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ぶつかってくる教理警察

寺に突入してお坊さんに「あなたが信じてる宗教は間違った教えですよ」とは言わないクリスチャンが別のクリスチャンにツイッターで「あなたが信じてる教理は間違った教えですよ」と言えてしまうのは駅でぶつかってくるおじさんと同じ理由で自分がぶつかっても大丈夫そうな相手を選んでるってことなの?

駅でぶつかってくるおじさんは相撲部屋に突入してぶつかり稽古することは決して無い。お相撲さんはおじさんより体格も大きいし力もあるから。しかしおじさんは自分より小さく弱い女性を選んでぶつかってくる。自分の中にある問題のはけ口として自分より弱い相手に加害している可能性はないのだろうか。

僕もツイッターやってるので「これは自分が信じてる内容とは違うな」と感じるツイートを見ることは多いですが、道で歩いてて寺を見るのと同じで、祈り神様に委ねます。神ならぬ人間にすぎない自分には人を変える力も権限もないと思うからです。自分で気づく時を神様が与えてくださるはずだと信じます。

自分の信じてる内容こそが、神様の御心であるという確信があるなら、その内容を神様が「その間違った教えを信じている人」に悟らせる機会を与えてくださるとも僕は信じます。それができないほど神様は無能ではないし、それをしないほど神様はその人を愛してないわけではないと、神様を信じるからです。

自分が信じてるAという教理があって、それと違うBという教理があるなら、その人に直接「Bは間違っている」と言って関係を壊さなくても、自分が「Aが正しい」と主張すれば伝わると思います。またAかBかを選択できる自由が与えられてこそはじめて自分の意思で無理やりではなくAを選択できると思います。

正しい教理で論破しても人はその間違った教理を捨てないと思います。それは正しい教理が間違ってるからではなくて、論破しようとすること自体が「隣人を愛しなさい」という戒めの実践にならないからです。愛は無理強いをしません。神の愛は忍耐強く待つ愛です。放蕩息子を待つ父親のように待つ愛です。

間違った教理を信じてしまった人は放蕩息子のように大変な結末を迎えるでしょう。全知全能の神はそのような環境をその人に用意して、他人に言われなくても、自分から間違いを悟るように導くのでしょう。それが神の忍耐と愛であると僕は信じます。だからその人が悔い改めて戻ってきた時は受け入れたい。

放蕩息子の兄が望んだのは間違いにふさわしい処罰だったのではないでしょうか。両刃の剣より鋭い神の言葉を手にうろつき間違った兄弟を見かけては辻斬り成敗する教理警察に、神様は僕を任官したことはないし、そんなのしたくないし、できません。罪人の自分にできることは罪人の友になることだけです。

画像:レンブラント『放蕩息子の帰還』


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