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キリスト教徒を20年やって思ったこと

イエス・キリストの十字架と復活が自分の罪を贖う犠牲の愛だと信じ受け入れ救われてから、7月1日でちょうど20年になりました。神様の子とされて歩んだ信仰の道のりが守られたことに感謝し、僕の弱さの中に強さを表して下さった神様に栄光をお返しします。

19歳で信仰告白をしたのでクリスチャンとして生きた期間が人生の半分をちょっと超えたわけですが、まだまだなところもたくさんあります。イエス様の生き方を見習って、神様と隣人をもっと愛せるよう、日々悔い改め、古い姿を十字架につけ、心を新たにし生きていけるよう願い祈るばかりです。

自信をもって言えることは、イエス・キリストは人生をかけて従うに値する方であるということ。イエス様に救われた罪を赦された罪人の集まりである教会は、生涯を共にするに値するということ。人生の苦難や悲しみの中でも聖霊様は神様の言葉を思い起こさせ、慰め、拙い祈りをとりなしてくださること。

神様は、自分を高くする者を低くされ、自分を低める者を高められました。神様の国とその義を第一に求める場合は、それ以外の必要は全て満たしてくださいました。自分の至らない部分、未熟な部分に忍耐して付き合ってくださり、人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きると学ばせてくださいました。

キリスト教についての知識、キリスト教界における人脈、ジャーナリズム、情報技術、言語、地頭、その他諸々の能力において僕より優れた人は、たくさんいますが、神様は劣った僕を敢えて選んで、献身の道を歩まされました。なので神様に頼って、小さくとも、やれることはできるだけしようとしました。

ただ、献身の働きの中で、できたはずなのに、できなかったこと。もっとやれたはずなのに、やり尽くせなかったこと、そういうのを思い出すと、正直、役に立たないしもべで、ごめんなさい、という気持ちです。それでも愛して下さる神様の愛を信頼し、恥を晒しながらも、神の御前に日々出ていくのみです。

20年経過して思うのは、肉体は糧や環境があれば時間と共に自動的に成長しますが、霊は時間が経っても自動的に、成長するわけではないということです。神の言葉、イエスの教えを、愛を実行し失敗し試行錯誤し、学び、神に頼り、一歩前進する時、霊は一歩成長します。何もしない期間は霊も停滞します。

自分より後でクリスチャンになった人たちの中に、神に信頼し、素晴しい愛の実践に生きる人がいることを発見し、学ばされ、中々変わらない自分の未熟さに恥じ入り、彼らのようになりたいと願い、良い模範を得たと喜ぶ時も多くありました。ただ神様は、どんな人にも、その人に合った方法で導かれました。

自分が神と隣人を愛して生きること。愛の実践において成長することは重要ではあるのですが、それよりもっと重要なのは、その過程で、神様が自分にどんな恵みを施してくださったのか。神様がどれほどの愛と忍耐で自分を導かれたのか。それを自覚し、感謝し、証して、神様に栄光を返すことだと思います。

人は、物も、お金も、名誉も、自分の肉体さえも、死んで神の元に帰る時に、持って行くことはできません。ただ、言葉と行いで、神に愛され神を愛したことと、隣人を愛し隣人に愛されたこと。この愛のやりとりの思い出は今でも僕の宝物ですし、僕が死んでも天国に持っていける宝物だと信じます。

神と隣人との間で、やりとりした愛の思い出は、自分に固有の宝物であり、誰もこれを僕から奪うことはできないし、錆びることも腐ることもない、たとえ死んだ後でも続く、永遠に保たれる宝物です。イエス様に救われ、神の敵から、神の子に変えられ、自分はこの宝をいくらでも得る機会を与えられました。

神や隣人との間で、愛を受け取ったり、愛を与えることを行動で実践する機会は、自分の意思次第で有効に活用することも、何もしないで機会を逃すこともできてしまいます。愛の実践は大小の犠牲を伴います。自分は少しでもイエス様に倣いたい。機会を活かして、神と人を行動で愛せるようになりたいです。

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