性でもあり得る。

 だが、今日の哲学者によって言明される真理は、私たちに実在を体験させてくれるだろうか。また、宗教者によって説かれる善は同様な経験に導くだろうか。今日、哲学者たちが描き出す真理は、あまりに一なる存在から遊離しているように映る。また、宗教者から耳にする善は、あまりに宗派的教理に偏ってはいないだろうか。同じ講演で小林は、釈迦が説く「真如」の真意を論じながら、こう記している。

因果律は真理であろう、併し真如ではない、truthであろうが、realityではない。大切な事は、真理に頼って現実を限定する事ではない、在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考える事によって抽象化するのではない、見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである。

 現代に説かれる「真理」は、必ずしも「真如」を照し出さない。真理があるとすれば、それはいつ、誰の前でも真理でなくてはならない。さらにいえば科学的真理というものはあり得ない。「因果律」は、科学の世界から見れば真理なのだろうが、ときに人は因果律という局所的な「真理」の彼方に「真如」を見ることがある。

「真如」は、『大乗起信論』における鍵語で、先に見た「実在」の異名にほかならない。この作者不明の著作から仏教哲学というべき潮流が生まれた。仏教を信じない者にも顕現してはじめて「真理」は、「真理」たり得ると感じた者がいたことを『大乗起信論』は物語っている。「真如」をかいま見た者は、いたずらに争うことを好まない。「実在」とは、「和」のうちに顕現する出来事でもあるからだ。

 争う者はそれぞれの「善」を主張して止まない。「善」の言説は必ずしも、世界に和平をもたらさない。同様の危機意識は小林にもある。彼は、「真」や「善」が顕われ難い今日、真実の意味で平和をもたらすのは、今日私たちが言う善でもなければ真理でもない、美ではないかと問うのである。

 美は、異なる二者の衝突を昇華する働きに充ちている。まったくといってよいほど画風が異なる梅原と安井の画業にふれ、こう書いている。

梅原という画家のvisionと安井という画家のvisionは、全く異るのであるが、互いに牴触するという様な事は決してなく、同じ実在を目指す。かような画家のvisionの力は、見る者に働きかけて、そこに人の和を実際に創り出すのである。

「画家のvision」とは、うごめく美を捉えて離さない営為を指す。それはいつも「実在」すなわち「真如」を求める。さらに「見る者に働きかけて、そこに人の和を実際に創り出す」。

 人は、存在を賭して何かを「見る」とき、話すのを止める。真に見ることは沈黙に佇むことでもある。だまっているとき人は、傍らにいる人と、言語とは別な姿をしたコトバによってつながっていると感じる。抗し難く他者とつながっているとき、他者を傷つけることは、そのまま自己を害う行為になる。二人はそれぞれに存在するが、一なるものでもある。それが「真如」の世界だ。

「真如」をまざまざと感じること、それが小林の考える「和」である。「美」は「和」を生み出す力を蔵している。高次の「和」の源泉たり得るものが「美」であるといった方が精確なのかもしれない。「優れた芸術家達は、ベルグソンが哲学者達に望んだ様に、唯一の美のシステムの完成に真に協力している様に思われ」るとも小林は書いている。さらに真の協力とは、それぞれが「個性を尽して、同じ目的を貫くという事だ」ともいう。

 二人の画家の絵は大きく異なるが、協同する。画家と呼ばれる者たちは、時空の制限の彼方で、あたかも一枚の絵を完成させるために、それぞれの仕事をしている。二人は、一なる実在を注視している。彼らが望んでいるのは個性の表現ではない。美の顕現である。

 画家の努力は、うまく描こうとすることよりも、「図式」という形式の「制限から解放されようと、ひたすら見る為に見ようと努める」ことにあった。

 ここでの「見る」はすでに単なる視力のはたらきに留まらない。万葉時代の歌人が用いたようにそれは不可視ないのち、これまで「実在」と呼んできた何かにふれようとすることにほかならない。それは、いわば万物に与えられている「本源の経験の回復」でもある、と小林は書いている。実在にふれるとき、人は存在の故郷というべき場所を認識する、というのである。

 画家にとって絵を描くとは、時空を超え、美の歴史に参入することだったように、同質の光景は歴代の哲学者、詩人、音楽家にも起こっている。異なるvisionが、互いに疎外することなく「同じ実在を目指す」。美の多様性は、かえって一なる根源を照明する。

 芸術における「美」が、宗教で語られる「善」であり、あるいは思想の世界でそれは「真」と呼ばれる。真理はいつも美しく善い。あるいは本当の善があるとすれば、それは常に真理を照らしだし、ふれた者に美の経験をもたらす。現代において「真」と「善」の実現が、いかに実現困難なことか、それをここで説明する必要はないだろう。宗教と思想が生まれたところには、かならず衝突と破壊が随伴する。信仰、信条の表明は「人の和を実際に創り出す」営みからあまりに遠いところに私たちを連れて行こうとする。

 絵を「見る」と小林が書く。それは眼球を窓にした視覚的経験を指すだけではない。デカルトが明らかにしようとしたように肉体は単独では働かない。身体は必ず心を伴い、魂と連動する。先人の衣鉢を継ぎ、ベルクソンはこの事実を、そのまま世界に定着させようとした。それが彼にとっての形而上学である。もっとも素朴な形而上的営為は「見る」ことだ、とベルクソンは言い、その真意をvisionの一語に注ぎ込もうとする。

visionという言葉は面倒な言葉です。生理学的には視力という意味だし、常識的には夢、幻という意味だが、ベルグソンがこの場合言いたいのは、そのどちらの意味でもない。visionという言葉は、神学的には、選ばれた人々には天にいます神が見える、つまり見神というvisionを持つという風に使われていたが、ベルグソンの言う意味は、そういう古風な意味合いに通じているのである、これを日本語にすれば、心眼とか観という言葉が、先ずそれに近いと思います。(「私の人生観」)

 visionとは、未来を予見することや幻視を意味するのではない。仏教の「観」が、仏を「観る」ことを指したように、ベルクソンによってこの言葉はいつも「見神」を含意しながら用いられた。

 物を「物」として、すなわち「実在」として見る眼は、同時に、神を見る。世界はそうした実相を、いつも人間に開示している、自分はそれを確かに「見た」とベルクソンはいう。同質の記述を私たちは、十年後に書かれるベルクソン論「感想」においても再び見ることになる。

 実在は美でもあるが、「時」でもある。歴史は美しい、と小林が書くとき、彼は悠久の世界で遭遇した個的な経験を、でき得る限り忠実に再現しようとしている。

「歴史」と小林が記すとき、それは単に時間的過去を示すのではなく、むしろ、非時間的次元の現実を意味する。「時」すなわち「時間そのもの」が、今に現象すること、それが小林における「歴史」である。

 現代人は「過去の時間を知的に再構成するという事に頭を奪われ、言わば時間そのものを見失」っている。現代は、計測可能な時間とはまったく異なる「時間そのもの」があることを忘れていると小林は指摘する。

「時間」は、一たび過ぎてしまえば、再び戻ることはない。だが、「時」は決して過ぎゆかない。小林にとって歴史とは、過去の歳月を懐古的に感じることではなかった。それは過去が今によみがえってくる、生々しい経験を意味している。

 したがって、小林が考える真の歴史家とは、資料の検索や調査に長けた人間ではなく、文献や遺物を仲立ちに「歴史という人間と立会」い得る者であり、「文献整理の名人」ではなく「思い出の達人」でなくてはならない。

「歴史」という「人間」と語る小林の感覚を覚えておいて頂きたい。小林にとって歴史を実感させたのは常に「人間」だった。「古人」と小林が呼ぶ、時間の彼方で「生ける」者たちだった。「古人」は言葉として小林の前に顕われる。さらに彼は、なぜ「私達が現に生きる生き方で古人とともに生きてみようとしないか」(「私の人生観」)と読者に問い掛ける。

「無常という事」で小林は、歴史にふれ、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」と語った。

 美は今に宿り、悠久の世界があることを教える。悠久は、彼方に存在するのではない。今に随伴する。今とは、永遠の時が世界に現象するときの謂いである。今を見つめない者がどうして永遠を知ることができようか、今を、真実の意味で育むことを知らない者が、どうして永遠を誓うことができるだろうか、と小林は問い掛けるのである。

 時間を超えた「時」に生き、生者と共に生きるように、死者と生きること。彼にとって「歴史」の経験とは、これ以外の道程ではあり得なかった。

 彼の眼には、死者はしばしば、美の使者の姿をもって映し出された。小林はモーツァルトの音楽をそのように聴き、絵画を通して、印象派の画家たちに出会った。彼が、ランボーの来訪を受けたのは、一九二四年、彼が満二十二歳のときである。のちに小林は、それを「一つの事件」だと書くことになる。

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