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リレーエッセイ「わたしの2選」/『エクソフォニー~母語の外へ出る旅』『複数の言語で生きて死ぬ』(紹介する人:片山奈緒美)

英日翻訳者の片山奈緒美です。わたしは不惑を過ぎてから人生に迷いや不安を感じるようになりました。翻訳だけやっていていいのか。他に挑戦すべきことがあるのではないか。厳しい状況が続く出版翻訳界を考えると、他に収入の柱があったほうがいいのではないか――

そんなふうに思っていたころ、通っていたカルチャーセンターのマレー語クラスの隣で日本語教師養成講座が開講されていることに気づきました。直感的にこれだ、と思って、すぐに養成講座のカリキュラムを調べ、この先の翻訳仕事のスケジュールなどもろもろの条件をクリアする見通しがたったので受講を開始。日本語教師を目指すさまざまな年代の人と机を並べる日々が始まりました。

入校した養成講座には各大学から語彙、文法、音声、教授法などの専門家が出講されていて、後にそれがいかに贅沢な環境であるかを知って恐れをなしたほどのすばらしい講師陣でした。それと同時に久しぶりの教室での学びは楽しく、あの不安や迷いはどこかへ姿をくらましてしまいました。

その楽しい授業のなかでもとりわけ心を奪われたのが語彙を担当されていたH先生の授業です。どんな質問をしてもすかさず回答し、ときに質問が先生の専門外の分野に及ぶと「専門書で調べて次の授業で回答します」と、お忙しいなか誠実に対応してくださいました。

あまりに興味深い授業でしたので毎回質問していると、ある日、授業中に先生に言われました。「あなた、大学院にお行きなさい!」

見透かされた、と思いました。そのころのわたしは日本語を教える世界をもっと知りたくなり、大学院で科目履修をしようかと考えはじめていたのです。先生にそうお話したところ、それもいいけれど、留学生をたくさん抱えている大学の大学院に正規の学生として入学したほうがいいとアドバイスをいただき、都内の大学院修士課程で日本語教育を専攻して、けっきょく別の大学の博士課程まで進みました。

日本語教育研究にのめり込めばのめり込むほど、日本語教育とは日本語学習者自身の学習に纏わる部分と、生活のなかの言葉や周囲とのコミュニケーションが車の両輪であることを感じずにはいられませんでした。つまり、学習者に日本語を教えることは、日本で暮らす学習者にとってごく一部の助けでしかありません。学習者が少しずつ日本語を習得し、日本人コミュニティにかかわろうとしても、日本人コミュニティ側がその門を閉ざしていれば、そこに根深い問題が存在すると言えます。言語を習得しても、その言語を使ってコミュニケーションをとることができないのであれば、習得の意欲も意義も効果も半減するのではないでしょうか。

『エクソフォニー~母語の外へ出る旅』

多和田葉子『エクソフォニー~母語の外へ出る旅』(2003、岩波書店)はそんなふうにモヤモヤしていたころに出会った本です。多和田曰く、エクソフォニーとは「母語の外に出た状態」(岩波現代文庫版 p.3)を指します。となればドイツに住み、日本語とドイツ語の境界をこえて行き来しながら、「移動」する作家としてどちらの言語でも旺盛な執筆活動を続ける多和田は、まさにエクソフォニーそのものと言えるでしょう。

本書ではあちこちでわたしのモヤモヤが端的に言語化されています。たとえば、もっとも心を鷲掴みにされたのは、この一節です。

わたしは境界を越えたいのではなくて、境界の住人になりたいのだ、とも思った。だから、境界を実感できる躊躇いの瞬間に言葉そのもの以上に何か重要なものを感じる。

岩波現代文庫版 p.39

外国人住民に日本語を教えるということは、彼らが背負っている言語や文化を意識しながら、日本語という彼らの言語とはまったく異質のものを伝えることでもあります。多くの外国人にとって音も構造もまったく異なる日本語を習得するためには、彼ら自身が境界の住人になることが求められるでしょう。なぜなら、境界を越えて異言語を習得するだけでは、日本という異文化社会で暮らしていくには不十分だからです。自分たちの文化を背負いながら、自分たちの言語と異言語の間を行き来して、異文化社会の人々のなかで暮らすエクソフォニーとなることこそ、異文化間のコミュニケーションのありようだと思われます。

こうしたことを考えていると、それまで翻訳者として英語で書かれた書籍を日本語に訳して読者に届けていたわたしは「境界の住人」であり、ある種のエクソフォニーであったのかもしれません。そして、そのことに本書を読んで気づくと同時に、日本語を教えることは境界の住人である人々を育成し、彼らが自由にエクソフォニーになれるよう支えることなのだと、その責任の重さを改めて感じました。

多和田は現代の人間は「複数の言語がお互いに変形を強いながら共存している場所」(同p.90)であり、その共存と歪みに意味があると述べています。こうした境界に存在する言語とはどんなものなのでしょうか。誰でも悩むことなくエクソフォニーになれるのでしょうか。

『複数の言語で生きて死ぬ』

有田佳代子は山本冴里編『複数の言語で生きて死ぬ』(2022、くろしお出版)のなかで次のように述べています。

「あいだ」にいることは、どちらにも属してどちらにも属さないこと。だから、両方から引っ張られたり両方からはじき出されたりして、「あいだ」にいる人々は脅かされる。危険や不安をしょいこまされたり、「見えない人、いない人」として無関心にさらされたり、自分たちの「普通」や「あたりまえ」を見下されたり、「弱き者」として哀れまれたり、何の理由もなく憎まれたり、そして、虐殺されることさえあるのだった。

『複数の言語で生きて死ぬ』
 p.90

こうして「あいだ」にいる人、つまり「境界の住人」が不安定な立場であったり、無関心にさらされる存在であったりすることは境界の一方の側にいるマジョリティともう一方の側にいるマイノリティ間の歪みが生み出すものだと言えるでしょう。この歪みを消すことは困難かもしれませんが、互いに言葉と相手への理解を尽くして接すれば、限りなく小さくできるものでもあります。

編者の山本冴里はまえがきで本書のタイトルについて「言語や文化の境界を超えるというよりも境界そのものにとどまり、境界に生き、死んでいく人々」をイメージしたと述べています。さらに、この「境界」は一本の線ではなく、「可変的な幅を持つもの、ゆえに人がとどまりうるもの」と説明しています。「境界の住人」は境界にとどまりながら境界の両側を行き来します。自分たちの文化や言語の内側だけにとどまり、異なる文化や言語に接触しないのではなく、自分たちの世界と異なる世界の異質性のなかに身を置きながら、両方の世界を知ろうとするのです。自分の文化や言語のなかだけにとどまろうとするならば、自らを周囲の異質なものから隔てることとなり、異文化間の交流は生まれません。異なる言語を学ぶ目的も成果も、「境界の住人」であればこそ異文化に属する人とのコミュニケーションを豊かに育む源となっていきます。

ひとりの翻訳者として仕事をいただき、一冊の本を訳していく日々を送っていたときには、文化や言語という大海で自分をどう位置づけることができるのかを意識したことはありませんでした。ただ目の前の本を訳すことしか考えていなかったのです。しかし、日本語教師として外国人住民や留学生に日本語を教えるようになってからは、翻訳者は「境界」にいて自分の文化や言語と異なる文化や言語間を行き来する存在だと感じるようになりました。そうしたわたしがぼんやりと抱いていた考えを明確に言語化しているのが今回ご紹介した二冊です。言葉を訳し、言葉を教える者として、これからも繰り返し手に取る本になりそうです。


■執筆者プロフィール 片山奈緒美(かたやまなおみ)
英日翻訳者。大学非常勤講師(コミュニケーション、日本語教育、日本語表現などを担当)。訳書に『スタンフォードが教える本当の「働き方改革」』(リア・ワイス、ハーパーコリンズ・ジャパン)、『ノルウェー出身のスーパーエリートが世界で学んで選び抜いた王道の勉強法』(オラヴ・シーヴェ、TAC出版)、『成功する人の「語る力」―英国首相のスピーチライターが教えるライティング+スピーチ』(フィリップ・コリンズ、東洋経済新報社)など。次は言葉やコミュニケーションに関する本を訳したいと思っているところ。
Twitter:@naolynne

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