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ほいくじんファイル#1 江口颯良さん

「保育」と一口に言っても、子どもたちとの関わり方や培ってきたバックグラウンドはさまざま。保育の現場は、想像以上に多様な人・知恵・技術が交わる場所なのです。

「ほいくじんファイル」は、そんな保育の仕事の多様性を伝える連載企画。
「保育園」「幼稚園」「保育士さん」などの枠組みをはずして、保育という仕事に関わるユニークな「ほいくじん」にスポットライトを当てていきます。

第1回目のゲストは、2023年の2月までミシュラン二つ星のフレンチレストラン「ピエールガニェール」で料理人として働いていた、江口颯良(えぐち・そら)さん。
江口さんは、コロナ禍の緊急事態宣言でレストランが営業できなくなった2021年の1月に、突然思い立って、保育園の給食室で働くことを決めました。

そして今、江口さんが取り組んでいるのは、保育園や幼稚園での食育活動。
結論を急いだり、即効性やタイムパフォーマンスを重視する"ファスト文化”的な価値観が広がる時代に、料理を通して、時「間」や手「間」をかけて物事を味わう意味を伝えたい、そう話す江口さんが考える「食育」とはどういうものなのか、お話を聞いてきました。

江口颯良(えぐち・そら)
名古屋辻学園調理専門学校卒業。名古屋のミシュラン一つ星レストラン「La grand table de KITAMURA」、港区赤坂のミシュラン二つ星レストラン「Pierre Gagnaire Tokyo」勤務を経て、食育講師として保育園での活動を開始。「食を楽しみ続けられる人を育てる」をビジョンに掲げ、2023年に株式会社ravide設立。

高級フレンチ料理店から保育園の給食室へ

「小3の時に、テレビで初めてフレンチのシェフを見たんです。何だこの華やかな料理、オレも作りたいって思って」
そう語る江口さん。小学3年生のときにたまたま見たテレビ番組をきっかけに料理の世界を志しました。

そして、高校生の時に名古屋にあるミシュラン一つ星レストランの料理に感動し、そのまま直談判してアルバイトとして勤務。2年間必死に働いたのち、東京・赤坂にあるミシュラン二つ星フレンチレストランに移りました。

「ピエールガニェール」(港区赤坂)にて

その後、コロナ禍で店舗営業がストップした際にも「一流のシェフになる」という夢を叶えるため、江口さんはいくつもの高級店に修行に出向き、腕を上げていきます。しかし、夢に向かって邁進する中でとある疑問が浮かびはじめました。

「『自分が作る料理の価値は、高級店に来る一部の人にだけ伝わればいいのか?』と思ってきたんです。このまま頑張れば一流の料理人にはなれるかもしれない。だけど、その枠の中に収まってしまいたくなかった。もっと自分の料理の可能性を広げたいと考えたんです」

思い立った江口さんが門を叩いたのは、都内にある「杉並たかいどいちご保育園」。

「『今までとは全く違う世界に飛び込んでみたい』と思って、保育園の給食室という環境を選びました。まずは3ヶ月間だけ、自分が知らない世界を覗いてみようと思ったんです」

「もともと自分のことを"子どもぎらい”だと思っていた」と話す江口さん。
しかし、園での生活を送る中で「そもそも子どもと関わったことがなかっただけ。実際に触れあう中で、素直に反応してくれる子どもたちの姿に興味を持つようになっていった」といいます。

そして、約束の3ヶ月が過ぎるとき、園長先生から「給食の調理以外でも颯良さんができることをやってみない?」と相談を受け、江口さんの食育へのチャレンジがはじまりました。

子どもたち自身が「感じること」を邪魔しない

「自分が経験してきた"料理”というものを通じて子どもたちに何か伝えられることがあるかもしれない」と考えた江口さん。しかし、最初は失敗の連続だったそうです。

「伝えるも何も、そもそも子どもたちとうまくコミュニケーションが取れませんでした。『料理の面白さを伝えたい』という気持ちが先走ってしまって、つい理屈を説明しようとするんですけど、それでは子どもたちは興味をもたないんですよね」

試行錯誤を繰り返す中で、江口さんは1つのルールを作りました。
それは「正解をつくらない」こと。匂いや味についても、自分からは一切答えを提示しません。火が通って野菜の色が変わったとき黄色に見える子もいれば、茶色に見える子もいる。それぞれの子どもたちが五感で感じたことを邪魔することなく見守ることにしました。

「誰かが作った正解を探すのではなく、自分で感じたことを大事にしてほしいと思ったんです。思い返せば僕自身、小学生の頃にテレビに映ったフランス料理に魅了されたのも、名古屋のフレンチレストランで衝撃を受けたのも、誰かの感覚を鵜呑みにしたのではなく、自分自身が心の底から感動した体験だったから。目の前で起こることに素直に反応し、自分の感覚を表現する子どもたちを見ていると、僕自身の原体験も思い起こされましたね」

「間」の演出によって食べる体験を変えていく

「フランス料理では『プレザンテ』という時間があります。いわば『プレゼンテーション』のこと。お客さんに調理前の食材を見てもらったり、取り分ける前の料理を披露したり。それらはお客さんの期待値を高めて、より料理を楽しんでもらったり、美味しいと感じてもらったりするために必要な『間』なんです。
僕は子どもたちとのコミュニケーションにおいても、感動を増幅させるこの『間』をとても大事にしています。」

大切なのは「おいしい」「まずい」という結果や評価ではなく、仮にその時は「おいしい」と思えなかったとしても、「次はどうなんだろう」という期待や楽しみをその先に持たせられるかどうかだと語る江口さん。
「間」があることで、苦手な食材を前にしたときの反応にも変化が見えてくるのだそう。「間」=食べるまでのプロセスが「楽しい」と思えると「もしかしたら美味しいかな」という気持ちが芽生えてくることもあります。
そして、はじめは小さかったその気持ちも、時間とともに少しずつ大きくなっていき、いつしか「食べてみようかな」という気持ちに変わっていく。
そのような小さな感情の変化を待ってあげるためにも、「間」がとても重要だといいます。

「日を追う中で、苦手だったはずのナスを一口食べてみた子がいました。それが自分でも嬉しかったのか、僕に抱きついてきたんです。『間』をつくることで子どもたちの感情が変わっていくのを目の当たりにしました」

「美味しい」「楽しい」につながる感動体験を

結論を急いだり、即効性やタイムパフォーマンスを重視したり、いわゆる"ファスト文化”的な価値観が広がる今の時代。
時「間」や手「間」をかけて物事を味わう意味を知ってほしいと話す江口さん。

先が見通せないことに不安を感じる大人は、「間」を味わう前に、つい未知のことを既知のことに変えたくなります。
でも「間」をじっくり味わった先に「感動」を体験した子どもたちにとって、「間」は何が起こるかわからない不安なものではなく、ワクワクする出来事を予感させるもの。そこに子どもたちの好奇心や探究心が湧き上がってくるのだそう。それは江口さんにとっても新たな発見でした。

「当初、僕の調理している姿を見たら、子どもたちは同じように調理の真似をしたくなるんじゃないかなと予想していたんです。でも、実際はそうではなかった。子どもたちの興味は『次はどんな美味しいものができるんだろう』『次は何やるんだろう』だった。子どもたちの興味は、その先にある『美味しい!』や『楽しい!』に向かっていたんです。調理は、それ自体が目的ではなく、感動体験に辿り着くためのプロセスだったんですよね」

作る、待つ、食べる……それらを断片として切り取るのではなく、一連のプロセスとして味わうこと。そうすることで、たとえば目の前の一皿が「ただの料理」ではなくなり、「美味しい」「楽しい」といった感情を伴った料理に変わります。

子どもたちの中には、お母さんやお父さんに「包丁を使いたい」「出汁を取りたい」と言う子もいるのだそう。
それは「包丁を使えたり出汁を取れるようになったことを見てほしい」のではなく、「こんなに楽しい体験をした」という想いをお母さんやお父さんに純粋に伝えたいから、なのだといいます。
単に包丁の使い方を教えても子どもたちはすぐに飽きてしまうけど、「美味しかった」「楽しかった」という感動体験を味わうと、料理のひとつひとつのプロセスにも自然と興味を持つこともできます。

江口さんは2023年の2月に会社を設立しました。ビジョンは「食を楽しみ続けられる人を育てる」。それが江口さんが考える「食育」の意味なのだといいます。
誰かに正解を与えられるのではなく、自分が「美味しい」「美しい」「楽しい」と感じたことを信じて生きていける世の中を、食を通じて作っていく。
それが保育園の給食室に飛び込んだことから辿り着いた、江口さんにとっての新たな料理の可能性でした。

ライティング:小林拓水
インタビュー・撮影・企画・編集:市川敦史(株式会社Reproduction
撮影協力:杉並たかいどいちご保育園


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