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『寄生獣』から考える人類と文明 闘争から共生へ、そして新たなる生命システムの誕生


岩明均いわあきひとしの原作マンガ『寄生獣』の連載(月刊アフタヌーン)が佳境に入った頃、ある週刊誌(確か「週刊SPA!」だったと思う)で特集が組まれた。
作品についてコメントを寄せた識者の中に経済人類学者、栗本慎一郎くりもとしんいちろうの顔もあった。

コメントで栗本はマンガ「寄生獣」の内容を高く評価しつつも、この先物語が宇宙へ飛び出すような展開を危惧していた。
おそらく、人気作のため連載期間が伸びて、よくあるダメなSF作品のように話を広げ過ぎて、寄生生物の母星と宇宙戦争で決着、みたいな結末にならないか心配だったのだろう。

栗本の危惧をよそに物語は最後まで地球上で展開し、日本マンガ史に残る奇跡のような大団円を迎えるわけだが、栗本が「寄生獣」を高く評価するのは、ある意味当然というか、評価しないほうがおかしいくらいだ。
というのも、ちょうどマンガ「寄生獣」の連載が始まった時期に出版された栗本の著書『パンツを捨てるサル』(光文社1988年)、『意味と生命』(青土社1988年)とネタがかなり被っているのである。

生物は遺伝子の乗り物だとする、リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子説」。
生物の細胞内に病原体として別の生物の遺伝子が入り込み、のちに共生するように進化したとする、リン・マーギュリスの「細胞共生説」。
中原英臣なかはらひでおみらが提唱する、生物はウイルスに感染して進化したとする「ウイルス進化論」。
地球が一個の生命体だとするジェームズ・ラブロックの「ガイア仮説」。
「生命の起源は地球外から来た」と考えるフレッド・ホイルらが提唱する「パンスペルミア説」。
そして、栗本慎一郎の自説でもある生命と進化についての経済人類学的「層の理論」。

このうち、空から寄生生物が降ってくる「寄生獣」のオープニングは「パンスペルミア説」そのものであり、生態系についての考え方も「ガイア仮説」の影響を思わせる部分がある。
「利己的遺伝子説」については、作中で直接説明される場面もあるが、作者である岩明均がこれらすべてを参考に「寄生獣」を描いたわけではないだろう。
だが重要キャラである、寄生生物「田村玲子」(※注1)の言動に注目することで「寄生獣」という作品の背景にある世界観、生命観はおのずと見えてくる。

存在論的、寄生的


寄生生物である田村玲子は、人間の赤ん坊を出産、子育てする中で自意識に目覚める。
地球における自分たち寄生生物の存在の意味について考え始めた田村玲子にとって、ミギーとシンイチは無視できない「変種」だろう。
ミギーは正常な寄生ができずに、人間の右手となった寄生生物の失敗作だが、脳に寄生した田村玲子と同じくらい理性的で好奇心も旺盛だ。
しかも人間であるシンイチと協力して他の寄生生物に勝る戦闘力を発揮するのである。

シンイチに「おまえ……わずかだが混じっているな」と告げる田村玲子は、寄生生物と人間、二つの生命の融合、一体化に気づいている。
たとえ寄生生物に備わった本能が「この「種」(人間)を食い殺せ」であったとしても、別の道もあり得ると理解したのだ。

「あわせて1つ」
「寄生生物と人間は1つの家族」
「我々は人間の「子供」なのだ」
田村玲子の死の直前の台詞は、地球上で人間と寄生生物が補完的な関係にあり、人間こそが寄生生物を生み出した可能性をも示唆している。
寄生生物は地球を汚染する人類への生態系からの警告であるばかりか、増えすぎた人間を間引いて減らすことから、意外にも人類の存続に必要な存在かもしれないのだ。

人間≦寄生生物≦寄生生物+人間≦新生物


人間寄生生物融合────。
そこに「細胞共生説」や「ウイルス進化論」との類似性を見るのはたやすい。
自然界では生物の体内へ敵対的に入り込んできた他の生物と、いつの間にか共生的な関係が成立し、やがて一つの生命となる現象があるという。
われわれの細胞内のミトコンドリアも、過去にそうした共生が生じた証拠だと考えられる。

「ウイルス進化論」においては、生命の危機に陥るようなウイルス性の病に侵された個体の中から、病を乗り越えて進化が起きるとされる。
(たとえば、光合成ができなくなる病気にかかった植物が自ら動き回って栄養を摂取する生物=動物に進化したとか)

「ミギー」も最初は人間・泉新一の脳を狙って、敵対的に寄生しようとしたが、激しい闘争の末、右手しか奪えなかった。
生存するためには人間の生き残った部分「シンイチ」と協力関係を築くしかなく、そうして誕生した「ミギーとシンイチ」は単なる寄生生物でもなく、また純粋な人間でもない。

「ミギーとシンイチ」は人間と寄生生物がただ合体しただけではなく、別のシステムで生きる別の生き物に進化したのだ。

経済人類学は「寄生獣」を知っていた

か?

「ミギーとシンイチ」は、寄生という人間にとっては病であり、肉体の自由を奪われる不利な状態を、異種間の協力、共生によって乗り越えてしまった。
これを経済人類学的「層の理論」で解説すると以下のようになる。

* * * * *
人間と寄生生物という二つの生命を「諸細目しょさいもく」として、それを統合する新たな生命のシステムが、すべての生命に内在する「暗黙知あんもくち」の導きによって「創発そうはつ」した。
* * * * *

何を言っているのかわからないだろうが、安心してほしい。
実は筆者もよくわかっていない。

暗黙知は「言葉では説明できない知識」とか「経験で培われる勘」のような意味合いで、今日教育やビジネスの場でよく使われる言葉だが、経済人類学が言うところの「暗黙知」は「内知ないち」とか「深層の知」とも呼ばれ、生命にもともと備わっている直観のようなものとされている。

栗本慎一郎(ネタ元は科学哲学者マイケル・ポランニー)の「暗黙知理論」によれば、われわれは外から知識(外知がいち)を与えられなくても、あらかじめ世界のすべてを知っていることになる。
科学的発見や、進化のような生命現象も、この「暗黙知」※注2)によって起こるとされ、この不可解さが栗本流経済人類学がトンデモやスピリチュアル系と誤解される原因でもある。


層の理論の図
栗本慎一郎『パンツをはいたサル』(光文社1988年第二版)より

話を「寄生獣」に戻そう。
「ミギーとシンイチ」のような存在は他にもいる。
ミギー同様、脳を奪えず、宇田うだのアゴに寄生した寄生生物「ジョー」。
韓国版のスインの半身に寄生する「ハイジ」。
もしかすると、寄生生物が寄生に失敗することは、別段珍しいことではないのかもしれない。
しかもミギーもジョーもハイジも、普通の寄生生物よりも強く、頭脳も明晰なのだ。
特にミギーと融合が進んだシンイチは、人間離れした身体能力を身につけ、その精神も人間のそれから超冷徹へ、思考も超合理的へと変化して、進化の最前線を突っ走っていく。

人間と寄生生物の間で、このような共生が頻繁に起こるようになれば、それはもはや「変種」ではなく、新しい「」の誕生と言えよう。(※注3

しかし────。
かつて他の霊長類を追い越して進化した現生人類(ホモ・サピエンス)のように、「ミギーとシンイチ」たちが集団で人間を抜き去っていく日がやがて来るとしたら、それは寄生生物に捕食されることよりも、はるかに恐ろしい事態ではないだろうか。
現実の世界では、さすがに数十年、数百年では人類の進化は起きないだろうが、数千年先ならば、どうなるかわからない。
われわれは未来に誕生するだろう新種の生物に、サル扱いされずに死ねる短い人生に感謝すべきなのかもしれない。

(終)


※注1 寄生生物「田村玲子」は、最初「田宮良子」の名でシンイチたちの高校へ数学の教師として赴任してきた。「田宮」と「田村」という姓から思い出されるのは、名門大学病院を舞台に医学界の光と闇を描いた、山崎豊子原作の映画『白い巨塔』(1966年版)である。この時の配役が、主人公である出世欲に憑りつかれた天才外科医「財前五郎」を田宮二郎が演じ、その親友で良心的な内科医「里見脩二」を田村高廣が演じた。「田宮良子=田村玲子」の凶悪な寄生生物と理知的な人格という二面性は、ここに由来があるのかもしれない。シンイチのガールフレンドが「村野里美」であることからも、そこに何らかのインスパイアはあったと思われる。

※注2 2014年だったと思うが、横浜で栗本慎一郎の業績を振り返る「市民講座」が開催された。私はその会場で札幌から飛行機で駆けつけたM氏と出会い、出身地が同じということもあり意気投合。古参のファン同士、目に焼き付けた栗本先生のお姿を肴に一杯やろうと電車で新宿へ向かう途中、なぜか「寄生獣」の話になった。
私が何気なくYouTubeで見た、外国人たちがアニメ版「寄生獣」を同時視聴する動画がおもしろいと言うと、
寄生獣って、暗黙知ですよね?」M氏は即座にこう返したのだ。
私は内心(え?ど、どういうこと…)と思いながらも、電車の揺れに任せて「あ、うん、そうですね」とうなずいたのだったが、以来ずーっとこれについて考えてきた。
在野の自称「栗本流経済人類学の徒」の一人として、あの時感じた疑問を解こうと今回この文章を書いたわけだが、これではまだまだだな、と私の暗黙知は囁いているようだ。

※注3 「層の理論」では、個々の人間の「層」の上に、人間の集団である〝社会〟の「層」が重なることになる。社会はそれ自体が生命体であり、当然ながら人間とは異なる生命システムを持つ一匹の生き物、ということになるのだ。
栗本は、地球上の数ある社会=生物の中でも、西ヨーロッパ日本の社会は、他の社会とは異なる「自律的な市場社会」だと主張とする。
これは、西ヨーロッパにはユダヤロマなどの非キリスト教文化が流入、日本には蘇我氏などの渡来人が流入し、異なる文化を持つ勢力との対立関係、緊張状態が経済を成長させたという考え方だ。
他の地域でも異民族、異文化の流入は起きていたが、土地が広すぎて充分な緊張状態が持続できなかったり、大規模な衝突が起きて平原では山や森のように逃げ場がなく片方が全滅してしまったり、条件が整わなかった結果、自律的な経済圏が育たなかったというのだ。
つまり、西ヨーロッパと日本は、異質な文化との闘争の果てに共生へと至った「ミギーとシンイチ」のようなものであり、のちの近代社会、資本主義経済につながる新しい生命システムを獲得した社会=生物と言えるだろう。

寄生生物ミギーはシンイチに寄生することによって
人間から進化した新たな生命システムの一部となった


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