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国名や地域名を「仮」とする、深い|理由(わけ)

幻想ファンタジーで暗く深い谷に橋を架ける

叙事詩「ほのほつみ」の物語では、国家や地域の呼称として
「仮に●●●としよう」表現を使っています。
たとえば、「第1場 出兵、目覚めし小さき神」の「1話ほのほつみ誕生」の冒頭は以下のように始まります。

“島国の名は、そう仮にあしかびとしよう。島国の誕生のいわれを記したいにしえの書物によれば、はじめは海に浮かんだ水母(くらげ)のごとく漂っていた、そのときに 葦の芽のように、ひとりの神が産まれた、と……。
春まだきころ草原を焼いたあとに湿地に萌えいづる葦の芽のように、力づよく生まれる命、そこより名づけたという。
その葦芽のごとく広き太洋に芽生えし島国、あしかびの国の話をしよう。”

叙事詩ほのほつみ「第1場 出兵、目覚めし小さき神」の「1話ほのほつみ誕生」より


ここに違和感を感じられる方もいるかと思います。なぜ実在の国名や地域名ではだめなのか? その理由わけについて説明します。

「叙事詩ほのほつみ」は仮の国名や地域名が用いられています

立場を違えると正義の実像は変わる

叙事詩ほのほつみが描いている「いくさ」は、約100年前、ついこの間です。歴史の地層でいえば、比較的上の「近現代史」の地層で、近現代史を考えるとき、まだ戦争で負った「傷み」が残る段階では、どうしても、国や地域の立場からの戦争の正しさに視点がいきがちです。そして、その立場を裏付ける「事実」のみが喧伝されがちです。
その戦争の記述が史実として正しいかどうか、証拠エビデンスはどこにあるのか?
それは現代史を扱ううえで当然です。
でも、より冷静に、少し踏み込んで考えていただきたいのです。
戦争には必ず闘う相手がいます。どちらが正義か? はどちらの立場から見るかによって変わります。

強大なA国が、弱小のB国を「侵略」した。
と言ったとき、たぶんA国は、素直に「侵略」とはいわないでしょう。
たとえば……

「B国がある領土はもともとわれわれが暮らしていた。それは、●世紀の文書からわかる。当然の権利として、「奪還」したのだ」と。
それに対し、B国を擁護する立場、つまりA国と敵対関係にあるC国はいいます。
「それは納得できない。強いものが力で、弱いものを黙らせていいの? 正義に反している」
というかもしれません。
この「正義」を巡る論理構造は、過去の古い話でなく、いま、まさに現在進行している熱く、生々しい話です。

古くて新しい戦争の正義を巡る議論

紀元前5世紀の古代ギリシャの哲学者、プラトンの「国家篇」(藤沢令夫訳,岩波文庫,,1979)のテーマは、正義とはなにか? です。

ある祭見物に出かけたソクラテス(プラトンのお師匠さん)が、その土地の名家に「せっかくここまで来たのに素通りはないだろう」と呼び止められ、議論が始まります。そこで、投げかけられたのが「正義とはなにか」でした。その議論の輪のなかにいたのが、いつかソクラテスをやりこめてやろうと考えていたトラシュマコスで、トラシュマコスは、議論に割ってはいり、「<正しさ(正義)>とは、強い者の利益にほかならない」といい放ちます。
当然それについて、ソクラテスは、そこに集った若者と議論をつくします。
トラシュマコスの「正義とは強い者の利益だ」という前提について、<正義>の徳(知性)は<不正>を上回るとし、なんとか論破した。けど、ソクラテスは、現実は不正が正義より上回り、理想的な国家はなかなか実現されない。ただいまは「自分は分からない(無知)ということが分かった」に過ぎないといい、であれば、理想とする理想国家とはどのような国家であるか、その国家実現のために若者を教育するにはどうすれば良いか、その議論を執拗にを展開していきます。

ひるがえって現代社会においての正義は、現実としてトラシュマコスの投げかけた、「<正しさ(正義)>とは、強い者の利益にほかならない」という前提テーゼ通りに展開しています。
正義とは何かは、いまもその結論は出ていません。いみじくもトラシュマコスの言った「<正義>とは、強い者の利益にほかならない」という国家ばかりが目立ちます。もちろん、<正義>の徳を実現させる努力とそのための活動は続けられていますが、なかなか理想の国家は出現しません。「正義とはなにか?」は、終わりのない、つねに問われ続けなければならない永遠のテーマです。

匿名性を前提とするSNSで近現代史の戦争を語る危うさ

正直、いまのインターネットを通したSNSというコミュニケーション手段は、冷静に、「正義」を語るのに適したツールとは思えません。匿名で、相手を誹謗中傷ひぼうちゅうしょうする目的で、意図的に危うい情報や誤った情報を流している状況が多々見られます。
近現代史といわれる、まだ、傷癒えぬついこの前の時代の戦争について、ある国名を、その当時使われていた表記にすれば、当然、どの立場の発言か、その証拠は何かが問われます。

こうした戦争を巡る議論こそ、匿名性を前提としたインターネットは不向きで、時間に追われる日常で緻密な論理展開はなかなか難しく、相手の揚げ足取りに専念するSNSは危うさを抱えています。
ただ、そうはいっても、現実として、私たちの国においても戦争の危機は目の前に迫っています。とくに核を巡る状況は厳しさを増しています。
そうした現実を認めたうえで、私はインターネットという便利だけど危ういメディアで戦争をテーマとする物語を発表するからには、立場を超えて語り合える場、あえて証拠エビデンスよりも神の視点から、登場人物への共感、いってみれば感性に訴える叙事詩で語る手法を選びました。その手法では、戦争は、ある時代の枠を突き抜け、繰り返し語られてきた「いくさ」の地平で語られるのです。

ことのはの歴史をリセットしてみる

15世紀以降の航海時代から18世紀以降の産業革命の近代へと続く時代は、ヨーロッパの冒険の時代で、「この世をつくりしという」*唯一絶対の神の正義を掲げ、その象徴としての強い力をもった国家が、地球上に広がっていった時代です。

叙事詩ほのほつみに登場するhyutopos(ヒュトポス)という国名は、もちろん仮で、「この世を作ったされるひとつ神を信じている」ひとが集まった国で、第2場の2話で、「命あふるる水の星、地球をぐるりと回り、この星が丸いことを見いだした」としています。

「第2場 天の中つ国へ進軍、目覚めし竜」の「2話 作戦会議」より

そのツールとして用いられ、おおいに力を発揮したのが、科学サイエンスの知であり、その知により生まれた技術を駆使し、さまざまな機械や道具が産み出されました。
科学の発展とともに、ひとの行いとして行われてきた近現代の戦争は、明らかにそれ以前の「いくさ」と質を異にしています。闘うための道具である兵器、そして、勝つための情報は、戦いの勝負の鍵を握っています。そのために国家は総力をもって科学サイエンスの知の「進化」に勢力をつぎ込んできました。
そもそも、自然と向き合い、真理を発見する科学サイエンスは、人類を幸福にするためのものであったはずです。
たとえば、飛行機やロケットは、鳥を模倣して空を飛ぶ自由を手に入れ、国境という境をひらりと越え、ひとびとを解放するという目的でつくられました。
1927年のリンドバーグの大西洋無着陸横断飛行は、時代のエポックでした。しかし、1929年にニューヨークの株価大暴落を機に発生した世界恐慌は、やがて第二次世界大戦へと発展します。その第二次世界大戦で大きな戦力となったのが「戦闘機」、つまり飛行機でした。そして、いまや戦争の勝負を別けるのは、飛行機以上に、「情報」です。
真理を探る上で、知の源泉である情報は、人工衛星という神の目を張り巡らし、ひとびとの行動を細かく探り、さらに予知能力をもった人工知能(AI)と結びつくことで、ドローンなど無人兵器を駆使した武器を生み出しました。また、インターネットを通して発信した意図的な誤情報は、ひとを攪乱させ、ひとの心に疑心暗鬼を生じさせます。
科学が権力者、絶対的な力を手にした者に占められたとき、悲劇が起きます。その最たるものが、核兵器です。

宇宙誕生の謎に迫る物理学は、原子核の解明による原子爆弾を生みました。いま、知の生物である私たち人類は、原子核を使った兵器、核兵器をもつに至りました。核兵器は、科学の知の究極の形といえるかもしれません。
その「実験」がなされたのが、第二次世界大戦であり、それが実際に使われたのが、1945年8月のわが国の広島と長崎でした。

科学の飛躍的な進展が見られた20世紀は、人類の幸福と繁栄という夢と、地球生命の終焉をもたらす絶望という科学の「二律背反」が明らかになった時代です。
21世紀は当然その延長にあり、今後、私たちは、核とどう向き合うのか、権力者の自由気ままな手に核の鍵を委ねることなく、どう管理し、どう制御するのか? とても大きな課題です。
私たちは科学の「二律背反」という谷、すなわち幸福と破滅といういわば暗く深い谷を前にし、ここにどういう橋を架けたらいいのか? その解決のひとつのヒントは、ひとに備わったしなやかな能力、感性です。

普段使っていることば(ことのは)は、知らず知らずのうちにそれまでの歴史を背負っています。ことばを操る動物である私たちはことばの歴史性に囚われているといえます。

パプアニューギニア、ニューブリテン、ニューカレドニアなどの国名は、本来それぞれの地域の歴史を正しく表しているか? 地名につく「ニュー」の次にくることば、「ギニア」「ブリテン」「カレドニア」は、どこからかやってきた他のひとが制服し、新たな領土と宣言した歴史性の証です。
それを「植民地」と言ってしまえば簡単ですが、「植民地」ということばそのものが、もともとその土地に暮らしていた民の歴史や権利を剥奪した上で成立しています。「未開」な地に暮らしていたひとたちに歴史はなかったのか? もちろん答えは「ノー」です。絶対神でなくても、素朴ながら信じる神は存在したのです。

こうした意味から、叙事詩ほのほつみでは、いったん、近代国家の歴史を背負った国名や地名をリセットしてみました。そして、「植民地(主義)」、国家による「戦争」などということばも極力使わないで多面的な視点で創作できないか? そうした条件を自らに課しました。すると、大きな力に隠されていたことばが輝きを持ち始めたのです。
そうした歴史から解放すると、別の顔が見えてくる。化粧した顔でなく、すっぴんの素顔が。それどころか、絶対神以前の素朴な神を感じるひとびとは、驚くばかりのあでやかな仮面を付けていたりします。

スーパーカミオカンデに備えられた素粒子をとらえる光電子増倍管。
5分でわかるスーパーカミオカンデ」より

幻想ファンタジーとして戦を語る

叙事詩ほのほつみで、近現代史の戦争を「戦」として書く、その際に、国家名や地域名を「仮」とするもっとも大きな理由は、神々の視点、そのまなざしをもっと多くの方に、より身近に感じてもらいたいという思いからでした。
神々の視点は、叙事詩の本質そのものです(「叙事詩ほのほつみ」について(2) 語り伝える「叙事詩」、なぜ「いま」必要なのでしょう?

それは、現実を越えて真実に触れる「幻想ファンタジー」です。
その構造は、SF、つまりSience Fantasyも同じです(Sience Fiction だという向きもありますが……)。

戦争の事実を語れば語るほど、辛くなります。当然です。どんな兵器を使っても、殺されるのはひとであり、そこに棲む生き物であり、破壊されるのはひとの暮らす都市であり、焼かれるのは多くの生き物が棲む森です。
幻想ファンタジーは、一見するとそうした辛い事実から目を背け、オブラートで包みこむように思われますが、そうではありません。いやいや、それは戦争の実態を直視しな現実逃避なのでは? そんな声があるのは重々承知です。
そうした声をすべて受け入れ、あえていえば、幻想ファンタジーは、立場の違いを超えた真実を描き、語るものです。

なぜ人類は、何度も何度も同じ過ちを犯すのか? なぜ戦で、ひとを殺めるのか?
その真実を、闘う者の立場を越えて、辛さの向こう側にある真実を「見・誤らず」にとらえ、伝える、それが幻想ファンタジーです。

原子核よりもさらに微小な素粒子を「見・誤らず」にとらえるために、さまざまな仕掛けがあります。そのひとつ、スーパーカミオカンデに据え付けられたのが「光電子増倍管」という目です。何万トンもの純水に充たされた闇のなかの目は、そこを通りぬけた素粒子の奇跡をとらえます。重要なのは、この奇跡を「見・誤らず」、真理を正しく見いだす科学サイエンスの知です。ひとは、「光電子増倍管」という目で「見る」、つまりひとの感性を抜きに真理に到達できないのです。

科学がもたらす二律背反、人類の幸福と人類の破滅の間の暗く深い谷を前に、私たちは、幻想ファンタジーとしての叙事詩の語りに耳を傾け、どうすればひとは破滅から救われるのか。繰り返されてきた戦の本質、真実を「見・誤らず」に、戦の真理を感じ、とらえる必要があります。

叙事詩ほのほつみが、「そう仮にここでは●●としよう」という理由のひとつはここにあります。

「叙事詩ほのほつみ」をより深く、より楽しみたいという方に以下をお薦めします!

5つの場ごとの物語のあらまし
語り伝える「叙事詩」、「いま」なぜ必要なのでしょう?

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