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【連載小説】湖面にたゆたう(島田荘司「丘の上」の続編)__プロローグ_第一章

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■プロローグ

 「僕ね、子どもの頃に、誘拐されたことがあるんですよ」

  つけっぱなしのテレビ画面の中で話す青年の声を、沢島友子は電卓を叩きながら聞くでもなく聞いていた。出演者たちから驚きの声が上がる。家計簿を見る視界の端で捉えた画面には、ブルーを基調とした背景のスタジオが映っている。司会進行役である有名お笑い芸人を中心に出演者たちが五、六名、左右に広がるように座っている。薄くスモークのたかれた床から一段高い舞台は畳敷きになっていて、茶の間をイメージしたのだろう、出演者たちは紺色の座布団に座り、彼らの中央にはちゃぶ台がちんまりと置かれている。

 不定期に放送されている怪談バラエティ番組だ。友子も何度か目にしたことがあった。

 芸能人たちが実体験ないしは実際に身近な体験者から聞いた話を順番に語っていく。ジャンルは心霊体験だけでなく、「人怖(ヒトコワ)」といって、生きた人間の行動が引き起こす恐怖体験についても語られる。想像するに、青年の話は後者に当たるのだろう。

 普段は深夜近くに放送されていたような気がする。友子がテレビの横の置き時計を見ると、まだ一九時を過ぎたばかりだった。ゴールデンウイーク中の特別番組として、早い時刻に放送しているようだ。そのためか、普段は芸人中心である出演者の中に今夜は、怪談を話すイメージのないタレントや未成年と思われるアイドルや若手俳優もいる。

「正確に言えば、誘拐されかけた(・・・)んですけど」

 そう続ける青年もその一人だ。整った中性的な顔立ちは、どこかで見覚えがある。やや三白眼の小さなアーモンドアイが涼やかで、薄めの唇と、華奢な背中を伸ばして正座している姿が上品だ。

「誰だったかしら」

 画面の手前には出演者の名前が書かれたロウソクが並んでいて、順番がくると不穏な節で話者の名が呼ばれ、火先が周囲よりも細長く伸びる。先ほど「さとみ」と聞こえてきたような気がするが、はて、その名前に聞き覚えはない。

 出演者のロウソクを友子が見比べると、アップになった青年の顔の横にロウソク型のテロップが現われ、大きく名前が書かれていた。

「里美淳」

「さとみ、じゅん? 女の子みたいな名前ね」

 小さく頷くと家計簿に再び目を落とそうとして、ふと友子の背筋を冷たいものが走った。

「里美、淳?」

 友子は弾かれたように立ち上がった。脳裏で記憶が首をもたげ、像を結んでいく。釘付けになった視線の先で、青年は涼やかな表情のまま、話を続けている。

 

   ***

 

 当時僕は小学校三年生で、わりと家が近い1つ年下の友達とよく遊んでいたんです。その子を仮に光司君としますね。光司君の家は丘の下にあって、けっこう急な坂道をずっと下ったところにあったんですが、なぜか丘の上にある僕のマンションの前でばったり出くわすことが多くて、いつのまにか仲良くなりました。彼とお母さんとが近所を散歩する光景もよく目にしていました。

 で、何がきっかけだったか忘れてしまったんですけれど、光司君が「近所に坂井じいさんっていう、面白い人がいる」と言うので、2人でそのおじいさんの家に遊びに行くようになったんです。

 

 家と言っても、離れと言うか、母屋の横にちょっとした小屋が建っていて、とにかくボロボロなんです。外壁の表面は古くなってめくれていましたし、中は窓を開けても少し湿気がこもるような具合でした。しかも、結構大きな鳥の剥製だとか化石が壁じゅうに並んでいるんです。幾つか爬虫類のホルマリン漬けもあったりして。気味が悪かったんですけれど、子供にとっては魔法使いの館みたいで面白かったんですよね。

 今思えば、おじいさんは僕に対する距離が近すぎるというか、やたら僕の写真を撮ろうとしたり、膝の上に座らせようとしたりと、何というか、少しヤバい人だったんです。けれど、僕自身の祖父は僕が生まれる前に亡くなっているので、なんだか自分にもおじいさんができたみたいで嬉しかったし、老人の子どもに対する接し方って、このくらいが普通なのかなと思っていたんです。

 十月下旬のある日、おじいさんが剥製の作り方を教えてくれると言うので、たまたま僕1人でその小屋に遊びに行ったんですね。今思えばありえないんですけれど、出されたお菓子を食べながら話を聞いているうちについウトウトしてしまって、気づいたら真夜中まで眠り込んでしまっていたんです。

 パッと目覚めたら壁掛け時計の長針と短針がもう少しで重ろうとしていて。もうパニックですよ。とにかく「家に帰らなきゃ、お母さんに叱られる!」。その一心で小屋を飛び出したんですね。

そんな僕を心配してか、おじいさんが後から追いかけてきたんです。でも、彼の足では速く走れないんですよね。僕としては一刻も早く帰りたいわけですから、「一人で帰れるから」って言って、挨拶もそこそこに、夜道を家に向かってバーッと走ったんです。道に沿うように近くを川が流れているせいか、辺りには霧が立ち込めていました。たまたまその晩は満月だったので、数メートル先まではかろうじて見渡せたんです。

 川に交差するように線路が通っていて、おじいさんの家から僕の家までの間、距離でいうと残り三分の1に差し掛かった辺りに、線路の下をくぐる形でこじんまりしたトンネルがあるんです。今思えば真夜中に1人でそこを抜けるのは怖いんですけど、そのときは夢中で駆け込んだんですね。

 すると、すぐに僕の後ろから追いかけてくる人の足音が聞こえました。おかしいんですよ、おじいさんにしては速いんです。トンネルの中に反響する足音がどんどん大きくなってきて、僕のすぐ後ろで聞こえたんですね。もうすぐトンネルを抜ける辺りだったんですけど、あまりにも怖くて足がすくんでしまって、僕、思わず振り向いたんです。

 そうしたらすぐ目の前に、僕に覆い被さらん勢いで女が立っていたんですよ。肩下くらいまで垂らした髪の毛はボサボサで、青白い顔に目が爛々と光っていました。そんな女が口元だけ薄笑いを浮かべながら、僕を睨んでいるんですよ。女は黒いトレーナーを着ていたので、まるで首から上だけトンネルに浮かびあがっているみたいで、めちゃくちゃ怖かったんですね。

 思わず悲鳴を上げそうになった瞬間、ふとその顔に見覚えがあると気づいたんです。あらためて見ると、光司君のお母さんなんですよ。

「なんでこんな時間に、光司君のお母さんがここにいるのかな」

 そう思っていると、彼女は僕から目線をわずかも逸らさずに、肩で大きく息をしています。そして、チリチリにうねって浮き上がった髪の表面を自分の手で撫でつけながら、「今からお家に帰るのね? だから急いでるのね?」って聞いてくるんです。

 誤解のないようにお伝えしておくと、光司君のお母さんはわりと綺麗な方なんです。髪が整ったところを見ていると、夜中に喉が渇いたか何かで起きた時に、キッチンの窓から外を走っている僕を見かけて、心配で寝間着のまま追いかけてきてくれたのだろう。そう思って、少し安心しました。

 光司君のお母さんは、「送って行ってあげる」と言って僕の腕をとって歩き出しました。でも、やっぱり、ちょっとおかしいんですよ。トンネルを抜けると普段なら道なりに坂道を登って行くんですが、光司君のお母さんはすぐ右手に曲がって細い石段をぐんぐん登っていくんですね。そこは昼間でもそんなに人通りが多くない場所なんです。というのも、その石段の先には神社があるんですよ。石段の脇には湧水の小さな滝なんかもあって、僕たちの呼吸に重なって水の落ちる音が聞こえてくるんです。一応、白銀灯はついているんですが、すごく怖くて。僕は何とか手を振り解こうとするんですが、光司君のお母さんは「大丈夫。近道だから。急ぐんでしょう?」と言いながら、僕の手をぐいぐい引っ張っていくんです。

 石段を上りきると正面に寺のお堂が建っていて、左手にお稲荷さんの鳥居が薄明りにかろうじて見えるんです。お堂の横にも社があって、二体の石像が祀られています。暗くて見えませんでしたが、社の奥にはちいさな横穴があって、その奥にも神様が祀られていると母から聞いたことがあります。でも、なんとなく怖くて、僕は一度も覗いたことがありません。

 光司君のお母さんは、ためらう僕の手を掴んだまま敷地の右奥に引っ張って行きました。彼女の手はすごく冷たくて、口元は笑っているんですけど目が笑っていないんですよ。時折僕のことを睨むように見るんですけど、どこか焦点が合っていない感じがするんですよね。さらに言うと、ときどき彼女から嫌な匂いがするんです。前に会った時には感じなかったのですが、この晩は甘ったるいというか、誤解を恐れずに言えば何かが腐ったような匂いが漂ってくるんです。

 見た目は絶対に光司君のお母さんなんですが、ふと、「この人は、本当に光司君のお母さんなんだろうか?」という恐怖に気持ちが揺れていました。

「近道なのよ。急ぐんでしょう?」

 僕の手を掴む力を一切緩めずに、こう繰り返している女。彼女は、本当に光司君のお母さんなんだろうか?

 本当は、知らない人なんじゃないだろうか?

 そもそも、人、なんだろうかーー?

 境内の右側には、有刺鉄線を網のように重ねた柵が張られていて、その下方は崖になっています。崖の下を、先ほどくぐってきた線路が走っているんです。光司君のお母さんは僕にその柵を越えろと言うんですね。

 でも、どう考えても僕の家とは逆方向なんです。僕は抵抗したんですが、彼女は「大丈夫。近道だから」の一点張りでした。それでも僕が嫌がり続けると光司君のお母さの声も段々ヒステリックになっていって、最後のほうはほぼ絶叫で、「やるのよ!」と怒鳴りながら僕の手を乱暴に引き上げたんです。その腕はトレーナーの表面を毛玉がびっしり覆っていて、何かの鱗のように見えました。髪の毛は乱れていて、女が何か叫ぶたびに例の嫌な匂いがしてきて僕は気を失いそうでした。女が線路に僕を突き落そうとしていると直感的に分かったんです。

 必死に腕を引き離そうと揉み合っているうちに、僕は右手首を有刺鉄線で引っ掻いてしまいました。

「痛いよ! もう放して!」

泣き声を挙げた瞬間、背後から男性の声が響きました。

「子どもから手を離すんだ!」

 そこには、おじいさんがゼイゼイ言いながら立っていました。おじいさんは女を止めようと、言い合いが続いているんです。早口だったので言葉ははっきり聞き取れなかったのですが、おじいさんは自分が代わりに「線路に飛び込んでやる」と啖呵を切ってくれました。「そうすればここいら辺は大騒ぎになる。もうあんたもその子を突き落すことなんぞできなくなるぞ」って。

 僕は意識が朦朧としてその場に立ちすくんでいたのですが、みるみるおじいさんは有刺鉄線の柵を越え始めたんです。啖呵ではなく、本気で言っていたんですね。

 おじいさんが柵を跨ぐと同時に、タイミング悪く右手から電車が走ってきました。

 ガガガガーッ! と、金属が擦れ合う音が轟いた時に、柵の向こうでおじいさんが足を滑らせて宙吊りになったんです。

あぶない!

 僕は叫ぼうとしたんですが、まつ毛でさえ自分の意志では動かすことができませんでした。電車のライトに照らされて、おじいさんが有刺鉄線を掴んでいる両手から、血が大量に流れているのが見えました。その血に滑ったのか、片手が柵から離れた瞬間、おじいさんの足元に電車が滑り込んで来るのが分かりました。

 たった数秒だったのでしょうが、途方もなく長い時間に感じました。女は悲鳴を挙げながら身を乗り出して、おじいさんの手を掴んでいました。その声と電車の音が僕の耳の奥に反響していました。

 電車が通過して間もなく、なかば宙吊りになったまま、おじいさんがこちらに向かって大声で言いました。

「里美くん、この間に早く家へ帰りなさい!」

 彼の切羽詰まった声を聞いたのは初めてでした。柵越しにこちらを見つめる目が怖いほど真剣で、駆け寄ろうとする僕を瞬時に制しました。そこからどこをどう走ったのか、気付くと家の玄関で、母に抱きしめられていました。

 母が声を上げると、弾かれたように僕も大声で泣いちゃって。ケガはないかと僕の顔やら手をさする母と、その向こうで棒立ちになって僕を見つめる父に、僕はしゃくりあげながら先ほどまでの事を話しました。

「母さん、その光司君とやらの電話番号を教えてくれ。事実確認も含めて電話をするから」

 父がそう言う横で、母は僕の顔を食い入るように覗き込みました。

「光司君? 光司君って誰?」

「知らなかったのか?」

「すみません」

「淳、光司君の連絡先は?」

 そう聞かれて初めて、僕は光司君の連絡先を知らないことに気がつきました。いつも家の前でばったり会っていたので、こちらから連絡をしたことがなかったのです。

「わからない」

「友達の家に遊びに行く時は、先方のお名前と電話番号をお母さんに伝えていくように言っておいてはずだが」

「ごめんなさい」

 父は小さく唸ると、僕の頭をなでました。

「ともかく無事で良かった。今日はもう休みなさい。そして、次からは必ず友達の連絡先を教えるように」

「はい」

 母に連れられて寝室に向かう時、リビングに見知らぬ大人が数名いるのが見えました。電話機につないだパソコンやら機械やらを、ヘッドホンをした人たちが見つめたり、何かを打ち込んだりしていました。

 

 ふと、里美の言葉は途切れ、その目がスタジオの床あたりに落ちた。

「そら大変やったね」

 司会進行役の芸人がしみじみ言うと、里美は静かに返した。

「話は、ここからなんです」

「どういうこと?」

 顔を上げると、再び口を開いた。その薄い唇の端が、わずかに震えている。

 翌朝、僕はどうしてもおじいさんが気になって、彼の様子を見に行こうとしたんです。すると母が「昨晩、お父さんがお電話したから大丈夫よ」って言って僕を止めました。

「でも、あんなにケガをしていたんだよ、夜のうちに具合が悪くなっちゃうかもしれないじゃないか」

「ケガ?」

 母が不思議そうな顔をするので、僕は昨晩あったことをもう一度話したんですね。すると母はやさしく笑って、こう言ったんです。

「ああ、それも大丈夫。あなたは怖い夢を見たのよ。坂井さんがそうおっしゃっていたわ」

「夢?」

 どうやら、おじいさんは家を飛び出して行く僕に追いつけず、そのまま見失ってしまったことを詫びたと言うんですね。僕から聞いた事件について父が尋ねると、そんな事実はない。

「きっと寝ぼけたのだろう」

おじいさんは、こう言ったそうなんです。

 でも、夢にしては生々しいんですよ。目覚めた後だって、身体のそこここに感触が残っていました。前夜、有刺鉄線に引っ掛けてできた傷も、母に手当てされたまま僕の手に残っていました。

 とにかくおじいさんの様子を見に行きたいと訴え続ける僕に折れて、母は菓子折りを持っておじいさんの家まで一緒に来てくれました。

 僕はその日学校休んでいましたので、お昼前くらいだったと思います。昨夜の霧はそれこそ夢だったみたいに晴れていました。目覚めたときから倦怠感が続いていたことと、道を辿ると昨夜の記憶が蘇ったので、僕は終始うなだれていました。

 ふと、トンネルを抜けた辺りから、アスファルトに黒く小さな点がぽつりぽつりと続いていることに気がつきました。はじめはさほど気にも留めなかったのですが、そのうちに、これが血痕だということが分かりました。主は道の途中で何度か立ち止まったのでしょう、1、2つだった染みが、数メートルごとにバタバタと重なっています。そして、おじいさんの家までその血痕は続いていました。

 母がチャイムを押すとおじいさんは玄関に出てきて、とても眩しそうに僕と母を見ました。しかし大人たちの挨拶はそっちのけで、僕の目はおじいさんの両手に巻かれた包帯に釘付けでした。

「ほら、あなたからも御礼を言いなさい」

「おじいちゃん、その手、昨日神社でケガしたんでしょう?」

「まだそんな事を言って」

 そんな僕たちを交互に見ると、おじいさんは微笑みながら言いました。

「これは離れを片付けていて、ちょっとだけ切ってしまったんですよ。それにしても、昨晩はよほど生々しい夢を見たんだね。それでも真夜中に一人で帰ったんだから大した勇気だ」

「だって、今も道に血が垂れていたよ。あのトンネルからこのお家まで続いていたんだから」

「それは、業者のトラックから油でも垂れたんだと思うよ」

 なおも食い下がろうとする僕を母が制し、おじいさんに見送られて僕達は家に帰りました。僕は光司君のお母さんにも話を聞きたかったのですが、夢だと信じている母はそれを許してくれませんでした。

 結局何も確証がつかめないまま帰宅して、僕はそのまま熱を出して数日寝込んでしまいました。

それから十日ほど経った頃でしょうか、すっかり元気を取り戻した僕は、また光司君と遊ぼうと思い彼の家を訪ねました。もちろん、あの晩の事を彼のお母さんに尋ねてみたいという気持ちもありました。光司君の家で電話を借りて、母に連絡をすればいいと考えたんです。

 しかし、光司君の家はすでに空き家になっていました。両親に聞いてみましたが、二人とも光司君とは何の面識もありません。

「ほら、このマンションの近くを、髪の長いお母さんとよく散歩していたじゃない、あの子だよ」

「どんな方たちかな。お見かけしたかもしれないけれど、はっきりと覚えがないわね」

「前に、二人で僕をうちまで送ってきてくれたこともあったじゃない」

「いつ? ご挨拶をした記憶がないけれど」

「だって、エレベーターの中でバイバイしたから」

「それではわからないわよ。それよりも、知らない人をマンションの敷地内に入れてはいけませんよ」

「知らない人じゃないよ。光司君と光司君のお母さんだもの」

 こんな状態ですから、光司君一家がどこに引っ越したのかなど知る由もありません。あの一件以来、僕は母からおじいさんを尋ねるのを禁止されていたので、聞きに行くことも叶いませんでした。

 学校で友達にも聞いてみたのですが、学年が違うためか、みんな口を揃えてこう言います。

「光司くん? 光司君って誰?」

 先生に聞いても埒が明きませんでした。そういえば僕、そもそも光司君が僕と同じ小学校に通っているのかどうかも知らなかったんです。

 あれから十年ほど経ちますが、以来光司君とは一度も会っていません。うちではなんとなく光司君の話はタブーになっていたのですが、つい最近、実はあの晩、うちに女性の声で「息子を誘拐した」と、身代金を要求する電話があったと聞きました。そしてあの晩、リビングにいた数名の大人は警察官で、いつでも逆探知できるように待機していたそうです。父はこの件も含めて坂井さんに確認し、「女性からの電話は無関係なイタズラで、良くない偶然がいくつも重なった」と決着したのだと言います。

 ただ、僕にはどうしてもあの体験が夢だとは思えないんです。一方で、事件の翌朝から、光司君の存在自体が跡形もなく消えてしまった。夢だと言うなら、一体どこからが夢だったのかと。僕は、未だに答えを出せずにいるんです。

 

「それ、ひょっとしてテレビで言わんほうがええ話ちゃうか」

 大物お笑い芸人の言葉を皮切りに、他の出演者からもざわざわと声が上がった。

「夢だったとしても気持ちが悪いし、本当だったとしたら誰か、大人が何かを隠しているような気がする」

「そうなんですよね。夢だったなら、僕の引っ掻き傷の辻褄が合わないんです」

 出演者たちが首をひねる。ほどなくして、里美の名前が書かれたロウソクの火が大きく揺れ、話の終了を告げた。

 コマーシャルを挟み、話者が次の人に変わっても、友子は立ったまま動けずにいた。

 あの頃、毎日のように見上げていた丘の上の白いマンション。その洗練された外観や、我が家など丸ごと収まりそうな広々としたエントランス。そこによく映える上品なシャンデリアなどが、否が応でも蘇る。あの三階に、里美少年は住んでいた。

 きっと寝ぼけたのだ。そう思いたいのは友子のほうだ。網の目をくぐったつもりで、今日まで走り続けてきた。遥か彼方に捨て置いてきたはずの事が、もう一人の当事者の中で脈々と生き続けていた。そのことに背筋が凍る。

「あれから、十年になるのね」

 テレビ画面を見つめたまま、友子はつぶやいた。

 

■第一章

 

 沢島一家が、成城学園から約十キロ離れた都立大学に引っ越したのは十年前。里美少年が先程テレビ番組で話していた誘拐未遂の一件から、約一週間後のことだった。

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