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投げられなかったスローカーブ

急に気温が下がり、風も冷たくなった。
そんなマンションの駐車場の壁を
相手に軟式球で壁当てをする少年。

このコロナ禍の影響でなかなか
チームで野球をすることがないのか、
その表情はどこか暗く見える。

たまたま跳ね返ったボールが
それて郵便受けの近くにいた
私のもとへ転がってきた。

少年のもとにボールを
投げ返そうとして、ボールを握る。

左肩を上げた瞬間、強烈な甘い痛みと
ノスタルジーに襲われた。
もうボールを投げることはないと
思っていたのに。

頭を使って自分が変わらなければ、今も昔も生き残れない

20年ほど前のことだ。
高3の夏である。

私の背番号は10。
高校野球の経験者なら
察しがつくだろうが、
控えの投手の背番号である。

左投げということしか特徴はなく、
決して体格にも恵まれたわけではなかった。
ボールのスピードもなかった。

当時は2年生でも
自分より力のある投手がいて、
私が最後の夏の公式戦で登板できる
可能性は限りなくゼロに近い。


これが現実だった。


同級生のエースのような
スピードボールと切れ味鋭いスライダーで
バッターをどんどん三振に打ち取る。
そんなタイプを目指すことが
できないのは明らかだった。


どうやったら、
試合に出してもらえるような
選手になるか。

その頃からマーケティング的な
思考を持っていたのかもしれない。

ライバルのチームの選手を
競合商品に見立て、自分という
プレイヤーである商品をどう売り込むか。
差別化できるか。

そればかりを考えていた。
もちろんやみくもに練習に
打ち込む姿勢も必要だが、
それではフィジカルで劣る
自分はチームの中で居場所を失ってしまう。


2年生のときは、いわゆるベンチ
入りメンバーにも入れなかった
自分にとって、それは絶対に避けたいこと。


頭を使って、挑戦することを選択した。


当時はyoutubeやamazonといった
有益な情報媒体はなかった。

図書館や大型書店に通い、
投手のフォーム論から
メジャーリーガーも愛読したという
当時では珍しかった
野球のメンタルトレーニングの本まで取り寄せ、読み漁った。

本から伝わる知識を
行動に落とし込み、生き残る道を模索した。

頭を使って、ようやく見出したスタイル。
それはスローカーブを使うことだった。


速いボールが投げられないので、
打者のタイミングを外して
打たせてアウトをとるしかない。

そのためには、インパクトのある
変化球が必要だった。
いろんな握り方と
腕の振り方を試してたどり着いた。

また打者に対して角度のある
ボールをより良く見せるため、
サイドスロー気味で投げるようにした。
右打者のインコースに
うまくコントロールできれば、
カーブの落差も相まって大きな
武器になったのだ。


今のプロ野球でもそうだが、
左投げのサイドスローは非常に珍しく、
初見の打者は多少なりとも戸惑い、
打つ気をはぐらかされるものだ。

「無形の力は有形の力に勝る」

プロ野球の名監督として、
活躍された野村克也氏の言葉である。

自分が生き残るために、
腕力やもともとの体格といった
有形の力に頼るのではなく、
頭脳という無形の力を使って
「スローカーブ」という自分だけの
武器を手に入れたのだった。


この無形の力を使うという考え方は、
社会に出た今も大いに役立っている。

頭を使って、周囲の状況に合わせて
自分が変化していく姿勢をつらぬかなければ、今も昔も生き残れないと確信している。

こうして最後の大会直前の練習試合
の数試合では、短いイニングながらも
安定した成績を残すことができた。

消えた先発マウンド

そんなある日のこと、監督に呼び出された。 
「3回戦のH高戦、お前が先発だ」
体育準備室で白髪頭をぼりぼり
かきながら、もったいぶったように
彼は言った。

H高は200校以上参加する
地区大会の中で、毎年ベスト
16以上に入ってくるような強豪校だった。

まともにぶつかったのでは、
勝負にならないと踏んだのだろう。

私のようなスローカーブを投げる
変則投手を序盤で起用し、
相手打線のリズムとタイミングを
崩した後、本格派のエースを投入する
という作戦だ。

私はまっさらな公式戦のマウンドに
立てる喜びよりも、勝負に徹する
監督の姿勢を粋に感じていた。


いまでこそ、日本のプロ野球では
「ショートスターター」と呼ばれて
一般化している作戦である。

当時の高校野球でこれをやろうとしたのは
かなり革新的だった。
私にとって、ここまで
10年続けた野球の集大成の
試合になるはずだった。


「なるはずだった」


そう。残念ながら、これは幻に終わる。 

なんと2回戦で負けてしまったのだ。

練習試合では負けたことのなかった、
ある公立校にまさかの敗戦。

監督含め、チームのメンバーは
誰一人予想していなかった結末だった。

私は一度も公式戦に出場することはなく、
高校野球生活を終えた。

当然ながらスローカーブの出番もなかった。

思い描いていた「最後の舞台」は、
子どもが砂場で作った城が
もろくも崩れるように消えていった。

本当の挑戦者は、未完成の物語を持っている

あのとき、スローカーブを
投げられていれば、納得いく形で
終われていたのか。

わからない。

試合に出て、めった打ちにされて
苦い思い出になっていたかもしれない。

もしくは、強豪校を相手に
番狂わせを起こしていたかもしれない。

自分で編み出した「スローカーブ」
で公式戦で勝利し、チームに貢献する。

この挑戦は外から見れば、
結果的に失敗に終わったのかもしれない。

しかし、私は
これを「失敗」とは位置づけていない。

周囲の環境に合わせ、自分が生き残るためにスローカーブを編み出し、チームの居場所を見出したプロセスそのものに価値があったからだ。


スローカーブの習得のための情報収集の方法、トレーニングの工夫の仕方、受験勉強との両立のためのタイムマネジメントなど学ぶものがあり、それは社会人になってからも生きていくうえでの「自信のカケラ」になった。


あなたの挑戦の結末や結果の価値をすぐに決めつける必要はない。


試合の「勝ち」で終わるのか、「負け」で終わるのか。

「ハッピーエンド」で終わるのか、「バッド・エンド」で終わるのか。

多くのアスリートや結果を出しているビジネスパーソンは世間では「負け」や「失敗」と判断される経験を人一倍経験しているように思える。

決めつけず、未完成の物語として、
あなたの心の本棚に置いておこう。

世間の人は「あーだ、こーだ」と言ってくるかもしれないが、挑戦してきた過程に必ずあなただけが見いだせる価値があるはずだ。

たとえ小さくても、そんな挑戦した数々の未完成の物語は、あなたを将来成長させてくれる。

その本棚の物語を再び始めてもいい。

未完成でいいから、
こわがらずにたくさんの
挑戦物語を紡いでいこう。

突然チャンスを絶たれたとしても、そこから得るものはあるし、次のチャレンジができる。


そして私のスローカーブの挑戦物語は、
未完成のままだ。

マンションの駐車場で
少年にやまなりのボールを投げ返した瞬間、
この物語を進めてみたくなった。

とりあえず、草野球チームを運営している友人に連絡を取ってみようかな。

まずはスローカーブの握りを思いだすことからはじめなきゃ。

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