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自分の本が書店に並んだところで、世界など変わらない

●初めて書店に自分の本が並んだ日

初めて書店に自分の作品が並んだときは、とにかくワクワクした。この舗装された道は遥か遠くまで真っすぐ開けているように見えた。

(私は小説家デビューする前に、アート系雑誌に作品を採用してもらったり、コラムが雑誌に載ったりしていた)

そして、初めて小説が掲載された雑誌が書店に並んだときは、ましてや単行本が書店に並んだときは、世界が変わると思った。 

世界が変わると、思ったんだよ。

でも、そのうち、そうではないと気づきはじめた。

執筆中心の生活を送ったために貯金を食い潰した頃、
バイト先であるモデル事務所で、つけていたFMラジオから、友達のミュージシャンの曲が「注目曲」として流れてきた。一日に何度も。

そのときは、大好きな友達の成果が心からうれしかったけど、

同時に、嫉妬で爛れた内臓を吐きそうだった。

同じバイト中、表参道を自転車で横断していると、例の友達たちがマネジャーさんと一緒に歩いてきた。 

「おー! あやちゃん。どこ行くん。ようバッタリ会ぅたな。アガるわ! 俺ら? 俺らは今から(レギュラー)ラジオの収録やねん。お互いがんばろな!」

彼らの才能も、彼らがどれだけストイックに頑張ってきたかも知っているので、その成果は当然だと思ったし、うれしかった。そして何より誇らしかった。

でも、やっぱ、猛烈に悔しかった。

いつか私も! 作品でそこへ、陽の当たる場所に行きたい。

   ***

●「出版契約書」を破り捨てた日

初めて「出版契約書」を破り捨てた日は、
世界なんか変わらないと痛感していた。


この契約書を手元に残しておいたところで、重版がかからないなら価値がない。ただの記念品。つまりゴミだ。

何年もゴミにすがって、無様だったよ。

そして最近、出版契約書をシュレッダーに入れたときは、心が慣れていた。


「販促するのはいいですが、編集者さんは忙しいので、頼らないでください」

やんわりと関係者に言われたが、私は頼っているのではなく、自分が打てる手を検討し、コストが許す限り全部やる。
その判断材料となる情報が欲しいだけだった。

何より、私は編集者を生業としているので、どれだけ忙しいかなど身をもって知っている。

コロナ禍で20万円弱の自腹を切って販促をした。

たった1人でも、心に届けられたなら、ドブに捨てたとは思わない。

でも、もう分かってる。
世界なんか変わらない。
信念を待って書いたって、目の前に道もなれけば、扉も開かず、本当に読んでほしい人に届けられない。
私には味方だっていないことだろう。

それでも書きたい。
小説を書きたい。小説を書きたい。

私の背後では、子供の頃から常にもう1人の自分が私を眺めている。
号泣するほど辛い時も、「美味しい!(ネタになる)」と無邪気に笑っている。

世界は違和感に満ちていて、同時にまったく実感がない。

私は「恋バナ」と「愚痴」を聞かなければならない時間が心の底から嫌いなので、昔から同性の友達が極端に少ない。

私は自分を、小説のネタを集め、映像を受信する磁石だとしか思っていない。

●小説を書くにはたくさんお金がかかる

そして私の場合、小説を書くにはたくさんお金がかかる。

書いている間は社会性をほぼ失うので、ありがたいことに今、個人事業主としていただけているお仕事をセーブしなければならないし、清潔かつ簡素に整った、静かな環境も必要。
糖質を摂ると無駄に血糖値があがって眠くなるので、食べ物にも注意が要る。

世に出ていないから誰も知らないけど、
これまで書いていない日なんかない。

けれど、
仕事の前後に数枚でもまとまった分量を書けるほど、言葉が余るような質、量の仕事なんかしていない。
(自分の実力やエネルギーの問題はあれど)

だから、まとまった日数と環境とフィジカルを揃えるには、少しまとまった費用と、個人事業主としてのリスクを負うことが不可欠だ。

さて、来月に1日だけ、小説を書くための環境を買えた。

そのために目の前の仕事を完成させる。
これが今の私のすべきことだ。
一見遠回りのようだし、小説を書いたところで費やした時間とお金と労力をドブに捨てるようなものかもしれない。

でも、書く。


    ***

●作品を好きでいてくださる数名の方

最後に、ここまでお読みくださったあなたと、
昔からずっと、作品を好きでいてくださる数名の方に心から感謝します。
見つけてくださって、言葉を受け取ってくださるあなたに。

「本気で書いた小説が、届いている」
この感触が、私の命の少なからざる支えです。
ありがとう。


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