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「インクルーシブ」、そんな言葉がなくても子どもは勝手に学んでいく


保育者時代の失敗・後悔は数あれど、けっこうな頻度で夜中に思い出しては「ヒャッ!」と声をあげそうになってしまうことがあります。

子どもの「かわいそうだね?」という言葉にほとんど何も返せなかった


私の勤めていた園は「インクルーシブ保育」を推していて、いわゆる障害児も積極的に受け入れていました。

中には、(プライバシーのため詳細は避けますが)「目に見えて」障害がわかるお子さんもいました。


異業種転職で保育の道に進んだ私は「福祉施設実習」も経験したことがありません。

小中学校では確かに特別支援級はあったけれど、そのクラスの子と特別に仲良くしたこともありませんでした。

事実上、仕事で初めて障害のある人と長らく時間を共にし、保育(養護と教育)をしなければなりませんでした。

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ある時、担任をしているクラスの男の子が、障害のある下のクラスのAちゃんのお迎えの場面を見て、「かわいそうだね」と(本人にも聞こえるか聞こえないかくらいの)割と大きな声で言いました。

彼はとてもやさしい子で、その言葉も彼なりの共感というか労いの言葉であったと思います。

しかし私はその時心臓がバクバクして、「どうかAちゃんにその言葉が聞こえてませんように」と内心冷や汗をかきながら、やっと彼に絞り出したのが「そうとも限らないよ」という言葉でした。

私はいまだにこの時どう答えるのが正しかったのか(もちろん正解はないのでしょうが)、わかりません。


『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

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時折、Aちゃんがいるクラスにヘルプで入ることがありました。

私はそのクラスに入る度にとても緊張していました。

しかし、そこでAちゃんは本当に自然にクラスの一員でありました。

そして、そのクラスの子ども達もAちゃんを特別視することもなく、しかしAちゃんが困ったことがある時はきわめて当たり前に手を差し伸べていました。(きっとそれはAちゃんが困った時に限らず…なのでしょうが)

Aちゃんが保育所生活が長いこともあるでしょう。

そのクラスの担任が大ベテランの先生で本当に丁寧に子ども達に向き合っていた成果でもあるでしょう。

子ども達は生活や他者からありのままに受け取り、学び、それを言葉や行動に表せているんだな思いました。

そして、自身の未熟さをまざまざと思い知らされたものです。


そんな思い出がこの本の1ページ目をめくった一瞬で思い返されました。

老人はすべてを信じる。/中年はすべてを疑う。/若者はすべてを知っている。/子どもはすべてにぶち当たる。

◆引用:『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』表紙裏・文

私は中年がもう近い年ごろでしょうが、保育所での仕事は「すべてにぶち当たる」状態でした。

あらすじ

優等生の「ぼく」が通い始めたのは、人種も貧富もごちゃまぜのイカした「元・底辺中学校」だった。ただでさえ思春期ってやつなのに、毎日が事件の連続だ。人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり……。何が正しいのか。正しければ何でもいいのか。生きていくうえで本当に大切なことは何か。世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子と パンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。連載中から熱狂的な感想が飛び交った、私的で普遍的な「親子の成長物語」。

◆引用:新潮社特設サイト  https://www.shinchosha.co.jp/ywbg/ より

著者のブレイディみかこさんは福岡出身、渡英し、ロンドンの労働者街にある「最底辺保育所」(本人談)で保育士をした経験があります。以前から「保育福祉」や「階級問題」に積極的に発言をされていたことから気になっていた存在でした。


この本はブレイディみかこさんと、イギリス人の夫の間に生まれた息子さんが中学校生活を通して、会話を重ねながらアイデンティティを模索していく物語です。

なので、この本で描かれるテーマは人種(差別)階級問題がメインになってきます。

子ども達が他者との違いに、いかに気づき、あるいは「違いがあること」と認識せず自然に暮らし、時にはいじめや攻撃的な視線をもったり向けられたりしながらも、受け入れる・共生しているのかが伝わってきます。

これはAちゃんのクラスで受けた印象と同じ感動が伝わってきました。


カテゴライズした方がことはシンプルに進むかもしれないが……

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少しネタバレをすると、この息子さんは「アジア人」にカテゴライズされ仲間意識をもってもらった善意に対し、ひどく戸惑いを覚えます。

「自分はどこにも属せていない」、「属さないことが良いと思っていたがそうではないかもしれない」……そんな戸惑いです。

いわゆるアイデンティティクライシスというものでしょうか。

一方で、私はこの本の前半にあった、息子さんが通う校長先生の言葉を思い出していました。

「僕は、イングリッシュで、ブリティッシュで、ヨーロピアンです。複数のアイデンティティを持っています。どれか一つということではない。それなら全部書けと言われるなら、『イングリッシュ&ブリティッシュ&ヨーロピアン・ヴァリュー』とでもしますか。長くてしょうがないですけど」と校長は笑いながら言った。「無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだか強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には思えません」

◆引用:『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』64p


人種問題と障害者の問題を同列に比較するのは難しいですが、改めて、私と男の子の冒頭の言動を振り返ってみるとやっぱり「障害者」へのカテゴライズの意識があったことは確かですし、私はそれをかみ砕き、言語化するスキルが本当に乏しかったなと思います。


インクルーシブ(包摂)の痛みを誰が引き受ける?

「インクルーシブだ!ダイバーシティだ!共生社会だ!」と威勢よく推し進めることも時には必要かもしれません。

しかし、多様性に富んだ社会へ移行するということは、区切り、区切られてきた仕切りがなくなり、ぶつかり合って時には誰かを傷つけたり傷つけられたりすることなのかもしれません。

お互い傷だらけになりながらも、それでもやっぱり多様な社会の方がいいかもなぁとは思います。

(自分が日本に住み、五体満足で生きている以上、「マジョリティに属している」という暴力性を自覚しつつ……)


そして、「子ども達にどんな世界を生きてほしいか」を、大人の責任として思い描かないといけないなぁと思っています。


……でもそれは杞憂かもしれません。

なぜなら子ども達は環境から勝手にたくましく学んでいくのですから。

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