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自分の「世界への触れ方」を知り、自分とは違う「世界への触れ方」をする人と共に生きていく

ON READINGさんでの『去年の今日』刊行記念 長島有里枝 朗読&お話会へ参加した。
小説の著者の方が朗読されるのを聞くのは初めてだったが、とても面白かった。
参加する前のイメージでは感情は込めずに読まれるのかと思っていたが、長島さんは心を込めて朗読されていた。

長島さんの朗読や参加されていた方とのお話を聞きながら、改めて小説の中で面白く感じられたところがある。
登場人物の未土里と未土里の母がラインでやり取りする場面だ。

やっぱり相談するんじゃなかった。
あとはもう自分で考えます。
父や亜季ちゃんにも、相談するなら自分でするから、もう放っておいてください。

未土里が母へ送ったラインだ。
はっきりと言葉にする人だなということが表れている場面だと思う。

どんなもので世界へ触れるのかというのは、様々なものがある。
未土里のように言葉を用いる人もいれば、視覚を用いる人もいる。
空間の人もいれば、肌の感覚の人もいる。
言葉の中にも色々とある。
話す、聞く、書く、読む。
どれも言葉を用いることだけれど、人によってどの領域が好き嫌いとか、得手不得手があったりする。

大事なのは、「自分はどんなもので世界へ触れたいのかを知ること」、そして「世界への触れ方は多様であり、そこに優劣はないと知ること」だと思う。

「言語化は大事なスキル」と言われていたりする。
言語化できることが崇められるのは、言語では共通認識が生まれやすいからなのかもしれない。
そして、それは間違いではないのかもしれない。
でも、「世界への触れ方」という視点から見れば、「言語」は一つの手段でしかない。
もっと多様な「世界への触れ方」があるし、その存在を忘れてはいけないと思う。

無数にある「世界への触れ方」の中で、自分はどんなものを用いるのか。
それは一人ひとりの先天的な資質、後天的な環境、様々なものが影響してくるのだと思う。
答えがあるものでもないし、自分の好き嫌いや得手不得手を超えて周りから求める声が強すぎて見失ってしまうこともあるかもしれない。
でも、諦めずに「自分はどんなもので世界へ触れたいのか」を知ろう、探そうとし続ける姿勢が大事だと思う。
好き嫌いを感じてみることや、楽に力まずにできることというのは先天的に与えられているものかもしれない。
僕にとっては、「書く」ということが自然にできることのように感じている。
得手不得手については、周りの人に聞いてみると見えてきたりもする。

自分はどんなもので世界へ触れたいのか。
自分自身でも探し続け、周りの力を借りながら知っていこうとする。
そうすることで、無数の中から見えてくるものがある。
「世界への触れ方」が無数にあるということは、自分とは違う「世界への触れ方」をする人がいるということだ。
誰かと生きていくとは、自分とは違う「世界への触れ方」をする人と共に生きていくことだ。
自分にとっての「世界への触れ方」が全てで、唯一のもので、至上のものとしてしまえば、他者の「世界への触れ方」を受け入れられなくなってしまう。
それは寂しい。
「言語化」も至上のスキルではないのだ。
自分とは違う「世界への触れ方」をする他者と共に生きる。
「この人はどんなふうに世界へ触れているんだろう?」
そんなことを考えながら、感じながら誰かと生きてみるのも面白いことだと思う。

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