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「地下鉄で隣に黒人が座ったら」を読んで

「地下鉄で隣に黒人が座ったら」、読みました。

マイクロアグレッションとは、マイノリティの人々を無自覚に傷つけること。
その体験を伝え、反響を呼んだ韓国発の漫画エッセイ。

「差別」。
皆さんにとって、どのように響いてくる言葉でしょうか。

差別とは、自分たちとは異なると感じた人々をグループに分類し、自分達と異なる扱いをする、あらゆるアクションのことを指します。
それは、「その他の人たち」として意図的に対象化し、自分たちから切り離して比較するという概念です。

「地下鉄で隣に黒人が座ったら」

『ここが違うから、この人は「その他の人たちだ」』と線を引く。
「ここが違うから」の「ここ」の部分。
それが、見た目とか使っている言語を基準にしたものだと、わかりやすく「差別」と感じるのではないかと思います。
でも、たとえば『価値観が違うから、この人は「その他の人たちだ」』と線が引かれるのを見たとき、それを「差別」だと感じますか?
肌の色や性別のように線が引かれやすいものではなく、「一人ひとり違うよね」と言われるような「価値観」で線を引くことなら、「差別」にならないのでしょうか。

僕たちは、日々どのように他者に接しているのでしょう。
目の前の人と自分は「どこが同じ」で、「どこが違っている」と(無意識にも)判断しながら接しているのかもしれません。
肌の色も価値観も一人ひとり違うものなので、線を引くのはきっと簡単にできることです。
「差別」とは、その「線を引くこと」の先にあるもののような気がします。
先に引用した言葉にもあるように「アクション」や「比較する」ということが伴って「差別」になっているのではないでしょうか。
皆さんはどう考えますか。

目の前の人のことを「その人」として接する。
それは、ラベリングせず、カテゴライズもせずに接すること。
それは、「他の誰でもない人」として、自分とも他の人とも線が引かれた存在として見ること。
その人と自分、他の誰かとの間に引かれた線は、どれほどに太く強いものでしょうか。
僕は、人と人のあいだにある線は脆く、時に消えたりするものなのではないかと思います。

違いを見ないことでは、差別をなくすことはできないと思います。
違ったり、線を引き合ったり、その先にある差別的な言動。
それらを見つめた上で、自分はどう他者と接するのか。
その選択について学び続けることが、差別をなくしていくプロセスになるのではないでしょうか。

考えるきっかけをくれる本です。

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